仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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038 春の嵐と白浜中の怪物

 

 2016年、4月。

 日本海から吹き付ける湿った春風が、弓ヶ浜半島の白砂と、防風林である黒松の枝を揺らしている。その一角、かつては鬱蒼とした松林だった広大な敷地を切り拓いて建設された、真新しい学び舎──私立・境港白浜中学校。

 J-GOC(日本政府オカルト連合)や財団の出資を受けて設立されたこの学校は、表向きは「地域振興と国際的な人材育成」を掲げる進学校である。しかし、その実態は、近隣で頻発する超常現象から子供たちを物理的・霊的に保護するための「要塞」としての機能も兼ね備えていた。校門には空港並みのセキュリティゲート。窓ガラスは全て防弾・防爆仕様。そして何より、公立校とは比較にならない充実したスポーツ施設──全天候型陸上トラック、空調完備の巨大アリーナ、最新のマシンが並ぶトレーニングルーム──が、新入生たちを待ち受けていた。

 桜の花びらが舞い散る通学路。真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、期待と不安の入り混じった表情で校門をくぐっていく。

 

「……ねえ、蓮。このブレザー、やっぱり肩周りが窮屈なんだけど」

 

 不満げに袖を引っぱったのは、小鳥遊六花だ。彼女は、周囲の女子生徒たちよりも頭一つ分背が高かった。小学校時代から発育が良く、中学生になった今、その身長はすでに160cm代後半に達し、クラスの女子の中で一番の長身となっていた。すらりと伸びた手足はモデルのように華奢に見えるが、その実、五条悟による「遊び(という名のスパルタ組手)」で培われたインナーマッスルが、鋼のようにしなやかに全身を支えている。深い紺色のブレザーと、グレーのチェック柄スカート。彼女が着ると、それはただの制服ではなく、最新モードの衣装のように洗練されて見えた。

 

「そう? 似合ってるよ。サイズもオーダーメイドだったはずだし」

 

 隣を歩く佐藤蓮が苦笑する。彼はまだ少し大きめの制服に着られている感があるが、その表情は穏やかだ。

 

「窮屈に感じるのは、六花の姿勢が良すぎるからじゃないかな。体幹がしっかりしてる証拠だよ」

 

「……ふーん。まあ、動きにくくなければいいけど」

 

 六花は淡々と答えた。彼女は自分が周囲とは「違う」ことを自覚している。視線の高さも、聞こえる音の範囲も、肌で感じる空気の流れも、凡人とは解像度が違う。だが、それを鼻にかけるつもりは毛頭ない。

 

 ◇

 

 ホームルームの時間。1年A組の教室は、まだ互いを知らない新入生たちの緊張感に包まれていた。六花は教室の一番後ろの席(背が高いので指定席だ)で、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。

 ガララッ!! 勢いよく扉が開く。

 

「よーし! 全員席に着け! 今日からお前らの担任になる、鵺野鳴介(ぬえのめいすけ)だ!!」

 

 教室に入ってきたのは、黒いジャージに白衣を羽織り、左手に黒い革手袋をした、あの「太眉」の男だった。

 

「担当教科は国語、そして体育だ! 先生はちょっとばかり霊感が強くてな。お化けや妖怪の悩みがあったら、いつでも相談に乗るぞー!!」

 

 教室中がざわつく。「えっ、何この熱血教師……」「手袋なに?」「霊感ってマジ?」ドン引きする生徒もいれば、『地獄先生ぬ〜べ〜』の噂を聞いて興味津々の生徒もいる。そんな中、鵺野の視線が教室後方の二人に止まった。

 

「おっ! 六花に蓮じゃないか! 小学校の卒業以来だな!」

 

 鵺野はニカッと笑い、親しげに手を振った。彼は以前、境港第二小学校に勤務しており、その頃から六花たちとは(怪異事件を通じて)ガッツリ関わっていた。六花たちの「事情」も、その背後にいる五条悟や八雲の存在も熟知している。

 

「……やっぱりここに来てたんだ、ぬ~べ~」

 

 六花が小さくため息をつく。

 

「先生、その自己紹介、中学でもやるんだ。裏の人たちに『目立ちすぎるな』って怒られてなかった?」

 

「うっ……痛いところを突くな、六花」

 

 鵺野は苦笑いしつつ、黒板に名前を書いた。

 

「まあ、お前たちのことはよく知ってる。特に六花! お前、ここでは『力』の加減に気をつけろよ? ここは設備がいいとはいえ、お前の本気には耐えられないかもしれんからな」

 

「分かってるってば。私は優等生として平和に過ごすつもりだから。……向こうから喧嘩売ってこなければね」

 

 六花は涼しい顔で答えた。クラスメートたちは、「あの小鳥遊さん、先生と知り合い?」「ぬ~べ~って呼んだ?」と、すでに彼女を一目置き始めていた。

 

 ◇

 

 午後。新入生合同の体力テストが、巨大なアリーナで行われていた。バスケットコートが3面も取れる広大な空間に、数種類の測定ブースが設置されている。生徒たちは男女別のグループに分かれ、それぞれの種目を回っていた。

 六花は指定のジャージに着替えていた。紺色に白のラインが入ったシンプルなデザインだが、彼女が着るとスポーツウェアのCMのようだ。長い手足が、ジャージの野暮ったさを打ち消している。

 

「……さて。と」

 

 六花は最初の種目、握力測定の列に並んだ。担当教員は鵺野だ。

 

「おい六花。いいか、絶対に呪力を使うなよ?」

 

 鵺野が小声で釘を刺す。

 

「お前の『呪力強化』を使ったら、測定器が壊れるどころか、データが参考記録になっちまう。ここは純粋な『中学1年生』としてのデータを取る場所だ」

 

「分かってるってば。ズルはしない主義よ」

 

 六花は心外だと言わんばかりに眉をひそめた。彼女にとって、呪力を使わずに身体を動かすことは、むしろ日常的なトレーニングの一環だ。五条悟との「遊び」では、呪力なしの素手で触れなければ一本取れないルールもあった。

 六花の番が回ってきた。彼女はデジタル式の握力計を受け取る。グリップの幅を自分の掌に合わせて調整する。指の第二関節が直角にかかる位置。基本に忠実だ。

 

「ふぅ……」

 

 六花は軽く息を吐き、足を肩幅に開いた。リラックスした立ち姿。周囲の女子生徒たちが、「綺麗だな……」「モデルみたい」とひそひそ話している。

 ──スッ。六花が右手の握力計を構える。腕を自然に下ろし、体幹と連動させる。

 瞬間。彼女のジャージの上からでも分かるほど、前腕の筋肉(橈側手根屈筋)が波打った。血管が浮き出るほどではない。しかし、筋肉の収縮が一瞬で最大値に達する「初動」の速さが異常だった。指先だけでなく、背筋から肩、そして腕へと力が伝達される。

 ピッ。電子音が鳴る。

 六花は涼しい顔で力を抜き、液晶画面を確認した。そこには、ありふれた女子中学生の数値ではない数字が表示されていた。

 

『54.5 kg』

 

 一瞬、周囲の空気が止まった。中学1年女子の平均は、15kg〜20kg程度。男子の10点満点基準である56kgにあと一歩及ばないものの、それに匹敵する数値だ。運動部の3年生男子でも、50kgを超えれば「力持ち」と呼ばれるレベルである。

 

「……ん。まあ、こんなもんか」

 

 六花は特に驚く様子もなく、鵺野に測定器を返した。(昨日は55kgいったけど、今日は少し湿気があるから滑ったかな)内心でそんな分析をする余裕すらあった。

 

「……おい、六花。今、本当に『素』だったか?」

 

 鵺野が引きつった顔で尋ねる。

 

「うん。丹田に力も入れてないし、呪力の巡りも止めてたよ」

 

「……マジか」

 

 鵺野は冷や汗を流した。(……呪力強化なしで、これか。五条先生のスパルタ教育の賜物か、それとも生まれ持った『天与』に近い肉体才能(ギフテッド)か。某アイドルのように『ゴリラ』と呼ばれる素質が十分にあるぞ……)

 後ろに並んでいた女子生徒が、画面の数値を覗き込み、小さな悲鳴を上げた。

 

「えっ、54キロ!? 嘘でしょ!?」

 

「なにそれ、お父さんより強いじゃん!」

 

「小鳥遊さん、何部に入るの? 柔道部?」

 

 アリーナの一角がざわつき始めた。しかし六花は、「握り方のコツがあるだけだよ」と、あくまで涼しい顔で次の種目へ向かった。

 

 ◇

 

 続く種目でも、六花のパフォーマンスは際立っていた。ただし、握力のような「異常値」ではなく、洗練された身体操作による「高得点」の連発だった。

 上体起こし(腹筋)。マットの上で仰向けになり、蓮が六花の足を押さえる。

 

「……蓮、しっかり押さえててよ。浮くから」

 

「了解。……お手柔らかにね」

 

「よーい、始め!」ストップウォッチの音と共に、六花の上体が跳ね起きた。シュッ、シュッ、シュッ。速い。だが、無茶な速さではない。リズムが一定なのだ。腹直筋だけでなく、腸腰筋や大腿直筋を連動させ、負荷を全身に分散させる身体操作。呼吸のリズムも乱れない。記録:36回(30秒間)。男子の10点満点基準(35回前後)をわずかに上回るスコア。無駄のない動きは、見ていて美しいとさえ感じさせた。

 長座体前屈。柔軟性のテストだ。六花は測定器の前に座り、ゆっくりと上体を前に倒していく。ここでも彼女の「機能美」が発揮された。股関節が滑らかに回転し、背骨が美しいカーブを描く。長いリーチも相まって、記録は68cm。測定器の限界に近い数値だ。まるで猫のような柔軟性。筋肉の質が、剛と柔を兼ね備えている証拠だ。

 そして、アリーナ内での最後にして最大の種目、反復横跳び。六花はラインの上に立った。重心を低く落とす。膝の抜き方が、武術の構えに近い。

 

「始め!」

 

 タン、タン、タン! シューズが床を噛む音が、小気味よいリズムを刻む。目にも止まらぬ速さ、というわけではない。だが、無駄が一切ない。右へ、中央へ、左へ。重心移動のロスが全くないのだ。普通なら切り返しで身体が流れるところを、彼女は体幹の強さでピタリと止め、その反動を次の動きへのエネルギーに変えている。接地時間が極端に短い。床を蹴るのではなく、弾んでいるような動き。

 20秒後。「……止め!」

 

 記録係の男子生徒が、カウンターを見つめて呟いた。

 

「……えーと、65回です」

 

 周囲から「おおっ」とどよめきが起きる。男子の10点満点基準(63回前後)をきっちりと上回るハイスコア。トップアスリート並みの数値を、帰宅部予定の女子が、汗一つかかずに叩き出した。

 

「……六花ちゃん、すごいね」

 

 蓮がタオルを渡しながら苦笑する。

 

「男子の運動部より速いよ」

 

「別に。リズムに乗ったら止まらなくなっただけ」

 

 六花はタオルで首筋を拭った。息は上がっていない。(……これ以上やると上履きのグリップが負けるから、セーブしたんだけどね。反復横跳びの全国大会ってあったっけ?)そんな感想を飲み込み、彼女は涼しい顔で言った。

 

「それに、蓮くんだって男子の平均は超えてたじゃない」

 

 アリーナの2階ギャラリーから、その様子を見下ろす教師陣がいた。その中に、鵺野も混ざっている。

 

「……鵺野先生。あの小鳥遊という生徒、何者ですか?」

 

 陸上部の顧問が、興奮を抑えきれない様子で尋ねた。

 

「あのバネ、あの体幹。間違いなくオリンピックを狙える素材(ギフテッド)ですよ! ぜひ陸上部に勧誘したいんですが!」

 

「……やめとけ、山岡先生」

 

 鵺野は腕を組み、複雑な表情で六花を見下ろした。

 

「あいつは『規格外』だが、スポーツマンじゃない。戦士(ソルジャー)の肉体だ。……トラックの上で競うには、あいつは実戦的すぎる」

 

「はあ? どういう意味ですか?」

 

「まあ、見てろ。次は50m走だ。あいつの『怪物』ぶりが、一番分かりやすい形で見られるぞ」

 

 生徒たちがぞろぞろとアリーナを出て、屋外のグラウンドへと移動し始めた。春の陽気の中、これから行われるのは、単なる徒競走ではない。「白浜中の伝説」が、静かに幕を開けようとしていた。

 

 ◇

 

 新入生たちの中に、ひと際鋭い視線で小鳥遊六花を見つめる少女がいた。速水冴(はやみさえ)。ポニーテールを高く結い上げた、気の強そうなスポーツ少女だ。彼女は地元のミニバスケットボールクラブのエースであり、小学校時代の体力テストでは常に学年トップ(オールA評価)を独走してきた「努力の女王」だった。

(……小鳥遊六花。噂以上のバケモノね)

 冴は、手元の記録用紙を強く握りしめた。彼女自身の記録も、文句なしの満点評価だ。握力43kg(満点36kg以上)、上体起こし34回(満点29回以上)、反復横跳び58点(満点53点以上)。どれも女子の基準を大きく超え、男子に混じっても上位に近い成績である。

 だが、六花は次元が違った。握力54kg、反復横跳び63点オーバー。しかも、息一つ切らさず、涼しい顔でそれをやってのけている。

(……気に食わない)

 冴にとって、自分の身体能力は「血の滲むような努力の結晶」だった。毎朝のランニング、体幹トレーニング、食事制限。それらを積み上げて勝ち取った数字だ。しかし、あの長身の少女からは、そういった「泥臭い努力」の匂いがしない。あるのは、生まれ持った圧倒的な骨格と、筋肉の質。天賦の才(ギフテッド)。神様が気まぐれで与えすぎた、理不尽なまでのポテンシャル。

(……でも、走りは別よ)

 アリーナからグラウンドへ移動しながら、冴は自分を鼓舞した。パワーやバネだけでは、短距離走は勝てない。スタートの反応、加速のフォーム、そしてトップスピードの維持。技術(テクニック)がモノを言う世界なら、努力してきた自分に分があるはずだ。

 

「ねえ、小鳥遊さん」

 

 スタート地点で、冴は六花に声をかけた。

 

「私、速水。……隣のレーンで走らせてもらうわね」

 

「……ん? ああ、よろしく」

 

 六花は軽く頷いた。その瞳に、敵意や慢心の色はない。ただ純粋に「これから走る」という事実だけを受け入れている、凪のような静けさ。六花にとって冴は「ライバル」ではなく、ただの「隣の走者」に過ぎないのだ。その悪気のない無関心さが、冴のプライドをさらに逆撫でした。

 

 ◇

 

 グラウンドの直線コース。春の日差しが、赤褐色の全天候型トラック(タータン)を照らしている。

 第4レース。第3レーンに速水冴。第4レーンに小鳥遊六花。その他、運動自慢の男子生徒2名が同組になった。

 

「位置について」

 

 スターターを務める鵺野鳴介が、ピストルを高く掲げる。冴はクラウチングスタートの構えを取った。指先を地面につき、腰を上げ、全身をバネのように収縮させる。教科書通りの完璧なフォームだ。対する六花は、スタンディングスタート(立ったままの姿勢)だった。陸上競技としては不利とされる構え。しかし、彼女の重心は低く沈み込み、全身の筋肉がリラックスした状態で「爆発」の時を待っていた。それは、獲物を前にしたネコ科の猛獣が、飛びかかる寸前に見せる静寂に似ていた。

(……スタンディング? 舐めてるの!?)冴は歯を食いしばった。絶対に勝つ。最初の10メートルで置いていく! 

 

「よーい……」

 

 一瞬の静寂。風が止まった。

 パンッ!! 

 乾いた破裂音が響いた瞬間、世界が二つの速度に分かれた。冴のスタートは完璧だった。反応速度0.15秒。誰よりも速く飛び出し、地面を強く蹴って加速する。(よし、勝った……!)そう確信した、コンマ数秒後。

 ドッ!! 

 隣で、空気を引き裂くような音がした。六花だ。彼女の「一歩目」のストライドが、常識外れに大きかった。技術で加速する冴に対し、六花は純粋な脚力(馬力)で地面を蹴り飛ばし、身体を前へ弾き出していた。

 

「……え?」

 

 冴の視界の端を、紺色の影が「カッ飛んで」いった。

 

 ◇

 

 六花は走っていた。いや、それは「走る」というより「跳ぶ」動作の連続だった。地面を蹴るたびに、身体が数メートル前方へスライドしていく。スタンディングスタートの不利など、あの一歩目の爆発的な出力で帳消しにしていた。

 彼女にとって、50mという距離は短すぎる。五条悟との鬼ごっこで、足場の悪い山道を駆け回っていた彼女にとって、整備された平坦なトラックなど、摩擦のない氷の上を滑るようなものだった。

 風を切る音だけが鼓膜を打つ。周りの景色が流れる。隣を走っていたはずの男子生徒たちが、スローモーションのように後方へ置き去りにされていく。

(……フォーム、ちょっと乱れたかな。右足の蹴りが強すぎた)

 そんな冷静な自己分析をする余裕を残したまま、六花はゴールラインを駆け抜けた。

 ピッ。ゴール地点にいた計測係のストップウォッチが押される。

 その約1秒後。全力を出し切った冴が、男子生徒たちとほぼ同時にゴールへ飛び込んだ。冴のタイムは7秒4。女子の満点基準(7秒7以下)を余裕でクリアし、陸上部員でもエース級の好記録だ。だが、今の彼女に喜びはなかった。全員の視線が、遥か先で減速し、涼しい顔で振り返った六花に注がれていた。

 

「……おい、係。タイムは?」

 

 鵺野が、信じられないものを見る目で尋ねた。計測係の陸上部員が、震える手でストップウォッチを見せた。そこには、中学校の体力テストで出るはずのない数字が刻まれていた。

 

『6秒5』

 

 グラウンドが一瞬、水を打ったように静まり返り、次の瞬間、爆発的なざわめきに包まれた。6秒5。それは、俊足の男子高校生が目指すタイムであり、女子の日本中学記録(※我々の世界では7秒台前半が一般的)を遥かに凌駕する数値だ。オリンピック選手の女子100m走の前半通過タイムに匹敵するスピード。

 

「……は、はは……」

 

 冴は膝から崩れ落ちた。7秒4。自分は自己ベストを出したはずだった。なのに、1秒近く離された。50m走における1秒差は、約10メートルの差だ。背中すら見えなかった。

 

「……6秒5か」

 

 鵺野は頭をガシガシとかいた。(こいつ……スタートで少し手加減してやがったな。本気で踏み込んでたら、もっといってたかもしれん。……まさに『フィジカル・ギフテッド』。呪術師としての才能以前に、生物としてのスペックが違いすぎる)

 六花は、周囲のどよめきを意に介さず、息一つ乱さずに戻ってきた。そして、呆然としている冴に、何の悪気もなく声をかけた。

 

「……速水さん、だっけ」

 

 冴がビクリと顔を上げる。嫌味を言われるのか? マウントを取られるのか? 

 

「スタート、すごく速かったね。私、反応遅れちゃったから。……参考にさせてもらうよ」

 

 六花の言葉に、嘘や皮肉の色はなかった。彼女は本心から、冴の「技術(テクニック)」を評価していた。だが、それが逆に残酷だった。「技術で勝っても、才能(スペック)の差で10メートル離された」という事実を突きつけられたようなものだからだ。

 

「……っ!」

 

 冴は顔を真っ赤にして立ち上がり、何も言わずにその場を離れた。涙が滲みそうになるのを、必死に堪えて。(……絶対に、負けない。いつか絶対、あの涼しい顔を歪ませてやる!)

 六花はきょとんとして、去っていく背中を見送った。

 

「……あれ? 私、何か変なこと言った?」

 

 遠くから見ていた蓮が、苦笑しながらタオルを持って歩み寄る。

 

「……六花、悪気がないのは分かるけどね」

 

「何が?」

 

「……まあ、いいや。とりあえず、購買のパンの話でもする?」

 

 ◇

 

 50m走の興奮が冷めやらぬ中、六花と蓮はグラウンドの隅にあるクスノキの下で休憩していた。担任の鵺野鳴介が、記録用紙をパタパタとあおぎながら近づいてくる。

 

「……おい、六花。さっきの走りだがな」

 

 鵺野は呆れたように言った。

 

「6秒5ってのは、女子の世界記録(5秒96)にあと0.5秒迫るタイムだぞ。しかも、お前……後半、少しフォームが乱れてなかったか? あれ、手加減したのか?」

 

「してないよ」

 

 六花はスポーツドリンクを飲み干し、不服そうに唇を尖らせた。

 

「手加減なんてするわけないじゃん。ただ……脚力(出力)に、身体の制御(ボディコントロール)が追いつかなかっただけ。地面を蹴る力が強すぎて、上体が少し浮いちゃったの。だから、タイムが伸び悩んだ」

 

「……出力過多でフォームが崩れただと?」

 

 鵺野は絶句した。それは、F1のエンジンを積んだ軽自動車が、アクセル全開で空中分解しかけたようなものだ。

 

「それにしても、ただの才能(ギフテッド)だけでそこまで行くか? 五条先生のスパルタ教育があったとはいえ、中1の女子が、生物として進化しすぎている気がするが」

 

 その問いに、蓮が苦笑しながら補足した。

 

「ああ、それは多分……ここ数ヶ月で始めた『呼吸』のせいですよ、先生」

 

「呼吸?」

 

「うん。パパ(五条悟)がさ、数ヶ月前に変なイタリア人の知り合いを連れてきたのよ」

 

 六花が思い出すように空を見上げた。

 

「その人が『君の肉体は素晴らしい器だ! だがエンジンが足りない!』とか言って、変な呼吸法を教えてくれたの。血液中のエネルギーを増幅させて、太陽のような生命エネルギーを生み出す呼吸法……『波紋(仙道)』だって」

 

「……なっ、波紋だと!?」

 

 鵺野の顔色が変わる。それは、チベット奥地に起源を持ち、一部の吸血鬼ハンターたちが受け継いできたとされる、幻の身体操作技術だ。

 

「パパも『面白そうじゃん、やってみなよ』って言うから、試しにやってみたんだけど。これ、すごいね。寝てる間も呼吸を維持してたら、基礎代謝も筋力も勝手に上がっちゃって。……正直、まだ制御しきれてないんだよね。あっ! もちろんテスト中は使っていませんよ」

 

 六花は自分の二の腕をさすった。一見すると華奢だが、その内側には波紋のエネルギーによって活性化された、高密度の繊維が詰まっている。ただでさえ「六眼」と五条家の血を持つ彼女が、波紋の呼吸まで手に入れたのだ。握力54kgも、6秒5の俊足も、当然の帰結だった。因みここまで来た諸君ならご存じだろうが波紋を習った経緯はほとんど嘘である。

 

「(……五条先生、娘に何を仕込んでるんだ……。呪術師の才能に、波紋使いの身体能力まで乗っける気か……?)」

 

 鵺野は頭を抱えた。最強の呪術師が、最強の肉体技法を英才教育で叩き込んだ結果が、この「白浜中の怪物」なのだ。

 

 ◇

 

 一方その頃。体育館の裏手で、速水冴は膝を抱えていた。悔し涙が、ポニーテールの先を濡らしている。

 

「……なによ、あれ。努力しても、勝てないの? あんな涼しい顔で……才能だけで……」

 

 7秒4。それは彼女にとって誇れる記録のはずだった。だが、六花の6秒5という圧倒的な数字の前では、すべてが霞んで見えた。自分は凡人なのだろうか。どんなに走っても、あの怪物の背中には届かないのだろうか。

 コツ、コツ、コツ。その時、奇妙な足音が近づいてきた。

 

「おやおや。可哀想に。才能の壁にぶつかって、心が折れかけていますねぇ」

 

 顔を上げると、そこには奇妙な男が立っていた。白と黒の市松模様の帽子を被り、古風な洋装に身を包んだ、口髭の紳士。手にはワイングラスを持っている(なぜ学校に?)。

 

「……だ、誰ですか? 不審者? 先生呼びますよ」

 

 冴が涙目で睨む。男は「ノンノン」と指を振った。

 

「私はただの通りすがりの『男爵』ですよ。速水冴さん。君の走り、素晴らしかった。完璧なフォーム、無駄のない筋肉。君は素晴らしい『器』を持っている」

 

「……皮肉ならやめてください」

 

「皮肉ではありません。ただ、君には足りないものがある。あの小鳥遊六花という少女が持っていて、君が持っていないもの。それは……『呼吸』です」

 

「呼吸……?」

 

 冴はきょとんとした。男はニヤリと笑い、ワイングラスの中のワインを、逆さにしてもこぼれないようにしてみせた。

 

「彼女は、特別な呼吸法によって肉体のリミッターを外しています。いわば、ニトロを積んだエンジンです。君がどんなにペダルを漕いでも、エンジンの出力差はいかんともしがたい」

 

 男はポケットから一枚の紙切れを取り出した。そこには、古びた洋館の地図と、奇妙な石仮面のイラストが描かれている。

 

「ですが、もし君がその『呼吸法』を身につければ……話は別です。君の努力と技術(テクニック)に、波紋のエネルギーが加われば、あの怪物に追いつけるかもしれませんよ?」

 

 男は芝居がかった仕草で、冴の肩に手を置いた。その瞬間、冴の身体にビリビリとした電流のようなものが走った。ズキズキと痛んでいた筋肉疲労が、一瞬で癒えていくのを感じた。

 

「……えっ?」

 

「これが『波紋(仙道)』の入り口です。特別な呼吸法を、24時間365日続ける覚悟があるなら……放課後、ここに来なさい」

 

 男は帽子を被り直し、風のように去っていった。残された冴は、呆然とその背中を見送った。

 

「……呼吸で、勝てる?」

 

 怪しい。あまりにも怪しい。だが、今の冴にとって、それは暗闇に差した一本の蜘蛛の糸だった。彼女は涙を拭い、その紙切れを強く握りしめた。

 

「……やってやるわよ。何だってやってやる。待ってなさい、小鳥遊六花……!」

 

 ◇

 

 放課後。六花と蓮は、校門を出て通学路を歩いていた。

 

「今日は疲れたね、六花」

 

「別に? いい運動になったよ。……あ、そうだ。駅前のクレープ屋、寄って行こうよ。パパに教えてもらった店」

 

 六花はすでに体力テストのことなど忘れていた。彼女にとって、あの記録は日常の延長に過ぎない。

 しかし、彼女はまだ知らない。自分の背中を見て、闘志を燃やすライバルが「波紋」への扉を開いてしまったことを。そして、この白浜中学校が、単なる進学校ではなく、次世代の異能者たちが切磋琢磨する「梁山泊」となりつつあることを。

 校舎の窓から、鵺野鳴介が二人を見送っていた。その顔には、教師としての苦労と、少しの期待が混じっていた。

 

「……やれやれ。とんでもない嵐が吹き荒れる春になりそうだ。五条さん、あんたの娘……面白すぎるぞ」

 

 鵺野は左手の黒手袋を握りしめた。彼の霊感(第六感)が告げている。この学年は、伝説になる、と。

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