入部届のインクが乾くか乾かないかというタイミングだった。九条先輩は、満足そうに頷くと、掛け軸の裏にある隠し金庫を開け、中から二つのアイテムを取り出した。
「さて、二人とも。手続きは完了よ。早速だけど、初仕事といきましょうか」
「えっ、もうですか? まだお茶も飲み終わってないんですけど」
僕が抗議するが、先輩は聞く耳を持たない。テーブルの上に置かれたのは、重厚な金属製の懐中電灯と、一枚の古い図面だった。
「今日の依頼は『図書委員会』からのSOSよ。……最近、図書室の蔵書数が『合わない』らしいの」
「万引きですか?」
「逆よ。増えているの」
九条先輩の声が低くなる。
「夜になると、閉架書庫の奥から『分類不能』の本が滲み出してきて、一般書架を浸食しているという報告があるわ。特に、『444番』の棚周辺で空間歪曲が観測されている」
444番。十進分類法には存在しない、不吉な数字だ。
「僕たちの任務は?」
「侵食の源となっている『原書(オリジナル)』の特定と回収。……あるいは、物理的な無力化よ」
先輩は懐中電灯を僕に押し付けた。
「そのライトは『対魔光線(アンチ・フォトン)』が出るから、決して人の顔に向けないように。網膜が焼けるわよ」
「そんな危ないもん渡さないでくださいよ!」
「面白そう! 夜の学校で探検だね!」
六花ちゃんだけが、遠足前のようなテンションで立ち上がった。
「私、魔導書とかに興味あったんだ。蓮くんも本なら大丈夫でしょ! 紙だし!」
「……六花ちゃん。この学校にある本は、ただの紙じゃない可能性が高いって、まだ学習してないのか?」
僕は深いため息をついた。入部からわずか十分。僕たちの「平穏な放課後」は、あっけなく崩れ去った。
◇
午後六時半。完全に日が落ちた校舎は、昼間とは全く別の顔を見せていた。最新鋭のLED照明は消灯され、非常灯の緑色の光だけが廊下を照らしている。防音壁のせいか、外の音は一切聞こえない。まるで深海に沈んだ潜水艦の中のようだ。
僕たちは図書室の前に立った。電子ロックは、九条先輩から預かったマスターキー(お札が貼られたカードキー)で解除された。プシュウゥゥ……と、エアロックのような音を立てて自動ドアが開く。
「……うわ」
一歩足を踏み入れた瞬間、僕は肌が粟立つ感覚を覚えた。昼間はあんなに快適だった図書室が、今は冷気を孕んだ異界と化している。天井まで届く巨大な本棚たちが、まるで墓標のように整然と並び、その奥は闇に溶けて見通せない。蔵書数十二万冊。そのすべての言葉(言霊)が、息を潜めてこちらを伺っている気配がする。
「なんか、昼間より広くない?」
六花ちゃんがキョロキョロと辺りを見回す。
「気のせいじゃないぞ。空間拡張術式が暴走してるのかもしれない」
僕は懐中電灯を握り直した。
「いいか、六花ちゃん。絶対に単独行動はするなよ。この迷路ではぐれたら、二度と戻ってこられないかもしれない」
「りょーかい。蓮の後ろについてく。てか今日は随分詳しいんだね? いつもは……」
僕たちは慎重に足を進めた。目指すは九条先輩が言っていた『444番』の棚。通常なら自然科学のコーナーの奥にあるはずだ。
カツ、カツ、カツ。静寂の中、僕たちの上履きの音だけが響く。
「……ねえ、蓮くん」
しばらく歩いたところで、六花ちゃんが僕の背中を突いた。
「さっきからさ、誰かいない?」
「え?」
「本棚の隙間から、視線を感じるっていうか……あと、ペラペラって音がする」
僕は足を止めて耳を澄ませた。……確かに聞こえる。パラッ……パラパラ……。紙が擦れる乾いた音が、四方八方から聞こえてくる。空調の風ではない。明らかに「意思を持って」ページがめくられる音だ。
「蓮くん、ライト」
「ああ」
僕は音のする方向――『哲学・思想』の棚へライトを向けた。ビッ! 強力な光が闇を切り裂く。そこにいたのは、誰もいなかった。ただ、棚から一冊の分厚い本が落ちていて、床の上でひとりでに開いたり閉じたりを繰り返していた。
「……なんだ、ただのポルターガイストか」
僕が安堵しかけた瞬間だった。バサァッ!! その本が、突然鳥のように羽ばたき、僕の顔めがけて突っ込んできた。
「うわっ!?」
僕は咄嗟に腕で顔を庇う。だが、衝撃は来なかった。
バシィッ! 横から伸びてきた手が、空中で本を鷲掴みにしていた。六花ちゃんだ。
「ダメだよ、図書館では静かにしなきゃ」
彼女は暴れる本を両手で押さえ込むと、そのまま棚の隙間に「グイッ」と力任せにねじ込んだ。
「はい、戻って!」
本はしばらく棚の中で震えていたが、六花ちゃんの握力に恐れをなしたのか、やがて大人しくなった。
「……ありがとう、助かった」
「どういたしまして。でも変だね。ただの本が飛ぶなんて」
「ここは白浜中だからな。……急ごう。ターゲットはもっと奥だ」
◇
図書室の最奥部。そこは、昼間には存在しなかったはずの「開かずの扉」の向こう側にあった。空間が歪んでいる。本棚の列が非ユークリッド幾何学的にねじれ、天井が見えないほど高く伸びている。そして、その中心に、禍々しいオーラを放つ黒い本棚が鎮座していた。棚の側面には、赤いペンキ……ではない何かで『444』と書かれている。
「あれだ」
僕は確信した。
「あの棚にある本が元凶だ」
棚には、鎖で縛られた本や、表紙に目玉がついている本など、見るからに危険な書物が並んでいる。その中で一際異質な存在感を放っているのが、最上段にある一冊の図鑑だった。
『古今東西猛獣大図鑑(実体版)』。背表紙にそう書かれたその本は、ドクン、ドクンと脈打っていた。
「……嫌な予感がするタイトルだな」
「わぁ、動物図鑑だ! 私、動物好き!」
六花ちゃんが不用意に近づこうとする。
「待てバカ! 『実体版』って書いてあるだろ! 飛び出す絵本どころの騒ぎじゃないぞ!」
僕の静止も虚しく、本が反応した。ギギギ……と表紙がゆっくり開き、中から眩い光が溢れ出す。次の瞬間。オォォォォォンッ!! 猛獣の咆哮が図書室全体を震わせた。
光の中から実体化したのは、体長三メートルはある巨大な虎だった。ただし、体が半透明で、表面に文字が羅列されている。『中島敦』『山月記』『臆病な自尊心』といった文字が、毛皮の模様のように浮かんでいる。
「文学的な虎が出たァァァッ!!」
僕は悲鳴を上げた。
「六花ちゃん、逃げろ! あれは物理攻撃が効くか怪しいぞ! 概念存在(コンセプト・ビースト)かもしれない!」
虎は六花ちゃんを獲物と認識したのか、低い唸り声を上げて身を沈めた。その眼光は鋭く、殺気に満ちている。だが、六花ちゃんは逃げなかった。むしろ、興味深そうに虎を見上げている。
「大きい猫ちゃんだねー」
「猫ちゃんじゃない! 人喰い虎だ!」
「でも、なんか透けてるよ? CGみたい。あははー」
虎が飛びかかった。鋭い爪が六花ちゃんの頭上へ振り下ろされる。
ドンッ!! 床が揺れた。虎の爪が床板を砕く……その寸前で、六花ちゃんはバックステップで回避していた。彼女の動きは、まるでダンスのように軽やかだった。
「おっ、やるね猫ちゃん」
六花ちゃんがニヤリと笑う。
「じゃあ、遊んであげる!」
彼女はカバンを放り投げると、あろうことか虎に向かって正面からダッシュした。
「ちょっと六花ちゃん、無限切ってない!?」
虎が迎撃の噛みつきを繰り出す。六花ちゃんは速度を緩めない。虎の口が閉じる瞬間にスライディングで懐に潜り込み――
「ほいっ!」
虎の顎の下を、下から掌底でカチ上げた。
ゴッ!! 鈍い音が響き、巨大な虎が仰け反る。
「……は?」
僕は我が目を疑った。六花ちゃんの攻撃の瞬間、彼女の拳の周りの空気が歪んでいた気がする。魔力放出による「打撃の概念化」か?
虎が怒り狂い、前足で薙ぎ払う。六花ちゃんはそれを、陸上競技で見せたクラウチングスタートのような姿勢から、爆発的な加速で回避。そのまま本棚を駆け上がり、三角飛びの要領で空中に舞った。
「そこだっ!」
彼女は空中から、虎の背中に馬乗りになった。ロデオ状態だ。
「大人しくしなさい! 図書館ではお静かに!」
六花ちゃんは虎の首をヘッドロックで締め上げる。『尊大な羞恥心』という文字が浮かぶ虎の首が、ミシミシと音を立てる。虎は暴れるが、六花ちゃんの細腕は万力のように食い込んで離れない。
「グルル……キュゥ……」
数秒後。哀れな文学虎は、白目を剥いてタップ(降参)するかのように床を叩き、ポンッという音と共に煙となって消滅した。後には、大人しく閉じた『古今東西猛獣大図鑑』だけが残された。
「……ふぅ、いい運動になった」
六花ちゃんは服の埃を払い、落ちていた図鑑を拾い上げた。
「はい、確保ー。蓮、これ持って帰ればいいの?」
僕はしばらく言葉が出なかった。概念存在を、物理(プロレス技)で絞め落とした女子中学生。やはり、この幼馴染は「要注視対象」どころではない。「特級危険物」だ。
◇
部室に戻ると、九条先輩が優雅にお茶を飲んで待っていた。僕たちが回収した図鑑をテーブルに置くと、彼女は目を丸くした。
「……早かったわね。この図鑑の『山月記モード』は、Aランクの退魔師でも苦戦する難敵なんだけど」
「六花ちゃんがヘッドロックで落としました」
僕が淡々と報告すると、先輩は数秒沈黙し、それから「ふっ」と吹き出した。
「あははは! 傑作だわ! 霊体を絞め落とすなんて、歴代の部長でも聞いたことない!」
先輩は笑い転げた後、真剣な表情で六花ちゃんに向き直った。
「六花ちゃん、あなたやっぱり才能あるわ。この部は『歴史研究』と言ったけど、訂正する。私たちは『学校の秩序を守る守護者』よ」
先輩は引き出しから、二つのバッジを取り出した。校章のデザインに似ているが、裏側に微細な文字で『J-GOC Jr. Agent』と刻印されている。
「これを受け取りなさい。この学校の裏側にアクセスするためのパスよ」
「わーい! カッコいい!」
六花ちゃんは無邪気にバッジを胸につけた。僕はため息をつきつつ、自分の分のバッジを受け取った。
「……断る権利はないんですよね?」
「ないわ。一度『こちら側』を見ちゃったんだもの」
先輩はニヤリと笑った。
「それに、あなたたちの担任の鵺野先生も、きっと喜ぶわよ。『教え子が立派な戦士に育った』ってね」
こうして、僕たち――佐藤蓮と六花ちゃんは、正式に『郷土史研究部』の部員となった。それは同時に、この要塞学園・白浜中で起きるあらゆる怪異トラブルの「尻拭い係」への就任を意味していた。
窓の外。夜空には満月が浮かんでいた。その月に向かって、遠くから何者かの遠吠えが聞こえた気がしたが、僕は聞かなかったことにした。これからの三年間、僕の胃薬が持つかどうかだけが、今の最大の懸念事項だった。