四月の海風が、熱を持った頬を撫でていく。放課後のチャイムが鳴ったばかりの境港白浜中学校。その広大な敷地の一角にある全天候型グラウンドでは、新入生たちの荒い息遣いが響いていた。
「はぁ、はぁ……。なんで、初っ端からこんな……」
膝に手をついて肩で息をする男子生徒たちの横で、僕――佐藤蓮(さとう・れん)は、額の汗を拭いながら深いため息をついた。入学早々の体育の授業。それはただの授業ではなく、事実上の「選別試験」だった。
「全員、動きが鈍いぞ! そんなことでは、いざという時に自分の身はおろか、クラスメイト一人守れん!」
グラウンドの中央で怒号を飛ばしているのは、ジャージ姿の教師――鵺野鳴介(ぬえの・めいすけ)先生だ。黒い皮手袋に包まれた左手。太い眉毛。そして、どこか超然とした雰囲気。僕たちにとっては、小学五年生の頃から担任を務めてくれている、腐れ縁の恩師である。彼の左手に何が封印されているか、そして彼がこの街の「裏側」で何と戦っているか。転生者である僕と、幼馴染の六花(りっか)ちゃんは、その一端を知っている。だからこそ、彼のシゴキが単なるイジメではなく、生存率を上げるための愛の鞭であることも理解はしているのだが……。
「……にしても、ハードすぎない? 反復横跳びで8点以上を目指せとか、無茶ぶりもいいとこでしょ」
僕が愚痴ると、隣でポニーテールを結び直している六花ちゃんが、ケロリとした顔で笑った。
「えー? そうかな。私、結構楽しかったけど。このグラウンド、地面がバネみたいに弾んで走りやすいし!」
彼女――六花ちゃんは、息ひとつ切らしていない。先ほどの50メートル走でも、軽く流しているように見えて、男子顔負けのタイムを叩き出していた。彼女のこの異常な身体能力は、前世の記憶や魔力だとかによるものではない。この「六花」という少女の肉体が、生まれつき持っている才能(スペック)だ。本人は「運動神経がいいだけ」と言い張るが、その出力は明らかにアスリートの領域に片足を突っ込んでいる。
「六花ちゃんさぁ……君、少しは自重した?」
「したよ! 全力の七割くらいに抑えたもん。鵺野先生にも『お前は手加減を覚えてくれ』って言われてるし」
「七割であのタイムかよ……。体力テストといい目立ちたくないって言ってたのに、これじゃ即バレだよ」
周囲の視線が痛い。男子生徒たちは「あいつ何者だよ……」と遠巻きに囁き合い、女子生徒たちは憧れと畏怖の入り混じった目で見ている。この白浜中は、J-GOC(日本超常現象対策協議会)や財団が出資する特殊な学校だ。生徒の才能(特に身体能力や霊的感応力)を常に監視している。六花ちゃんのデータは、今までの測定で間違いなく「要注視対象(Aランク)」としてサーバーに登録されたはずだ。
「ま、終わったことは仕方ないか。ほら、着替えて部活見学に行こうぜ。鵺野先生に捕まる前に」
「賛成! お腹空いたしね!」
◇
着替えを済ませた僕たちは、真新しい校舎の中を歩いていた。廊下の壁は防音材が入っているのか、静けさが保たれている。窓ガラスは全て強化ガラス。至る所に監視カメラと、用途不明のセンサーが設置されている。ここは学校というより、洗練された研究所のようだ。
掲示板の前には、色とりどりの勧誘ポスターが貼られている。『全国制覇! 陸上部』『心・技・体 剣道部』『未来を創る 科学部』。キャッチコピーは普通だが、その実態はどうだろうか。
「ねえ蓮、どこ見る? 私、やっぱり科学部かなー。ここの設備すごいし」
六花ちゃんが目を輝かせる。
「待って。まずは偵察だ。この学校の『普通』が、僕たちの常識と一致してるか確認しないと」
僕は彼女を促し、まずは陸上部の活動場所であるトラックへ向かった。そこでは、先輩たちが短距離ダッシュの練習をしていた。だが、何かがおかしい。
「……ねえ、あれ何?」
六花ちゃんが指差す。走っている部員たちの背後を、黒いウェアを着た人物が追いかけている。いや、人間じゃない。動きが機械的すぎる。あれは人型の自律走行ロボット(ターゲット・ダミー)だ。部員たちは必死の形相で逃げている。ロボットの手には、赤いマーカーのようなものが握られており、タッチされたらアウトというルールのようだ。
「『鬼ごっこ』……にしては、殺伐としてるな」
僕は目を細めた。
「あのロボット、障害物を避けるアルゴリズムが軍用レベルだぞ。あれから逃げ切る訓練ってことは、つまり『何か』に追われた時の逃走訓練を兼ねてるんだ」
「へぇー! ハイテクだね! ゲームみたいで楽しそう!」
「捕まったら電気ショックくらいありそうだけどな」
次に武道場へ。中からは、竹刀のぶつかり合う音と、裂帛の気合が聞こえてくる。覗いてみると、剣道部員たちが打ち込んでいるのは、人間ではなく、タイヤを積み上げた人形……いや、妙にリアルな「人ならざる形をしたマネキン」だった。部員の一人が、大きく踏み込んで面を打つ。パンッ! 乾いた音が響くと同時に、マネキンの首がガクンと揺れた。
「……今の、踏み込みが深すぎる」
僕は冷や汗をかいた。
「普通の剣道なら『残心』を取るために引くところを、さらに押し込んでる。あれは『確実に無力化する』ための打ち方だ」
「そう? カッコいいじゃん。袴も似合いそうだし」
六花ちゃんは呑気だ。
「でも、正座は足痺れるからパスかなー」
続いて文化部棟。音楽室の前を通ると、奇妙な重低音が腹に響いてきた。吹奏楽部だ。だが、彼らが演奏しているのは校歌でもポップスでもない。ブォォォォン……キィィィィン……。不協和音スレスレの、現代音楽のような旋律。聞いていると、平衡感覚が少し狂うような気がする。
「うっ、なんか酔いそう」
六花ちゃんが眉をひそめる。
「……低周波だ」
僕は耳を塞いだ。
「特定の周波数を重ねて、聴覚に干渉する実験音楽……という名目の、音響防御訓練かもしれない。野生動物や、耳の良い『何か』を遠ざけるための」
科学室からは、白衣を着た生徒たちが、試験管を振っているのが見えた。中身は蛍光色の液体。換気扇がフル稼働しているが、どこか薬品臭い匂いが漏れてくる。黒板には『エーテル』『霊子(仮説)』といった単語が並び、先生がそれを慌てて消しているのが見えた。
「……六花ちゃん。ここもダメだ」
僕は結論を出した。
「どこの部活も、ガチすぎる。J-GOCの出資を受けてるだけあって、活動内容が『将来のエージェント育成』に片足突っ込んでる」
「えー、じゃあどうするの? さっきからここもダメばかりじゃん」
「もっとこう、地味で、安全で、肉体的にも精神的にも負荷が少ない部活を探そう。僕たち転生者にとって、一番大事なのは『平穏』だろ?」
◇
歩き疲れた僕たちは、図書室へ逃げ込んだ。白浜中の図書室は、その辺の公立図書館よりも立派だった。蔵書数は約十二万冊。天井まで届く書架が迷路のように並び、静寂が支配している。空調も完璧で、少しひんやりするくらいだ。
「はー、生き返る。ここが一番落ち着くかも」
六花ちゃんが閲覧席の椅子に座り込む。
「で、蓮のおすすめはどこなの? 茶道部? 将棋部?」
「茶道部は作法室の結界が強すぎて居心地悪そうだし、将棋部は『戦術シミュレーション』やってたからパスだ」
僕は近くにあった掲示板に目をやった。新入生歓迎のポスターが所狭しと貼られている中に、一枚だけ、手書きの地味な紙があった。
『求む、探求者。 ――郷土史研究部』
筆ペンで書かれたその文字は、達筆すぎて少し怖い。活動内容はシンプルだ。地域の歴史調査、伝承・民話の収集、フィールドワーク(遺跡巡り)、お茶会(随時)。
「……これだ」
僕は指を鳴らした。
「六花ちゃん、これだよ。『郷土史研究部』」
「えー、郷土史ぃ? あんまり興味ない分野なんだけど」
六花ちゃんが露骨に嫌な顔をする。
「よく見ろ。『お茶会』って書いてある」
「!!」
反応した。チョロい。
「それに、活動内容を見てみろ。地域の歴史を調べるだけだ。古い地図を見たり、お年寄りに話を聞いたり。ドローンに追い回されることも、謎の重低音を聞かされることもない。平和そのものだ」
僕のプレゼンに、六花ちゃんは少し考え込み、やがて頷いた。
「ま、お菓子が出るなら行ってみてもいいかな。場所はどこ?」
「えっと……『第二校舎・特別資料室』だってさ」
◇
本校舎の裏手、渡り廊下を抜けた先に、その建物はあった。最新鋭の本校舎とは対照的な、木造モルタル二階建ての第二校舎。かつてこの地にあった学校の建物を移築・保存したものらしいが、ここだけ空気が澱んでいるというか、時間の流れが遅い気がする。
「……ねえ蓮。なんかここ、暗くない?」
六花ちゃんが僕のジャージの裾を掴む。夕日が差し込んでいるはずなのに、廊下は薄暗い。床板がギシギシと鳴り、窓の外では松の枝がザワザワと揺れている。入り口には、なぜか真新しい『盛り塩』が置かれていた。
「古い建物だからな。湿気対策だろ、塩は」
僕は適当な嘘をついた。どう見ても魔除けだ。引き返したい気持ちは山々だったが、ここで帰ったら六花ちゃんがまた「科学部入る!」と言い出しかねない。僕は意を決して、一階の突き当たりにある教室――『特別資料室』の扉に手をかけた。
ガラガラガラ……。乾いた音と共に扉が開く。
中は、古本の匂いと、微かなお香の香りに満ちていた。壁一面の本棚には、古めかしい和綴じの本や、地域の郷土資料がぎっしり。中央の座卓には、一人の女子生徒が座っていた。三年生だろうか。黒髪のボブカットに、銀縁メガネ。手元で古い巻物を広げている。
「……あら」
彼女は顔を上げ、僕たちを見て微笑んだ。
「新入生? 珍しいわね。こんな僻地の部室に来るなんて」
その笑顔は理知的で、穏やかだった。だが、僕は見逃さなかった。彼女の座る座布団の横に、木刀……いや、護摩木のようなものが置かれているのを。そして部屋の四隅には、観葉植物のふりをして『榊(サカキ)』が置かれている。
「あ、あの、部活動の見学に来ました。佐藤です」
「同じく、六花です!」
「ふふ、歓迎するわ。私は部長の九条(くじょう)。座って。今、お茶を入れるわね」
九条先輩は立ち上がり、電気ポットでお湯を沸かし始めた。その隙に、六花ちゃんがテーブルの上の菓子盆に手を伸ばす。
「わっ、南部せんべいだ! いただきまーす」
「こら、挨拶が先だろ」
「いいのよ、遠慮しないで」
九条先輩はお茶を注ぎながら言った。
「この部はね、境港とその周辺の歴史を掘り下げるのが主な活動よ。水木しげるロードの妖怪ブロンズ像の配置の意味とか、ベタ踏み坂の地盤の歴史とかね」
「へぇー、面白そう!」
六花ちゃんは煎餅をかじりながら目を輝かせる。よかった。意外とまともそうだ。妖怪ブロンズ像の研究なんて、いかにも郷土史っぽい。これなら、僕たちの「平穏な中学生活」は守られるかもしれない。
そう思った、その時だった。
カタカタカタ……。部屋の隅にある棚の上で、何かが震えだした。見ると、古びた陶器の壺だ。口には厳重に縄が巻かれ、お札のような紙が貼られている。
「あ」
九条先輩が手を止めた。
「しまった。結界の更新、今日だったかしら」
カタカタ、ガタガタ! 壺の振動が激しくなる。
「ねえ、あれ動いてるよ? 中に動物でも入ってるの?」
六花ちゃんが手を止めた。
「……六花ちゃん、離れて!」
僕は直感的に叫んだ。
「あれは動物じゃない!」
ポンッ!! 軽い音と共に、壺の蓋が弾け飛んだ。中から飛び出したのは、黒い毛玉のような……いや、細長いイタチのような生き物だ。目つきが鋭く、口から小さな火の粉を吐いている。
「管狐(くだぎつね)……!?」
九条先輩が眼鏡の位置を直し、懐から数珠を取り出そうとする。
「いけない、最近の霊的磁場の乱れで活性化したのね……!」
「キシャァァァッ!」
管狐が牙を剥き、一番近くにいた六花ちゃんに向かって飛びかかってきた。速い。普通の人間なら目で追うのがやっとの速度だ。
「危ない!」
僕が叫ぶより速く、六花ちゃんが動いた。彼女は慌てる様子もなく、持っていた南部せんべいを口にくわえると、近くにあった丸めたポスター(カレンダーの裏紙)を無造作に手に取った。そして、まるでハエを払うような手つきで――
スパーン!!
乾いた破裂音が響いた。六花ちゃんが振り抜いたポスターが、空中の管狐をジャストミートで捉え、叩き落としたのだ。魔力も気功も使っていない。純粋な動体視力と、反射神経による「物理攻撃」だ。
管狐は「ギャッ!?」と情けない声を上げ、床に転がって目を回している。ポスターの紙筒の先端が、少し焦げていた。
「……んぐ、ごちそうさま」
六花ちゃんは煎餅を飲み込み、ポスターを元の位置に戻した。
「あー、びっくりした。大きな虫だね」
静寂が戻る。九条先輩は、取り出しかけた数珠を持ったまま、ぽかんと口を開けていた。そしてゆっくりと、眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「……すごい」
先輩が身を乗り出す。
「君、見えるの? それに今のスイング、迷いがないわね。霊的実体をただの紙で物理干渉するなんて……素質あるわ」
「え? いや、虫が飛んできたから叩いただけですけど……」
「合格よ」
九条先輩はニッコリと笑い、入部届の用紙を二枚、テーブルに叩きつけた。
「郷土史研究部へようこそ。君たちのような人材を待っていたの。即戦力ね」
「……は?」
僕の思考が追いつかない。
「ちょっと待ってください先輩。郷土史ですよね? 歴史の研究ですよね? 今の、どう見てもオカルト……というか、お祓いですよね?」
九条先輩は悪びれもせず言った。
「境港の歴史を研究するってことは、すなわち『妖怪と怪異の歴史』と向き合うってことよ。フィールドワークは基本、夜に行う『百鬼夜行の追跡調査』だし」
終わった。僕は天を仰いだ。安全地帯だと思って飛び込んだ場所は、この要塞学園の中で最もディープな、「見えない世界」への入り口だったのだ。
「さあ、名前を書いて。今日から君たちは調査員(エージェント)よ」
先輩の笑顔が、楽しそうに歪んだ。六花ちゃんは「へー、なんか退屈しなさそう! 入る入る!」とペンを走らせている。僕に残された選択肢は一つ。この恐れ知らずな幼馴染が、不用意に異界の扉を開けないように見張ることだけだった。
僕は諦めて、入部届に名前を書いた。窓の外では、夕闇が本格的に校舎を包み込み、遠くでカラス……ではない何かの鳥が、不吉な鳴き声を上げていた。