2016年、5月某日。境港での「多国籍機関による乱闘騒ぎ」から一夜明けた早朝。空はどんよりと曇り、日本海特有の重たい湿気が漂っていた。
米子鬼太郎空港へ向かう一本道。一台の黒塗りのバンが、護送車として走っていた。車体には「J-GOC警備保障」のロゴが入っているが、それはカモフラージュであり、中には昨日確保されたFBI捜査官、フォックス・モルダーとダナ・スカリーが乗せられていた。
彼らは、ICPOの銭形警部と、警視庁公安部の杉下右京警視の計らいにより、外交問題になる前に「即時帰国(という名の強制送還)」させられる手はずとなっていた。
「……スカリー、妙だ」
後部座席で、モルダーが窓の外を睨みつけながら呟いた。彼の手首には、まだ銭形の手錠(特殊合金製)の痕が赤く残っている。
「何がよ、モルダー。昨日の今日でまだ懲りていないの? 大人しく飛行機に乗って、ワシントンに帰りましょう。スキナー副長官への言い訳を考えるのが先決よ」
スカリーは疲れ切った顔でシートにもたれかかっていた。昨夜の騒動は、彼女の理性的かつ科学的な世界観を揺るがす……ことはなかったが、精神的に疲弊させるには十分だった。
「違うんだスカリー。さっきからGPSを確認しているが、このルートは空港へ向かっていない」
モルダーは隠し持っていた小型の発信機(腕時計型)をタップした。
「空港は南東だ。だが、この車は北西……つまり、境港の海岸線へ向かっている。それに、運転手の首元を見ろ。J-GOCの制服を着ているが、耳の後ろに『小さなバーコードの刺青』がある。あれは……シンジケート(影の政府)の工作員の印だ」
「モルダー、あなたまたパラノイア(偏執症)が……」
スカリーがため息をつこうとした、その時。
プシュウゥゥゥ……。運転席と後部座席を仕切るガラス板が密閉され、天井の通気口から白いガスが噴射された。
「なっ!? ガスだ! 息を止めろスカリー!」
モルダーが叫び、ジャケットで口を覆う。
「ゲホッ、ゴホッ……! 嘘でしょ……!?」
スカリーが目を見開く。運転席の男たちが、無言でガスマスクを装着するのが見えた。車は速度を上げ、舗装されていない砂利道へと激しくハンドルを切る。
「言った通りだろ……! 日本政府の中にも……シンジケートの……派閥が……」
モルダーの意識が急速に遠のいていく。薄れゆく視界の中で、彼は確信した。自分たちは「真実」に近づきすぎたのだ。あの少女、小鳥遊六花という「ハイブリッド」の秘密を知る者として、消される運命にあるのだと。
「スカリー……逃げ……」
二人の身体が折り重なるように崩れ落ち、車内は静寂に包まれた。
◇
一方その頃。場所は変わって、警視庁公安部特持課(特殊あやかし持ち係)の臨時取調室。昨夜の騒動の後処理のため、境港警察署の一室を借り切っていた。
紅茶の香りが漂う部屋で、杉下右京警視は、一人の「参考人」と対面していた。
「……ええ、ええ。心中お察ししますよ、魚住さん」
右京が対面している相手は人間ではなかった。高級そうなダブルのスーツを着込み、革靴を履いているが、その頭部は巨大な魚――深きものども(ディープ・ワンズ)そのものだった。ギョロリとした大きな目、エラのある首筋、ヌメリのある緑色の肌。ラブクラフトが描いた冒涜的な姿そのものだが、その態度は極めて紳士的だった。
「まったく、遺憾ですな、杉下警視」
魚住と呼ばれた半魚人は、水かきのある手でハンカチを取り出し、額(?)の汗を拭った。その声は、水中で泡が弾けるような独特の響きがあるが、流暢な日本語だ。
「我々はただ、市民会館で『第58回・豊漁祈願と海洋環境保全の集い』を行っていただけですよ? 使用許可証も提出しましたし、騒音規制値も守っていました。それを、あのアメリカの特殊部隊(デルタ・グリーン)がいきなり踏み込んできて、『邪神召喚の儀式だ!』などと銃を向けてくるとは……。これ、明白なヘイトクライムじゃないですか?」
右京は「おっしゃる通りです」と頷いた。
「彼ら(デルタ・グリーン)は、少々時代錯誤な認識を持っていたようですね。現代の先進国において、貴方方『深きものども』が、『特別永住異種』として法的権利を認められていることを知らなかったのでしょう」
そう。この世界において、クトゥルフ神話に登場する「深きものども」の一部は、人類社会との共存を選んでいた。かつては邪神ダゴンやクトゥルフを崇拝し、インスマスで忌まわしい交配を行っていた彼らだが、現代の強力すぎる軍事力(と財団やGOCの圧力)を前に、方針を転換。「日本国憲法および国際法を遵守し、過激な邪教崇拝を放棄する」という宣誓書にサインした個体群には、限定的ながら人権(魚権?)が認められているのだ。特に、漁業や海洋調査において彼らの能力は重宝されており、境港の漁業組合とも提携している。
「我々だって納税者ですよ。子供たちは地元の学校に通っていますし、PTAにも参加しています。それを『怪物』扱いとは……。アメリカ政府に厳重な抗議文を送ってください」
「ええ、外務省を通じて善処します」
右京がなだめていると、部屋のドアが勢いよく開いた。
バンッ!!
「大変だ右京君!!」
飛び込んできたのは、トレンチコートの男、銭形幸一警視だった。彼は血相を変えて叫んだ。
「空港の入管から連絡があった! モルダーとスカリーが、搭乗ゲートに現れていない! 護送車ごと消えたぞ!」
「……なんですって?」
右京の手が止まり、ティーカップがソーサーの上でカチャリと音を立てた。
「護送を担当していたのは、J-GOCの正規職員のはずです。まさか、ルパン一味の変装……ではありませんね?」
「ああ。GPSの信号も途絶えた。これはただの逃走じゃない。……拉致だ」
銭形の鋭い勘が告げていた。昨夜のFBI、MIB、デルタ・グリーンの三つ巴。そのどれでもない、もっと陰湿な「第四の勢力」が動いたのだ。
右京は眼鏡の位置を直し、冷静に推理を始めた。
「……なるほど。J-GOCや我々公安、そしてICPOを出し抜いて、護送車ごと拐うことができる組織。そして、モルダー捜査官の持つ『情報(妄想)』に興味を持つ組織。……内閣情報調査室・特務二課(通称『黒背広』)ですか」
「特務二課だと? あの、対米従属の犬どもか!」
銭形が拳を握りしめる。特務二課とは、日本政府内に巣食う、アメリカの「シンジケート(影の政府)」直属の実行部隊だ。日本の国益よりも、シンジケートの利益(=エイリアン技術の独占や隠蔽)を優先する、売国的な極秘機関である。彼らにとって、モルダーが日本で「何を見たか」は、絶対に聞き出さねばならない情報なのだ。
「場所は?」
銭形が尋ねる。
「彼らがよく使う『セーフハウス』のリストがあります。……おそらく、境港の海岸沿いにある廃ホテル『オーシャン・ビュー』でしょう。あそこなら、海路を使って海外へ身柄を移すことも容易です」
「よし、直ちに突入だ! 機動隊を……」
「お待ちください、銭形警視」
右京が止める。
「相手はプロです。警察車両が大挙して押し寄せれば、証拠隠滅のために二人を消しかねません。ここは、少数精鋭かつ『想定外』の戦力で包囲する必要があります」
右京の視線が、対面に座る魚人――魚住さんに向けられた。
「……魚住さん。確か、あの廃ホテルの裏手は、あなた方の養殖場に隣接していましたね?」
魚住はギョロリとした目を瞬かせ、ニタリと笑った(魚なので表情は読み取りづらいが)。
「ほう、あそこですか。……ええ、よく知っていますよ。最近、あそこの排水管から変な化学薬品が垂れ流されていて、稚魚の育成に悪影響が出ていたんです。組合でも問題になっていましてね」
魚住はスーツの襟を正し、力強く言った。
「環境汚染と不法投棄、そして誘拐ですか。……市民として許せませんな。我々も協力しましょう。海からの包囲は、我々『NPO法人・インスマス・ジャパン』にお任せを」
「半魚人が味方か! 頼もしいな!」
銭形はニカっと笑い、魚住のぬるぬるした手をガシッと握った。
◇
30分後。境港の海岸沿い、防風林の中。小鳥遊六花と佐藤蓮は、銭形に呼び出されて現場に来ていた。
「……モルダーが消えた?」
六花は呆れたように空を見上げた。
「やっぱり、あの人『持ってる』ねぇ。帰る直前に誘拐されるとか、X-ファイルのシーズン最終回みたいな引きじゃん」
「ごめんね、六花ちゃん。君の『眼(六眼)』と『術式』があれば、建物の中の様子を探れると思ってね」
銭形が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いいよ、乗りかかった船だし。パパ(五条悟)の情報狙いなら、私も無関係じゃないしね」
六花はサングラスをずらし、廃ホテルを見据えた。蒼い瞳が輝き、その他の感覚も研ぎ澄まされる。
「……いるね。3階の角部屋。モルダーとスカリーが椅子に縛られてる。見張りは……1、2……全部で12人。全員、心音が静かだ。プロの暗殺者だね。武装は消音器付きの短機関銃」
「12人か。正面から行けば人質が危ないな」
銭形が唸る。
「大丈夫ですよ、警部」
背後から、ぬるりとした気配が近づいてきた。魚住さんだ。彼はスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げていた。その肌には、びっしりと鱗が生え揃っている。
「海側には、私の部下……いえ、NPOのボランティアスタッフを50名待機させてあります。合図があれば、一斉に上陸して制圧します」
「……うわ」
六花が魚住を見た。(……本物のディープ・ワンだ。呪力じゃなくて、もっと古い、生物学的な異質の気配。でも、敵意はない。……すごいなこの世界、深きものどもと共闘とか)
六花は魚住にぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします、魚住さん」
「おや、可愛らしいお嬢さんだ。私の娘も、あなたくらいの年頃でしてね。……今は産卵期で少しナーバスなんですが」
「あ、はい。お大事に」
魚人と女子中学生の、奇妙なほのぼのトーク。
右京がインカムで指示を出す。
「では、作戦開始です。作戦名『インスマス・レイド』。……彼らに、市民の怒りを思い知らせてあげなさい」
◇
廃ホテルの一室。薄暗い部屋で、モルダーとスカリーは椅子に背中合わせで縛り付けられていた。彼らの前には、黒いスーツの男たちが立っている。内調・特務二課のエージェントたちだ。
「……起きろ、FBI」
冷水を浴びせられ、モルダーが目を覚ます。目の前には、無機質な黒いサングラスの男。
「単刀直入に聞く。お前たちは昨日、ゴジョウ・サトルに関する『サンプル』を目撃したはずだ。あの少女のDNAデータ、あるいは映像記録……どこに隠した?」
モルダーは濡れた髪を振り乱し、ニヤリと笑った。
「断る! 貴様ら……日本政府の犬め。エイリアンとの密約を隠蔽するために、自国民を実験台にしていること、世界中に公表してやる!」
「……エイリアン?」
黒服の男が眉をひそめる。
「何を言っている? 我々は国防の話をしているんだ」
「とぼけるな! お前たちのボス、キャンサーマンに伝えろ。真実は隠せないとな!」
「モルダー、やめて」
背後のスカリーが囁く。
「彼らはただの産業スパイか、極右組織よ。エイリアンは関係ないわ。挑発しないで、外交交渉を……」
その時だった。
ボコッ、ボコボコッ……。窓の外。すぐそばの海面が、不気味に泡立ち始めた。月明かりの下、黒い海から「それら」は現れた。
ヌルリとした緑色の肌。巨大な目。エラ。水かき。手には漁業用のモリや、高強度のネットを持っている。一匹、二匹ではない。数十匹の群れが、防波堤を乗り越えて上陸してくる。それは、ホラー映画のワンシーンそのものだった。
「なっ……!?」
黒服の一人が窓の外を見て、悲鳴を上げた。
「な、なんだアレは!? 化け物だ!!」
モルダーが首をねじって窓を見る。彼の目が、歓喜と恐怖で見開かれた。
「見ろスカリー!! インスマスだ!! ラヴクラフトの小説はノンフィクションだったんだ! 深きものどもが、政府の黒服を襲いに来たぞ! これはエイリアン同士の派閥争い(内ゲバ)だ! 地球は戦場になっている!」
「モルダー、落ち着いて! 彼ら……よく見て。……腕に『自警団』って書いたタスキをしてるわよ……?」
スカリーの指摘通り、上陸してくる半魚人たちは、蛍光色のタスキをかけ、整然とした隊列でホテルを取り囲んでいた。
◇
ドガァァァン!! 正面玄関が吹き飛んだ。銭形が運転するダンプカーが、バリケードごとロビーに突っ込んできたのだ。
「御用だ御用だぁぁぁーーっ!!」
銭形が運転席から飛び出し、手錠を構える。同時に、屋根の天窓が割れ、六花が降ってくる。
「お邪魔しまーす!」
六花が着地ざま、見張りの黒服を蹴り飛ばす。そして、海側の窓ガラスが一斉に割れた。
「我々の海を汚すなァァァーーっ!!」
魚住を先頭に、深きものどもが雪崩れ込んできた。
「うわぁぁぁ!? なんだこいつら!?」
「撃て! 撃てぇ!」
黒服たちがパニックに陥り、発砲する。だが、深きものどもの鱗は強靭だ。拳銃弾程度なら弾き返す(あるいはヌルリと滑らせる。相当痛いらしいが)。
「キシャァァァ!」
半魚人たちが、黒服たちの銃を奪い、漁業用ネットで絡め取っていく。その動きは、長年の漁で培われた連携プレーそのものだった。
「捕獲完了! 出荷準備よし!」
「こっちも網に入りました!」
「暴れるな! 公務執行妨害と環境汚染防止法違反だぞ!」
黒服たちは次々と「水揚げ」され、床に転がされていく。圧倒的な制圧力。
六花が監禁部屋のドアを蹴破った。
「おまたせ、FBI。……って、なんかもう終わってるね」
部屋の中では、腰を抜かした黒服のリーダーが、魚住(半魚人)に胸ぐらを掴まれていた。
「いいですか。排水基準は守ってくださいと、何度も言いましたよね? あなた方の出した汚染水のせいで、今年のアワビの生育が悪いんですよ!」
「ひぃぃぃ……す、すみません……」
日本の闇組織のエリートが、地元の漁業組合長(魚人)に説教されている。シュールすぎる光景だった。
◇
数分後。ホテルは制圧され、黒服たちは全員、銭形の手錠と魚住のネットで拘束された。杉下右京が、優雅に歩み寄ってくる。
「内閣情報調査室特務二課の皆さんですね。外国の機関への利益誘導、および要人誘拐、さらには水質汚濁防止法違反の容疑です。……言い訳は、たっぷりと紅茶を飲みながら聞きましょうか。公安の『尋問室』は、居心地が良いですよ?」
黒服たちは絶望的な顔で連行されていった。
そして、解放されたモルダーとスカリー。モルダーは、目の前に立つ魚住(半魚人)を見て、ガクガクと震えていた。
「あ、ああ……。インスマスの住人が……警察と協力して……。これは『共生』という名の洗脳実験か……?」
魚住は、そんなモルダーの妄想を知ってか知らずか、水かきのある手を差し出した。
「やあ、災難でしたな。アメリカのFBIさん。我が街の治安の悪さを詫びますよ。これ、お詫びの印に。地元の名産品です」
魚住が渡したのは、高級カニ缶のセットだった。
「……(ヒッ……!)」
モルダーは引きつった笑顔で、恐る恐るその手を握った。ヌルリ。生温かい、魚介類特有の感触。
「……うッ」
モルダーは白目を剥いて、その場に卒倒した。
「あらあら、モルダーったら」
スカリーは呆れつつ、カニ缶を受け取った。
「ありがとうございます。美味しそうですね。……彼、魚介類アレルギーではないんですけど、ちょっと疲れているみたいで」
◇
夜明け。改めて空港へ送られるモルダー(意識回復済み)とスカリー。
「スカリー、日本は恐ろしい国だ」
機上の人となったモルダーは、窓の外を見下ろして呟いた。
「半魚人が市民権を得て、NPO法人として活動している……。これは、エイリアンによる『静かなる侵略(サイレント・インベージョン)』が完了している証拠だ! アメリカもいずれこうなるんだ!」
「ええ、そうねモルダー。でも、あの方(魚住さん)はとても紳士的だったわよ? ……このカニ缶、帰ったらワインと一緒にいただきましょう」
スカリーは、日本の不可解な体験を「異文化交流」として処理することに決めたようだった。
一方、境港の海岸。六花たちは、海へ帰っていく深きものどもを見送っていた。
「……なんか、すごいもん見ちゃったね」
六花が伸びをする。
「モルダーの中での『日本の闇』、さらに深まった気がするけど」
「まったくだ」
銭形が帽子を被り直す。
「だがまあ、一件落着だ! ……あ、今回のダンプカーの修理代……」
銭形の顔が青ざめる横で、右京が微笑んだ。
「ご安心を。今回は内調の予算から分捕れますよ。彼らの隠し口座を凍結しましたから」
「ほ、本当か!? 助かったァァァ!」
朝日が昇る。人間も、呪術師も、半魚人も、みんな等しく照らす太陽が。境港の日常は、今日もカオスで、そして平和だった。