大気圏突入の断熱圧縮による熱が、船を突破して銀色の皮膚を焦がしていた。墜落していく小型艇のコクピットで、「彼」――銀河連邦コード・404号、SCP財団による暫定指定SCP-████は、震える手で二つの「盗品」を抱きしめていた。
「(クソッ、クソッ! なんでこんな辺境の星まで追ってくるんだ!)」
彼の種族は、精神感応(テレパス)能力に特化した「交渉人」の種族だ。そして彼はその中でも生物学的にありえないほど強力な能力を持っていた。だが、彼はその能力を悪用しすぎた。他者の思考に干渉し、「規則」や「契約」への執着を増幅させ、不利な保険契約を結ばせたり、捜査の手を逃れたりする――いわゆる「認識災害詐欺」。それが母星の元老院にバレて、国外追放処分を受けたのが三ヶ月前。行き場を失った彼は、この地球というカオスな星に目をつけ、さらには手土産として「とんでもないもの」を二つも盗んでしまった。
一つは、日本のとある心霊スポットから盗んだ「黄金色の玉」。これには、とてつもなく強大で、口の悪い老婆の霊力が封じ込められている。触れているだけで指が腐り落ちそうなほどの「負のエネルギー」だ。もう一つは、SCP財団の輸送コンテナからくすねた「小型現実改変アンカー」。空間を固定する装置だが、使い方がよく分からない。
「(保険屋(COSMOS)もしつこいし、財団とかいう現地組織もヤバい! この星、危険すぎる! 適当な場所に降りて、ほとぼりが冷めるまで隠れるしか……!)」
モニターに映るのは、日本列島。鳥取県、境港市。そこから、奇妙なほど濃密な霊的磁場を感じる。ここなら、自分の気配を紛れ込ませることができるかもしれない。彼はステルス・フィールドを最大出力に固定し、音もなく市街地へと滑り込んだ。それが、虎の尾を踏む行為だとも知らずに。
◇
2015年、9月下旬。彼岸花が枯れ始め、夕暮れの風に冷たさが混じる刻限。この街の「裏の顔役」である五条悟は、アフリカ大陸のシャーマン・コミュニティへ出張中である。最強の不在。しかし、今のところ境港は平穏を保っていた。
水木しげるロードの外れ。下校中の小鳥遊六花は、気怠げにポケットに手を突っ込んで歩いていた。サングラス越しの視線は、隣を歩く少年に向けられている。
「……で? 何それ」
「あ、これ? 真田さんに貰ったんだ」
佐藤蓮が、掌に乗る小さなデバイスを見せた。J-GOC(日本超常現象対策協議会)特別技術顧問、真田志郎。この世界における蓮の後見人であり、転生者としての先輩でもある人物だ。デバイスは無骨な黒い箱で、どこかレトロフューチャーな雰囲気を漂わせている。
「『君は存在が希薄になりやすいから、緊急時はこれを起動しなさい』って言われたんだけど……使い方がよく分からなくて」
蓮は苦笑しながら、デバイスを弄っている。彼の「影の薄さ」は、転生者特有の世界とのズレに起因するものだ。最近は街の空気にも馴染んできたが、それでもふとした瞬間に認識の外へ消えてしまいそうになる危うさがある。
「ふーん。まあ、お守りみたいなもんでしょ」
六花が興味なさそうに答えた、その時だった。ヒュンッ……。爆音はない。だが、鼓膜の内側を針でつつかれたような、不快な高周波が脳を揺らした。六花が瞬時に空を見上げる。蒼い六眼(りくがん)が、光学迷彩で隠蔽された落下物を捉えた。
「……ステルス? いや、位相がズレてる。何か落ちてくる!」
ズッ……ドォン。商店街の路地裏。古い雑居ビルの隙間に、それは「軟着陸」した。衝撃波も火災もない。まるで空間の裂け目から吐き出されたように、アスファルトの上に銀色の異形が転がり出た。六花と蓮は、反射的に現場へと駆け寄った。
そこにいたのは、身長一メートルほどの小柄な宇宙人(グレイタイプ)だった。彼は二つの「盗品」を抱え、ガタガタと震えながら周囲を警戒している。その目と合った瞬間、六花は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「(……なに、こいつ。呪力じゃない。もっと異質な……『強迫観念』?)」
宇宙人の瞳から放たれる不可視の波動。それは、「認識災害(コグニトハザード)」の一種だった。他者の思考に干渉し、融通を利かなくさせ、ルールや手順への固執を極端に強める精神汚染。キキーッ!! 六花が分析する間もなく、路地の入り口に黒塗りのセダンが滑り込んできた。タイヤが焼ける匂い。ドアが開き、黒いスーツにサングラスの男たちが降りてくる。MIB(メン・イン・ブラック)。この世界において、地球外生命体を管理・隠蔽する実在の組織。
「民間人二名。接触深度レベル3。……プロトコル・オメガ発動」
エージェントの声は、機械のように無機質だった。普段なら行うはずの身分提示も、退去勧告もない。彼らはすでに、宇宙人の放つ認識災害に汚染されていたのだ。「隠蔽しなければならない」「手順(プロトコル)を完遂しなければならない」という強迫観念が、倫理や柔軟性を塗り潰している。
「……即時、消去する」
若手のエージェントが、懐からスティック状の装置――ニューラライザーを取り出した。
「おい、待て!」
六花が制止しようとするが、その動作は「事務的な処理」の前では遅すぎた。カッ!! 路地裏を、強烈な赤い閃光が焼き尽くした。六花は咄嗟に呪力で網膜を保護し、サングラスの遮光機能を最大にした。だが、隣にいた蓮は――。
「……あ、」
蓮の体が、糸が切れた人形のように揺れた。彼の手から、真田に貰ったデバイスが滑り落ちる。カラン、と乾いた音が響く。蓮の瞳から、先ほどまでの理知的な光が消えた。まるで、世界との「繋ぎ目(アンカー)」を引き抜かれたかのように、その存在感が急速に希薄になっていく。
「……蓮?」
六花が肩を掴む。蓮はゆっくりと瞬きをして、虚ろな目で六花を見た。そこには、幼馴染に向ける親愛も、転生者としての共犯意識もない。あるのは、ただの「他人」に向ける困惑だけだ。
「……えっと。君、誰だっけ? あ、クラスメイトの小鳥遊さん……かな。僕、なんでこんな所に……塾に行かなきゃいけないのに」
忘却。それは単なる記憶喪失ではない。蓮という少年の、この数年間の「積み重ね」が、事務的に、一方的に、デリートキー一つで削除されたのだ。
「……おい、黒服」
六花の声から温度が消えた。激情ではない。五条悟譲りの、絶対零度の冷徹さ。彼女はゆっくりと立ち上がり、MIBのエージェントたちを睨みつけた。
「今、何をした? そいつは一般人だ。事前の警告もなしに、脳に干渉したのか?」
「……サングラスか。効果不十分」
エージェントは六花の問いに答えず、ただ作業の遅延を疎むように舌打ちした。
「再照射準備。……対象の完全消去を推奨」
「推奨……? ふざけるな」
六花の周囲で、大気が重く軋み始めた。蒼い呪力が練り上げられていく。
一触即発の空気を、上空からの乱入者が切り裂いた。
「見つけたぞォォォ! ワシの力を返せ、このドロボウ宇宙人!!」
ダミ声と共に、アーケードの屋根から招き猫が降ってきた。ターボババアである。続いて、二人の高校生が着地する。綾瀬桃と、変身状態のオカルン(高倉健)。オカルンは白髪に赤いマスクのような模様を浮かべ、気怠げに猫背で立っている。
「……チッ。人が多いな。萎えるわ」
オカルンはボソリと呟いたが、その全身からは鋭利な刃物のような殺気が立ち昇っている。彼らもまた、宇宙人の認識災害の影響を受けていた。「取り返さなければならない」「敵は排除しなければならない」という攻撃性が、普段よりも増幅されている。
「あいつらも関係者か。まとめて消すぞ」
MIBがターゲットを変更しようとした、その時。キィィィィ……! 路地の反対側から、さらに二つの組織が雪崩れ込んできた。一つは、白衣とタクティカルベストを着用した部隊。SCP財団の機動部隊だ。もう一つは、全身を黒いハイテク装備で固めた集団。世界オカルト連合(GOC)の打撃班だ。さらに上空からは、ホバーバイクに乗った二人組――COSMOS(銀河金融保険公社)の水森楓と穂村燐が降り立つ。狭い路地裏に、地球上の主要な隠蔽・管理組織が集結してしまった。そして、全員の目が異常なほど殺気立っている。対話の余地などない。あるのは、互いの「正義」と「手順」の押し付け合いだけだ。
「――MIB。その少年への追加処置を直ちに停止しろ」
財団の隊長が、MIBに銃口を向けながら冷徹に告げた。普段ならもう少し友好的なはずだが、今の彼らに笑顔はない。
「貴様らの使うニューラライザーは不完全だ。対象(宇宙人)は認識災害クラスのアノマリーだ。接触した民間人は、クラスA記憶処理薬による完全な『洗浄』が必要だ。身柄をこちらへ渡せ。これは決定事項だ」
「断る」
MIBのエージェントが即答する。
「ここは我々の管轄だ。光線処理で十分だ。薬物による記憶除去など、リスクが高すぎる。貴様ら財団こそ、即時撤退しろ」
「どちらも手ぬるい!」
GOCの指揮官が割り込む。彼の手には、重火器が握られている。
「対象はパラ・スレット(超常脅威)だ。収容も隠蔽もリスクが高い。国連決議に基づき、現場で焼却処分(リキデーション)する。民間人ごと焼き払うのが、最も確実な『防疫』だ」
異常だ。六花は、蓮を背に庇いながら、大人たちの狂気を感じ取っていた。MIBも、財団も、GOCも。全員が、アノマリーの影響下にある。「自分の組織のやり方こそが絶対である」という強迫観念に囚われ、柔軟な思考ができなくなっている。
「……臭うな」
COSMOSの水森楓が、鼻をひくつかせた。彼もまた、普段の冷静さを欠き、苛立ちを隠せない様子だ。
「全員、嘘はついていない。……だからこそタチが悪い。自分の都合を『正義』だと信じ込んで疑わない、狂信者の匂いだ。……おい、MIBの人。その宇宙人は保険金詐欺の常習犯だ。証拠隠滅(記憶消去)は損害査定の妨害になる。現場保存しろ。さもなくば、実力行使で排除する(課長が)」
その横で穂村燐(課長)が、無言でMES(印象操作デバイス)を起動し、構えを取った。銃口が向け合う。だが、誰も撃たない。条約の条文を怒鳴り合い、互いの正当性を主張し合うだけの、奇妙で不気味な膠着状態。それが逆に、張り詰めた糸のような緊張感を生んでいた。
「……どうする? 六花ちゃん」
綾瀬桃が、冷や汗を流しながら六花に問いかける。
「このままじゃ、全員で殺し合いだよ」
「……分かってる」
六花は、虚ろな目をした蓮の手を握りしめた。その温もりが、彼女を現実に繋ぎ止める。
「(パパはいない。真田さんも、すぐには来れない。……私がやるしかない)」
六花はサングラスを外した。蒼い六眼が、路地裏に満ちる狂気と、宇宙人の抱える「箱(アンカー)」の構造を見据える。
「オカルン。……聞こえる?」
六花は視線を動かさずに呼びかけた。
「……ああ。聞こえてるぜ」
オカルンが、赤いマスクの下でニヤリと笑った。彼もまた、状況の異常さを肌で感じていた。
「あの宇宙人が持ってる『箱』……あれが元凶だよ。あれを壊さないと、この大人たちは止まらない」
「……なるほど。で、どうする?」
「私が道を作る。アンタの速さで、あの箱を奪って」
破滅への秒読み。沈黙のプロトコルが破られ、暴力の嵐が吹き荒れようとした、その瞬間。ビリッ……! 空間の裂け目が、強引にこじ開けられた。紫色の「境界」の向こうから、冷徹な声が響き渡った。
「――そこまでよ。駄犬ども」
八雲。J-GOC(日本超常現象対策協議会)支部長であり、この魔都・境港の管理者代理。彼女が、黒スーツの部下たちを引き連れて、混沌の渦中に降り立った。空間の裂け目から現れた八雲は、氷のような冷徹さで路地裏を制圧した。彼女の背後には、J-GOCの武装部隊が整列し、銃口を国際機関のエージェントたちに向けている。
「J-GOC権限で通達する」
八雲の声が、張り詰めた空気を震わせた。
「全組織、即時活動を停止せよ。貴官らの行動は、『境港特別協定』第4条――霊的特異点における無許可の大規模術式・薬剤行使の禁止に抵触している」
彼女の言葉は正論だ。だが、そこには普段のような「余裕」や「柔軟さ」が欠けている。彼女の瞳もまた、どこか虚ろで、法律の条文を読み上げる機械のように冷たい。彼女もまた、宇宙人の放つ認識災害の影響下にあったのだ。「日本の主権を守らなければならない」「ルールを逸脱する者は排除しなければならない」という強迫観念が、彼女の思考を塗り潰している。
「SCP財団、GOC、MIB。これ以上の主権侵害は、日本国政府への宣戦布告とみなす。……私の街を吹き飛ばす気? 全員まとめて『境界』の彼方に送るわよ」
八雲が扇子を開くと、空間に無数の「スキマ」が開き、そこから不気味な瞳が覗いた。本来なら交渉で解決するはずの場面で、彼女は最強硬手段をチラつかせている。
「……拒否する」
GOCの指揮官が即答した。彼もまた、引かない。
「国連憲章第180条。クラス・オレンジの脅威に対する現場指揮権は、現地法に優先する。邪魔をするなら、J-GOCごと焼却する」
「認めん」
財団の隊長も叫ぶ。
「収容が最優先だ。政治的な駆け引きなど無意味だ。対象を引き渡せ」
「我々の管轄だ!」
MIBも譲らない。――カチャリ。数百の安全装置が解除される音が重なった。全員が「自分たちの正義」に酔いしれ、引くに引けないデッドロック(膠着状態)に陥っている。このままでは、誰かが引き金を引いた瞬間、境港の一角が消し飛ぶことになる。
「(……ダメだ。話が通じない)」
小鳥遊六花は、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。彼女自身の中にも、黒い感情が湧き上がってくる。『面倒くさい。全員、無下限で潰してしまえばいい』『蓮の記憶を消した奴らは死んで償うべきだ』そんな、短絡的で破壊的な思考が、脳裏をよぎる。
「(……違う。これは私の考えじゃない)」
六花は自分の頬を強くつねった。痛みで意識を現実に引き戻す。
「(あの『箱(アンカー)』が、みんなの思考を固定してるんだ)」
その時。中心にいた泥棒宇宙人が、八雲の放つ強烈なプレッシャーに耐えきれず、完全にパニックを起こした。
「ヒィィィ! コワイ! 地球、コワイ!!日本、コワイ!!」
彼の手が、財団から盗んだ「現実改変アンカー」と、オカルンの「金玉」を同時に握り潰すように起動させた。科学と呪い。相反する二つの力が、最悪の形で融合する。ブォン……!! 世界の色が反転した。路地裏の風景が、メビウスの輪のようにねじれ、空が赤黒い幾何学模様に覆われる。外部からの観測を遮断し、内部の因果を固定する「閉鎖空間」が完成してしまったのだ。
「……空間閉鎖を確認!」
GOC指揮官が叫ぶ。
「内部からの脅威排除を承認! 総員、攻撃開始!」
「撃つな! この閉鎖空間で火器を使えば、跳弾で全滅するぞ!」
財団が制止するが、GOCの殺意は止まらない。COSMOSの水森楓が、苦渋の表情で叫んだ。
「……臭わない!全員、正気じゃない!」
穂村燐(課長)がMES(印象操作)を最大出力にし、水森と自分を守る障壁を展開する。
この狂った箱庭の中で、唯一「世界からズレていた」者たちが動き出す。
「……ねえ、眼鏡」
六花が、隣に立つ変身状態のオカルン(高倉健)に声をかけた。彼女の声は静かだが、そこには確固たる意志が宿っていた。
「……あ? なんだよ」
オカルンは気怠げに答えた。彼の中にはターボババアという強力な呪い(別人格)が存在するため、宇宙人の精神干渉に対してある程度の耐性を持っている。
「アンタ、まだ正気?」
「……ああ。ババアが頭の中でギャーギャーうるさいからな。おかげで、周りのドロドロした空気には染まらずに済んでる。……まあ、ムカつくことには変わりないけどな」
オカルンは赤いマスクの下で、ニヤリと笑った。その瞳は、狂乱する大人たちを冷ややかに見据えている。
「なら、手伝って。私が八雲さんたちの視線を引く。アンタの速さで、あの宇宙人が持ってる『箱』を引っこ抜いて」
「……箱? 金玉じゃなくてか?」
「箱が壊れれば、みんな正気に戻る。そうすれば金玉も返ってくるし、蓮の記憶も戻せる。……一瞬よ。できる?」
オカルンは猫背を伸ばし、クラウチングスタートの構えを取った。その脚に、爆発的な呪力がチャージされていく。
「……俺を誰だと思ってるんだ? あの石頭の大人たちが瞬きする間に、終わらせてやるよ」
「いっけェェェェ! オカルン!!」
綾瀬桃が叫ぶ。六花が前に出た。彼女はサングラスを放り投げ、蒼い六眼を露わにした。そして、ありったけの呪力を解放した。
「――八雲さん! 財団! GOC! MIB!」
彼女の叫びが、閉鎖空間に響き渡る。全員の視線が、一斉に少女へと向いた。
「私の友達(蓮)の記憶を返さないなら……私が全員の相手をする!!」
ドォォォォン!! 六花を中心に、蒼い衝撃波が広がった。それは攻撃ではない。純粋な威圧。「敵意(ヘイト)」を一身に集めるための、命がけの挑発だ。
「……小鳥遊六花」
八雲の瞳が、冷徹な光を帯びて六花を捉えた。
「悟の娘だろうと、規律を乱すなら容赦はしない」
八雲が扇子を振るう。GOCが銃口を向ける。財団が捕獲ネットを構える。全ての殺意が、六花という一点に収束した。その、刹那。――ザッ!! 音が置き去りにされた。認識災害で思考が鈍っていた大人たちの知覚を遥かに超える速度で、白い稲妻が戦場を駆け抜けた。オカルンだ。彼はGOCの弾幕をすり抜け、財団の盾を飛び越え、八雲の展開した結界の僅かな隙間(スキマ)を縫って疾走した。
「(……遅い。止まって見えるぜ)」
オカルンの視界の中で、世界はスローモーションだった。パニックに陥っている宇宙人の顔が、ゆっくりと歪んでいく。
「いただくぜ、ドロボウ野郎」
オカルンは宇宙人の手から「金玉」ではなく、あえて「現実改変アンカー(箱)」をひったくった。そのままの勢いで、壁を蹴り、宙高く跳躍する。
「六花ちゃん!!」
オカルンが叫び、奪った箱を空へ放り投げた。六花はすでに構えていた。大人たちの攻撃を、最小限の動き(無下限による防御と体術)でいなしながら、彼女は右手を空へ向けた。指先に、収束した呪力が輝く。
「――術式順転・『蒼(あお)』!!」
引力の塊が、空中の箱に直撃した。バキィィィン!! 幾何学模様の箱が粉砕され、その破片がキラキラと光の粒子になって消えていく。その瞬間。世界を覆っていた赤黒いフィルターが、嘘のように晴れた。路地裏に満ちていた、あの刺すような殺気と、融通の利かない強迫観念が、潮が引くように消滅する。
「……ッ、はあ!」
八雲が大きく息を吐き、扇子を下ろした。彼女の瞳から、先ほどまでの機械的な冷徹さが消え、いつもの知的な光が戻ってくる。彼女は周囲を見渡し、自分が何をしでかそうとしていたかを理解して、青ざめた。
「(……私としたことが。境港の中心で、境界の大規模開放なんて……本気で街を地図から消す気だったの?)」
他の組織も同様だった。GOCの指揮官が、自分の握っている重火器を見て呆然とする。
「……待て。私はなぜ、市街地での焼却処分(リキデーション)を承認しようと……?」
財団の隊長も、構えていた記憶処理スプレーを下ろした。
「……収容プロトコル優先とはいえ、民間人への無差別投与は倫理委員会案件だぞ。誰だ、こんな命令を出したのは」
MIBのエージェントXも、サングラスの位置を直し、深いため息をついた。
「……どうやら、全員がキツネにつままれていたようだな。いや、宇宙人か」
全員が、互いに顔を見合わせる。気まずい沈黙。そこにはもう、敵対心はなく、ただ「とんでもないミスを犯しかけた」という共通のバツの悪さだけが漂っていた。
「……さて」
最初に口火を切ったのは、やはりこの場の管理者である八雲だった。彼女は努めて冷静に、しかし威厳を持って告げた。
「全員、頭は冷えたかしら? 今の騒動は、あの宇宙人が持ち込んだアノマリーによる認識災害事故。……私たちの『失態』は、互いに不問としましょう。それが大人の解決策よ」
「……異議なし」
GOCと財団が同時に頷いた。これ以上揉めて、自分のミスを報告書に書かれるのは御免だ。
「では、事後処理に移ります」
COSMOSの水森楓が、電卓を叩きながら進み出た。彼の横では、穂村燐(課長)が、へたり込んでいる宇宙人の首根っこを掴んでいた。
「この詐欺師(エイリアン)の身柄ですが、まずは我々COSMOSが預かります。銀河法違反および保険金詐欺の損害賠償請求が先です。……その後、SCP財団に引き渡します。それでいいですね?」
「……フン。収容できるなら文句はない」
財団隊長が渋々承諾する。
「そして、そちらの少年たちの『落とし物』ですが」
水森が視線を向ける先には、オカルン(高倉健)が立っていた。彼は変身を解き、いつもの眼鏡をかけた猫背の少年に戻っていた。その手には、しっかりと「黄金色の玉」が握られている。
「……ふぅ。やっと戻ってきた。綾瀬さん、これでもう大丈夫ですよ」
「よかったぁ! もう、マジで疲れたし!」
綾瀬桃がその場にしゃがみ込む。招き猫のターボババアが、「ケッ、手間かけさせおって!」と悪態をつきながら、オカルンの肩によじ登った。八雲は彼らを見て、小さく微笑んだ。
「……久しぶりね、高倉君、綾瀬さん。相変わらず、変なものと縁があるようで」
「あ、八雲さん。ご無沙汰してます」
オカルンがぺこりと頭を下げる。彼らは以前、別の怪異事件でJ-GOCと協力関係にあったのだ。
「今回は助かったわ。君たちの『速さ』がなければ、私は自分の街を自分で壊していたかもしれない」
そして、最後に残された問題。六花は、まだ虚ろな目をしている蓮の手を引いて、MIBのエージェントの前に立った。
「……おい。分かってるよね?」
六花の声は低い。だが、先ほどまでの殺意はない。あるのは、友人を傷つけられた静かな怒りと、要求だ。
「……あ、ああ。すまなかった」
エージェントY(若手)が、バツが悪そうに頭を下げた。彼は懐から、先ほど六花たちが奪おうとしていた「デ・ニューラライザー(記憶修復機)」を取り出した。
「精神汚染下とはいえ、確認を怠ったのはこちらのミスだ。……すぐに戻す」
エージェントは蓮の前に立ち、装置を構えた。今度は、乱暴な光ではない。優しく、波長を調整された青い光が、蓮の瞳に吸い込まれていく。
「……ん」
蓮が瞬きをした。一度、二度。その瞳に、理知的な光が戻ってくる。世界とのピントが再び合い、彼の「存在」が確かなものとして固定される。
「……あれ? 六花?」
蓮は不思議そうに周囲を見回した。武装した大人たち、宇宙人、招き猫。非日常の光景を見ても、彼はもう動じない。それが彼にとっての「日常」だからだ。
「僕、なんで立ってるんだろ。さっきまで、すごく怖い夢を見てた気がする。君のことを忘れちゃう、嫌な夢……」
蓮が頭を振る。六花は、その様子を見て、大きく息を吐き出した。張り詰めていた糸が切れ、全身の力が抜けていく。
「……バカ蓮。夢じゃないよ。でも、もう終わった。帰るよ」
「え? あ、痛っ。……うん」
蓮は状況が飲み込めないまま、六花に引かれて歩き出した。
事態は収束した。宇宙人はCOSMOSに連行され(その後、財団の収容サイトへ送られる運命だ)、国際機関の部隊は撤収を開始する。
「じゃあな、六花ちゃん!」
綾瀬桃が手を振る。
「またなんかあったら連絡して! 今度はもっとマシな理由で会おうぜ!」
「……そうだね。金玉探し以外で」
六花も小さく手を振り返す。オカルンも、眼鏡の位置を直しながら会釈した。
「それじゃ、お元気で。……蓮君も、災難でしたね」
「え? あ、はい。どうも……?」
よく分かっていない蓮を置いて、ダンダダン組は風のように去っていった。彼らもまた、彼らの日常(戦い)へ戻っていくのだ。
八雲が、去り際に六花に声をかけた。
「……六花。今日は、貴女に助けられたわね。悟がいなくても、貴女はもう立派な『守り人』よ」
「……別に、街のためとか高尚なものじゃないし」
六花はそっぽを向いた。八雲はクスクスと笑い、空間のスキマへと消えていった。
◇
夕闇が迫る水木しげるロード。静けさを取り戻した商店街を、六花と蓮は並んで歩いていた。
「……結局、何だったの?」
蓮が尋ねる。
「んー。まあ、大人の事情?」
「またそれかぁ」
蓮は苦笑いして、ポケットに入れていたデバイスを取り出した。真田から貰った「お守り」。それが微かに熱を持っていることに気づく。
「(……もしかして、僕が記憶を消されてた間、これが僕の存在を繋ぎ止めてくれてたのかな)」
蓮はなんとなくそう感じ、デバイスを大切に握りしめた。ブブッ。六花のスマホが震えた。画面を見ると、LINEの通知。送信者は『悟くん』。
『やっほー六花! 元気ー? こっちは大自然! ライオンと呪霊の追いかけっこ見てるよ! お土産に、現地のシャーマンが作った「呪いの木彫り仮面(特級)」買ったから! 玄関に飾ると魔除けになるらしいよ☆』
添付された写真には、サバンナの夕日をバックに、不気味な仮面をつけてダブルピースをする五条悟の姿があった。こっちが死ぬ思いで主権侵害と戦っていたというのに、この能天気さである。
「……はぁ」
六花は深いため息をつき、素早く文字を打ち込んだ。
『いらない。燃やして』
送信ボタンを押し、スマホをポケットに突っ込む。隣で蓮が「五条さん?」と覗き込む。
「……平和だね」
「……平和ボケしてるだけよ」
六花は悪態をついたが、その表情は少しだけ緩んでいた。最強がいなくても、彼らの日常は守られた。少しのトラブルと、頼もしい友人たちのおかげで。