2016年、5月某日。東京・霞が関。境港での「モルダー誘拐・深きものどもによる奪還劇」から、わずか二十四時間後。
警視庁公安部特持課のデスクで、杉下右京警視は静かに紅茶を注いでいた。その向かいで、トレンチコートの男――銭形幸一警視が、受話器を叩きつけるように置いた。
「……ふざけるな!!」
銭形の怒声がフロアに響き渡る。
「釈放だと!? 現行犯だぞ! 誘拐、監禁、さらには水質汚濁防止法違反のオマケ付きだ! それを、『不起訴処分』で即時釈放だと!?」
「……ええ、想定内ですよ、銭形さん」
右京は湯気の立つカップを手に、冷静に言った。
「法務省から圧力がかかりました。理由は『高度な国防上の機密保持』および『日米地位協定の拡大解釈』。実行犯である内閣情報調査室・特務二課のメンバーは、逮捕からわずか六時間で、米軍横田基地を経由して『保護』されました」
「日本の警察が、自国の犯罪者を裁けんとは……!」
銭形が拳を震わせる。
今回の黒幕、内閣情報調査室・理事官の鏑木(かぶらぎ)は、巧妙に手を回していた。彼は日本政府の官僚でありながら、その実態はアメリカの影の政府「シンジケート」の忠実なエージェントだ。彼は、自らの手駒(特務二課)が逮捕されるや否や、外交特権と国防機密の壁を使って、司法の手から逃げおおせたのだ。
「……ですが、これで敵の輪郭がはっきりしましたね」
右京の眼鏡が光った。
「彼らは焦っています。通常なら、もっと目立たないように処理するはず。これほど強引な手を使ったということは……アメリカ本国からの突き上げが相当厳しいと見えます」
◇
同時刻。成田空港、特別待合室。強制送還のフライトを待つフォックス・モルダーとダナ・スカリーの姿があった。周囲には、日本の公安警察と、アメリカ大使館から派遣された監視役たちが目を光らせている。
「……スカリー、見ろ」
モルダーはコーヒーを飲みながら、小声で囁いた。
「あの監視役たち……一枚岩じゃない」
モルダーの観察眼は正しかった。部屋の四隅に立つスーツの男たちは、サングラスをかけた無機質な二人組(MIB派)、軍人上がりの体格で鋭い視線を送る男たち(デルタ・グリーン派)、そして煙草の匂いを漂わせる陰湿な男たち(シンジケート派)に分かれており、互いに牽制し合っていた。MIBは「宇宙人の痕跡を消したい」、デルタ・グリーンは「神話生物の情報を独占したい」、シンジケートは「モルダーを黙らせたい」。それぞれの思惑が、同じ部屋の中でぶつかり合っていた。
「……いいだろう。最後に少しだけ、引っ掻き回してやる」
モルダーはニヤリと笑うと、わざとらしく立ち上がり、デルタ・グリーンの男に向かって大声で叫んだ。
「おい、そこのあんた! キャンサーマン(肺癌男)が言っていたぞ! 『MIBの予算を削って、君たちの極秘作戦(インスマス殲滅)に回す』とな!」
「なっ……!?」
デルタ・グリーンの男が動揺する。同時に、MIBの男たちがピクリと反応し、デルタ・グリーン側を睨みつけた。
「おい、どういうことだ? 協定違反だぞ」
「知らん! この変人の妄言だ!」
「妄言だと? 俺は見たぞ、君たちが『GOJOデータ』を独占しようとしているのを!」
モルダーが適当な(しかし核心を突いた)嘘を大声で喚き散らす。待合室は一瞬で騒然となった。MIBが懐に手を入れ、デルタ・グリーンが構え、シンジケートの監視役が止めに入る。
「何をしている! 静かにさせろ!」
「貴様、裏切ったのか!」
現場が大混乱に陥る中、モルダーはスカリーの手を引いて搭乗ゲートへ向かった。
「……今のうちに搭乗しよう、スカリー」
「モルダー……あなたって人は、本当に……」
「種は蒔いた。これで奴らは、日本国内で互いに疑心暗鬼になるはずだ」
モルダーは去り際に、混乱する監視役たちを尻目にウィンクを投げた。彼の最後の抵抗は、日本の公安(右京たち)にとって、敵を分断するための貴重なアシストとなった。
◇
警視庁、特持課。混乱するアメリカ側の情報が入ってきた。
「……ふふ。モルダー捜査官も、なかなかやりますねぇ」
右京は報告を聞いて微笑んだ。
「敵の足並みが乱れました。今が好機です」
「ああ。ワシの出番だな」
銭形がトレンチコートの襟を正す。
「右京君。ワシが今回、ルパン捜査の名目で帰国した本当の理由を話そう」
銭形は一枚の書類をデスクに置いた。ICPOリヨン本部からの極秘指令書だった。
「ICPOもな、最近のアメリカの『多重外交』には腹を据えかねておるんだ。特に、シンジケート派閥による国際的な資金洗浄(マネーロンダリング)と、違法な技術供与。奴らは各国の極秘機関に食い込み、裏金を吸い上げている」
「なるほど。今回の誘拐事件を突破口に、『国際金融捜査』のメスを入れるわけですか」
「その通りだ。だが、決定的な証拠(ネタ)が足りん。奴らの金の流れを証明する『帳簿』か、あるいは内部告発者が必要だ」
「証人なら、心当たりがありますよ」
右京は、一枚の写真を取り出した。そこには、高級スーツを着た半魚人――NPO法人代表・魚住氏が写っていた。
「彼は今回の被害者であり、同時に……彼の部下(深きものども)は、海底ケーブルに直接干渉できる優秀なハッカー集団でもあります。彼を国会、あるいは国際法廷に立たせれば、鏑木理事官の首だけでなく、シンジケートの資金源も断てる」
「よし! ならば魚住氏を東京へ護送し、証言させるんだな!」
「ええ。ですが……」
右京は窓の外、霞が関のビル群を見上げた。
「敵も死に物狂いです。アメリカの各派閥から、『掃除屋(クリーナー)』が送り込まれています。東京駅までの道中、激しい『おもてなし』が予想されますよ」
◇
翌日。東京駅、新幹線ホーム。一般客に紛れて、異様な集団が降り立った。深々と帽子を被り、マスクとサングラスで顔(とエラ)を隠した魚住。その左右を固めるのは、銭形と右京。そして、少し離れた位置には、制服姿の小鳥遊六花と佐藤蓮がいた。
「……ねえ、右京さん。私、修学旅行の予行演習って聞いて来たんだけど」
六花が不満げに言う。彼女は今回、非公式のボディーガードとして(美味しいスイーツを条件に)雇われていた。
「ええ。東京の地理を学ぶには良い機会ですよ。……おや、早速お出迎えですね」
右京の視線の先。ホームの柱の影、売店の裏、清掃員に変装した男たち。六眼を持つ六花には、彼らの殺気が手に取るように分かった。
「……うわぁ。あそこの黒服はMIB(記憶消去班)。あっちの迷彩服っぽいのはデルタ・グリーン(暗殺班)。で、改札口にいるのが……日本政府の特務部隊か」
3つの異なる組織の刺客が、魚住一人を狙って待ち構えていた。しかも、モルダーの撹乱工作のおかげで、彼らは互いに疑心暗鬼になっている。
「ヒェッ……! 右京さん、赤い点が! 身体中にレーザーポインターの赤い点が!」
魚住がガクガクと震える。乾燥肌には冷や汗が大敵だ。
「落ち着いてください、魚住さん。保湿スプレーをかけますよ」
右京は冷静にスプレーを噴射した。
「来るぞ!!」
銭形が叫ぶ。バシュッ! 消音器付きの銃声。デルタ・グリーンの狙撃手が発砲したのと同時に、MIBがニューラライザーを構え、日本の特務部隊がナイフを持って突っ込んでくる。
「邪魔だ! その半魚人は我々が確保する!」
「ふざけるな! 神話生物は殲滅だ!」
「証拠隠滅が最優先だ!」
三つ巴の乱戦が、東京駅のホームで始まった。
「……仲悪いなぁ、もう」
六花はため息をつき、一歩前に出た。
「銭形さん、右京さん。魚住さん連れて走って! ここは私が……少しだけ『掃除』する!」
六花の周囲で、空気がビリビリと震えた。大人たちの汚い政治闘争を、圧倒的な「暴力(パワー)」でねじ伏せる準備が整った。
◇
東京駅、新幹線ホーム。三つの異なる組織(MIB、デルタ・グリーン、特務二課)が入り乱れる銃撃戦の中心で、小鳥遊六花は退屈そうにあくびを噛み殺した。
「……六花ちゃん、頼めるか?」
銭形幸一が、魚住を庇いながら叫ぶ。
「一般人に被害を出さずに、全員無力化だ! 手加減は……要らん!」
「了解。スイーツ代、上乗せでね」
六花はサングラスをずらした。蒼い瞳――六眼が輝く。
「術式順転・『蒼(あお)』」
彼女が指先を軽く弾いた瞬間、ホームの空間が歪んだ。引力が発生し、飛び交う銃弾、ナイフ、そしてエージェントたちが、まるで磁石に吸い寄せられるように一箇所(空中の何もない点)へ凝縮される。
「なっ、なんだこの引力は!?」
「くそッ、身体が動かない!」
MIBも、歴戦の暗殺者も、重力操作の前では無力だった。彼らは団子状になって空中で衝突し、互いの頭をぶつけ合って気絶した。
「はい、おしまい」
六花が術式を解くと、数十人の黒服たちがボタボタと床に落ちた。死者はゼロ。全員、脳震盪か骨折で済んでいる。
「……相変わらずデタラメな強さですねぇ」
杉下右京が感心したように言った。そして、すぐにスマホを取り出し、J-GOCのホットラインに連絡を入れた。
「はい、杉下です。東京駅にて『化学テロ未遂』が発生しました。……ええ、実行犯は確保済み。彼らの身柄は、警視庁公安部とJ-GOCで厳重に管理(人質に)させていただきます」
◇
騒動から数時間後。東京駅は封鎖され、「ガス漏れによる緊急点検」というカバーストーリーが流された。裏では、J-GOCの事後処理部隊(クリーナー)が現場を洗浄し、捕縛された米国エージェントたちは、地下の特殊拘置所へ移送された。
この事態に、ホワイトハウス(およびその裏の世界)は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
MIB本部の司令官は「東京のど真ん中で発砲? ニューラライザーの使用記録が異常値? しかも、確保されたエージェントが日本政府の人質になっただと?」と頭を抱え、「日本は『レベル5現実不全地域』だ。あそこに関わるとろくなことにならん。シンジケート派閥の暴走に巻き込まれたと言って、日本側に謝罪しろ!」と命じた。一方、米国の穏健派も「シンジケートの連中が、日本で勝手に『戦争』を始めた。これ以上、同盟国(日本)を刺激するな。トカゲの尻尾切りだ。関与した人間を切れ」と動いた。
日本の公安とJ-GOCは、確保したエージェントたちの尋問映像や装備品のデータを「外交カード」として切った。『これらを公表されたくなければ、日本政府内の協力者(鏑木)への支援を打ち切れ』と。
◇
翌日。国会議事堂、衆議院予算委員会・秘密会。非公開で行われるこの会議には、与野党の有力者と、関係省庁の幹部が集まっていた。
内閣情報調査室・理事官の鏑木は、余裕の表情で答弁席に座っていた。彼はまだ、自分がアメリカ(シンジケート)に守られていると信じていた。
「……ですから、先生方。境港での一件は、国防上の機密作戦であり、詳細はお答えできません。一部の警察官僚(右京や銭形)が騒いでいるようですが、彼らは国際情勢を理解していないのです」
鏑木は水を一口飲んだ。その時、議場の扉が開いた。
「異議あり!」
入ってきたのは、銭形幸一と杉下右京。そして、全身を黒い布と包帯で覆い、サングラスとマスクをした車椅子の人物――魚住だった。
「委員長! 重要な参考人をお連れしました!」
銭形が大声を上げる。
「なんだその怪しい人物は。国会を冒涜する気か!」
右京が静かにマイクを取った。
「彼は、NPO法人代表の魚住氏です。……重度の『紫外線アレルギー』および『皮膚疾患』をお持ちのため、このような格好をお許しください。正常性維持の観点からも、素顔を晒すことはできませんが……彼は正真正銘の、日本国納税者です」
魚住がマスク越しに、籠もった声で証言を始めた。
「……えー、私は境港で海洋調査を行っている者です。鏑木理事官の部下が、私の管理する海域に、大量の産業廃棄物を不法投棄しました。その成分分析データがこちらです」
右京が資料を提示する。そこには、単なる汚染物質だけでなく、「未知の遺伝子サンプル(六花の戦闘データ)」が含まれた記憶媒体の残骸も記録されていた。
「さらに」
銭形が一歩前に出た。彼の手には、分厚いファイルが握られている。
「ICPOの捜査権限で、貴様の隠し口座を洗わせてもらった! シンジケートからの裏金、ここまでは想定内だ。だが……これを見ろ!」
銭形が突きつけたのは、鏑木がデルタ・グリーン(シンジケートと敵対する派閥)にも情報を横流しし、両天秤にかけて利益を得ていた証拠だった。
「貴様はアメリカの威を借る狐のつもりだっただろうが、欲をかきすぎたな。シンジケートも、デルタ・グリーンも、貴様を『裏切り者』と認定したぞ」
◇
「な……馬鹿な……! 捏造だ!」
鏑木が立ち上がる。だが、彼を見る周囲の議員たちの目は冷ややかだった。
ブブッ。鏑木のスマホが震えた。画面を見ると、非通知のメッセージが一通。
『You are terminated.(契約終了)』
それは、シンジケートからの絶縁状であり、同時に死刑宣告でもあった。さらに、法務省の官僚が鏑木の元へ歩み寄る。
「鏑木理事官。アメリカ大使館から連絡がありました。『貴官の行動は、合衆国政府の関知するところではない』と。……梯子は外されましたよ」
鏑木は膝から崩れ落ちた。後ろ盾を失った彼は、ただの汚職官僚に過ぎない。
「鏑木! 貴様を外患誘致、収賄、および公務員職権乱用の容疑で逮捕する!」
銭形の手錠が、鏑木の手首にかかった。ガシャン!
「感謝しろ、鏑木。ワシらが捕まえなければ、お前は今頃、消音器付きの銃で頭を撃ち抜かれていたぞ」
連行される鏑木。その背中を見送りながら、魚住(半魚人)はマスクの下でニタリと笑った。
「……ふふ。これで海も少しは綺麗になりますかな」
◇
事件は「官僚の個人的な汚職」として幕を閉じた。超常的な背景(シンジケートや半魚人)は全て黒塗りにされ、国民の知るところとはならなかった。だが、日本政府内の「シンジケート派」は一掃され、J-GOCや公安の独立性は、以前よりも強固なものとなった。
数日後。境港。夕暮れの堤防で、六花はアイスを齧っていた。
「……終わった?」
「ああ、終わったよ」
隣に立つ銭形が、缶コーヒーを開ける。右京は、自前のティーセットを広げていた。
「東京駅のエージェントたちも、本国へ送還されました。MIB本部は、今回の件で日本支部の予算を大幅に削るそうです。……しばらくは、静かになるでしょう」
「そっか。ま、大人の事情はよく分かんないけど」
六花は伸びをした。
「平和ならいっか」
その時、海面からボコッと泡が立ち、魚住が顔を出した。手には、新鮮なアジが握られている。
「やあ皆さん。これ、お礼です。今朝獲れたばかりですよ」
「おっ! サンキュな魚住さん!」
銭形が笑って受け取る。
夕日の中、刑事と呪術師と半魚人が談笑する。それは、世界中のどこの国よりもカオスで、そして平和な日本の原風景だった。