仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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045 きゃっきゃっプール掃除

 

 鉛色の雲が垂れ込める、放課後の屋上プール。高い防音壁に囲まれたこの空間は、外からは一切見えない構造になっている。

 

「うげっ、くっさ……。ドブ川みたいな匂いだな」

 

 学校指定の紺色の海パンとラッシュガードに着替えた僕は、プールサイドに立つなり鼻をつまんだ。二十五メートルプールは、冬の間に溜まった枯れ葉や泥、そして謎の黒い藻で完全に濁りきっており、水底は全く見えない。時折、ボコッ、ボコッ、と不気味な気泡が水面に上がってきている。

 

「お待たせ、蓮くん! 準備運動しよっ!」

 

 背後から元気な声がして、僕は振り返り――咄嗟に視線を空へと逸らした。

 

「お、お前……その水着……」

 

 更衣室から出てきた六花ちゃんは、学校指定の旧型スクール水着姿だった。ただでさえボディラインがはっきりと出る濃紺の生地が、彼女の白磁のような肌を際立たせている。さらに問題なのは、中学生になって急激に発育し始めた彼女のプロポーションに対して、その水着が明らかに「ワンサイズ小さい」ことだった。

 躁状態の彼女は、そんな無自覚な破壊力に気づく様子もなく、デッキブラシを杖代わりにしながら、屈伸運動を始めた。

 

「んしょ、んしょ……。あー、体がなまってるなぁ。蓮くんもちゃんとアキレス腱伸ばしなよ? 足つったら溺れちゃうよ?」

 

「い、いいから! あんまりこっち向いて屈むな! 色々と目の毒だ!」

 

「えー? 私と君の仲なのに、何照れてるのさー」

 

 ニシシと悪戯っぽく笑いながら、六花ちゃんが距離を詰めてくる。漂ってくる微かな塩素と、シャンプーの甘い匂い。僕は必死に心の中で般若心経を唱えながら、後ずさった。

 

「二人とも、イチャつくのは後にしてちょうだい」

 

 プールサイドに設置されたテント(監視員席)から、九条先輩の冷ややかな声がスピーカー越しに響いた。先輩はジャージ姿で腕を組み、ノートパソコンの画面を睨んでいる。

 

「対象の霊力波長が上昇しているわ。蓮くん、急いで四隅に結界符を」

 

「は、はいっ!」

 

 僕は煩悩を振り払い、ラッシュガードのポケットから防水加工された呪符を取り出した。プールサイドを駆け抜け、東西南北の四隅にペシリと札を貼り付ける。

 

「オン・キリキリ・バサラ・ウン・ハッタ……結界、起動!」

 

 四枚の札が淡い光を放ち、プール全体を覆う透明なドーム状の結界が展開された。これで、怪異が校舎の別の場所へ逃げ出すことはできない。

 逃げ場を失ったプールの中央で、ドス黒い水面が、まるで沸騰したように激しく泡立ち始めた。

 

『ボコォォォォォッ……!』

 

 汚泥と、無数の黒い髪の毛が絡み合い、水柱となって立ち上がる。それは徐々に人のような形を形成し、やがて全長三メートルを超える、ぬらりとした黒い巨人へと姿を変えた。顔にあたる部分には、無数の「目玉のような模様」が浮かび上がり、ギョロギョロとこちらを睨みつけている。

 

「うわぁ……写真で見るよりずっとグロテスクだね」

 

 六花ちゃんが、全く怯える様子もなく、むしろ珍しい虫を見つけた子供のように目を輝かせた。

 

『ギ、ギギギギギ……ォォォォッ!』

 

 『髪縛の水屑』が、ヘドロと髪の毛で構成された巨大な腕を振り上げる。その腕から滴り落ちる黒い水滴が、プールサイドのコンクリートを「ジュッ」と溶かした。強い酸性、あるいは強烈な呪いが混じっている証拠だ。

 

「蓮くん、結界の維持に集中しててね。私がパパッと片付けちゃうから!」

 

 六花ちゃんは、ワンサイズ小さいスクール水着姿のまま、身の丈ほどある対魔デッキブラシを軽々と構えた。目元には、水泳用のゴーグルではなく、いつもの色の濃いサングラス。

 

「さーて、要塞学園のプール掃除、開始だよ!」

 

 彼女の細い足が、濡れたプールサイドを蹴り、弾丸のような速度で巨大な怪異へと突撃していった。

 

「せいッ!」

 

 六花ちゃんの元気な掛け声と共に、対魔デッキブラシが風を切って振るわれた。柄に貼られた呪符が青白い光を帯び、ヘドロと髪の毛の怪異の巨大な胴体を、横一文字に薙ぎ払う。

 

『ボォォォォンッ!』

 

 鈍い破裂音が響き、怪異の上半身と下半身が真っ二つに分断された。黒い飛沫がプールサイドに散らばり、ジュウウと不快な音を立てる。

 

「やったか!?」

 

 僕が結界の端で叫んだ、次の瞬間。

 

『ボコボコボコッ!』

 

 分断されたはずの上下の泥塊が、まるでスライムのようにうねり、一瞬にして元の巨人の形へと癒着・再生してしまった。

 

「うわ、ズルっ! 物理攻撃無効のチートじゃん!」

 

 六花ちゃんがデッキブラシを肩に担ぎ直し、口を尖らせる。

 

「だから言ったろ! 奴は水を吸って膨張する『流体装甲』を持ってる! 刃物も打撃も、暖簾に腕押しだ!」

 

 僕が叫ぶと、監視テントの九条先輩もマイク越しに警告してきた。

 

『蓮くんの言う通りよ。六花ちゃん、深追いは避けて。奴の魔力はプールの水がある限り無限よ!』

 

『ギィィィィィィッ!』

 

 怪異が不気味な鳴き声を上げると、その巨大な腕が「ドロドロの鞭」のように変形し、六花ちゃんへ向かってしなり打たれた。

 

「おっと」

 

 六花ちゃんは身軽にバックステップを踏んで躱すが、鞭の先端から無数の『黒い髪の毛の束』が弾け飛び、散弾のように彼女に降り注いだ。

 

「無下限・展開!」

 

 六花ちゃんが指を交差させ、見えない防壁を張る。通常なら、あらゆる攻撃は彼女の皮膚に到達する前に無限の空間に阻まれ、止まるはずだ。だが。

 

「……えっ?」

 

 六花ちゃんが素頓狂な声を上げた。防壁で止まったはずの「黒い髪の束」の一部が、まるで生きた蛇のようにうねり、無下限のフィルタリングの隙間をすり抜けてきたのだ。

 僕は前世の知識を思い出し、舌打ちをした。無下限呪術のオートガードは、対象の「質量」「速度」「形状」などを自動で判別して危険物を弾く。だが、今の六花ちゃんはまだ中学一年生。その自動判別の精度は完璧ではない。特に、プールの水やヘドロといった不定形かつ速度の遅い物質に対しては、術式がうまく弾ききれず、浸透を許してしまうことがあるのだ。

 

「ひゃうっ!?」

 

 六花ちゃんの口から、可愛らしい悲鳴が漏れた。すり抜けてきた黒い髪の毛の束が、彼女の細い足首に絡みつき、ズルリと引き寄せたのだ。

 

「ろ、六花ちゃん!」

 

「ちょ、ちょっと! なにこれ、気持ち悪い!」

 

 プールサイドの濡れたタイルに足を滑らせ、六花ちゃんは仰向けに転倒してしまう。デッキブラシが手から離れ、カランカランと転がっていく。

 

『シュルルルルッ……!』

 

 怪異は好機とばかりに、さらに無数の触手を伸ばしてきた。それらは六花ちゃんの白い手足に巻き付くと、ウネウネと彼女のワンサイズ小さいスクール水着の隙間へと入り込み始めた。

 

「んンッ……!? ひゃぁっ、冷たっ! ちょっと、どこ触ってんのよ、この変態ヘドロ!」

 

 六花ちゃんが涙目で身をよじる。精神的な不快感と、未知の触感に対するパニック。実際のところ、彼女が本気で呪力を爆発させれば、こんな低級霊の触手など一瞬で吹き飛ばせる。しかし、パニックに陥った中学生の脳は、術式の演算を一時的にフリーズさせてしまっていた。

 

「……ッ!!」

 

 僕は必死に理性を総動員し、ラッシュガードのポケットから新たな呪符をわしづかみにした。

 

「六花ちゃん、遊んでないで呪力を練れ! 吹き飛ばせるだろ!」

 

「だ、だってぇ、ぬめぬめしてて力が入らな……ひゃんっ!」

 

「何変な声出してんだバカ!」

 

 僕はプールサイドを猛ダッシュし、六花ちゃんに群がる触手めがけて呪符を数枚投げつけた。

 

「急々如律令・破!」

 

 バチバチッ!と火花が散り、触手の一部が焦げて後退する。その隙に、僕は六花ちゃんの腕を掴み、力任せに引き起こした。

 

「わっ……!」

 

 勢い余って、六花ちゃんの体が僕の胸に飛び込んでくる。濡れた水着越しに伝わる彼女の体温。至近距離で見上げる彼女の瞳が、少しだけ潤んでいた。

 

「ご、ごめん蓮くん。助かった……」

 

「い、いいから! 早く水着のズレ直せ!」

 

 僕は顔を真っ赤にしながら視線を逸らし、怪異を睨みつけた。怒り狂った怪異が、再び巨大な波となって僕たちに襲いかかろうとしている。このまま物理で削り合っても、魔力切れになるか、あるいは僕の理性が尽きるのが先だ。

 落ち着け。相手は「流体」だ。水を操っているだけで、水そのものが命を持っているわけじゃない。僕は前世の知識と、目の前の現象を照らし合わせた。この濁ったプールの中で、最も「淀み」が集中している場所。水流の起点。

 

「……見つけた」

 

 僕の視線は、濁った水底の一点に釘付けになった。

 

「六花ちゃん、デッキブラシを拾え! 奴の本体はあの水柱じゃない!」

 

「えっ? じゃあどこなの?」

 

 六花ちゃんが水着の胸元を直しながら、不思議そうに首を傾げる。

 

「プールの底だ! あの『開かずの排水溝』にこびりついてる、ヘドロの核! あそこから呪力を吸い上げて、水を操るアンテナにしてるだけだ!」

 

 僕は声を大にして叫んだ。

 

「枝葉をいくら斬っても無駄だ。根っこから引っこ抜くしかない!」

 

「なるほど! 根本から吸い出せばいいんだね!」

 

 六花ちゃんはパチンと指を鳴らし、デッキブラシを足の指で器用に拾い上げ、空中に蹴り上げた。そして、空中で見事にキャッチすると同時に、目元を隠していた色の濃いサングラスを、頭の上にずらした。

 あらわになった、宝石のように澄み切った蒼い瞳。世界そのものの情報を原子レベルで解析する神の目――『六眼』が、ドス黒い水底の奥深く、排水溝にこびりつく醜悪な呪霊の「核」を正確にロックオンした。

 

「……触手プレイはもうお腹いっぱいだよ」

 

 六花ちゃんの顔から、先ほどのパニックや躁状態の軽薄さが消え去った。そこにあるのは、圧倒的な強者の冷徹な笑みだ。

 

「ダイソンも真っ青の吸引力、見せてあげる」

 

 六花ちゃんがデッキブラシを両手で構え、柄の先端に蒼い光を収束させ始めた。プールの水が、その光の引力に引かれ、逆巻くように渦を巻き始める。反撃の狼煙が上がった。

 

 

「さあ、お掃除の時間だよ」

 

 六花ちゃんの宣言と共に、屋上プールの空気が急激に重くなった。彼女が両手で構えた対魔デッキブラシの先端に、ピンポン玉サイズの蒼い光が明滅し始める。それはただの光ではない。空間そのものを一点に収束させる、絶対的な負の引力。術式順転・『蒼』。この世界における物理法則のバグとも言えるその力が、プールの中心で解放された。

 

『ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!』

 

 すさまじい轟音が鳴り響く。最初は、プールの表面の泥水が波立つ程度だった。だが、コンマ数秒後には、二十五メートルプール一杯に満ちていた濁水が、デッキブラシの先端に向かって巨大な竜巻となって吸い上げられ始めた。

 

『ギ、ギギギギギッ!?』

 

 流体装甲を纏っていた怪異が、自身の体を構成する水を奪われ、パニックに陥ったように叫ぶ。奴は残された触手をプールサイドや底のタイルに突き刺して必死に抵抗しようとするが、無駄だ。空間そのものを引き寄せる『蒼』の引力の前では、質量など何の意味も持たない。

 

「ほらほら、逃がさないよ! 根こそぎ吸い取ってあげる!」

 

 六花ちゃんがデッキブラシを水底の排水溝に向けて突き出す。

 

 ズバァァァァァァァッ!!

 

 ダイソンの掃除機すら裸足で逃げ出す、文字通り次元の違う吸引力。怪異の巨体が、水ごと雑巾のようにギリギリとねじり上げられていく。黒い髪の毛とヘドロが、蒼い特異点に向かって凄まじい勢いで吸い込まれては、ミキサーにかけられたように粉砕されていく。

 

「す、すげえ……」

 

 結界の端にしがみつきながら、僕は暴風に目を細めてその光景を見つめていた。プールの濁水がみるみるうちに減っていく。それと同時に、怪異の分厚い流体装甲が剥がれ落ち、プールの底――開かずの排水溝にこびりついていた本体が、ついにその醜悪な姿を現した。それは、人間の臓器と大量の頭髪をタールで固めたような、おぞましい肉塊だった。ドクン、ドクンと脈打ちながら、排水溝の奥深くへと必死に逃げ込もうとしている。

 

「蓮くんの言った通りだね! あそこが根っこだ!」

 

 六眼でターゲットの呪力の結び目を完全に視認した六花ちゃんが、口角を吊り上げる。

 

「汚れは元から絶たないとね。……圧縮(クリーンアップ)!」

 

 六花ちゃんがデッキブラシを振り下ろす。『蒼』の特異点が、排水溝の蓋ごと、怪異の本体へと直撃した。

 

『ギャァァァァァァァァァァァァッ!!!』

 

 断末魔の悲鳴が屋上に轟く。引力の中心点に捕らわれた肉塊が、内側からメキメキとひしゃげ、極限まで圧縮されていく。黒い泥と髪の毛がボール状に丸められ、最後には「パンッ!」という乾いた破裂音と共に、微小な塵となって完全に消滅した。

 ……シン。耳鳴りがするほどの静寂が、プールに降りてきた。上空を覆っていた分厚い梅雨雲の間から、一筋の夕陽が差し込む。

 

「ふぅーっ。お掃除完了!」

 

 六花ちゃんがデッキブラシを肩に担ぎ、額の汗を拭った。僕は恐る恐る結界を解き、プールの中を覗き込んだ。すっからかんだ。ドブ川のように濁っていたプールの水は一滴残らず吸い尽くされ、それどころか底のタイルにこびりついていた藻や水垢すら、強烈な水流と引力で完璧に研磨されていた。新築のプールのようにピカピカに光っている。

 

『素晴らしいわ、六花ちゃん』

 

 監視テントのスピーカーから、九条先輩の感嘆の声が響いた。

 

『水質異常の完全な浄化、そしてプールの清掃まで同時に終わらせるなんて。これなら来週からの体育の授業も問題ないし、何より水道代と清掃業者の費用が浮いたわ。学校側には上手く報告しておくわね』

 

「えへへ、任せてください! メイドの嗜み(物理)ですから!」

 

 六花ちゃんが胸を張り、Vサインを掲げる。だが、そのポーズをとった瞬間。

 ビリッ。

 

「あっ」

 

 六花ちゃんのワンサイズ小さいスクール水着の、肩紐から胸元にかけての生地が、限界を迎えて裂けた。先ほどの触手による拘束と、激しい動きのダメージが蓄積していたのだろう。裂け目から、真っ白な肌が夕陽に照らされて露わになる。

 

「…………」

 

「…………」

 

 僕と六花ちゃんの視線が交差する。

 

「……きゃっ!」

 

 一拍遅れて、六花ちゃんが顔を真っ赤にして胸元を両手で隠し、その場にしゃがみ込んだ。先ほどまでの冷徹な最強術師の面影はどこへやら、年相応の恥じらいに満ちた反応だ。

 

「バカ! だから無理するなって言っただろ!」

 

 僕は慌てて着ていたラッシュガードを脱ぎ、しゃがみこんでいる彼女の頭からバサリと被せた。

 

「ご、ごめん……。その、見えた?」

 

「見てない! 僕は何も見てない! 結界の維持で手一杯だったからな!」

 

 僕は明後日の方向を向きながら、早口で言い訳を並べた。心臓の鼓動が、先ほどの戦闘中よりも明らかに早鐘を打っている。

 

「とりあえず、服を着替えてこい。僕は最後に結界の札を回収して、排水溝の蓋を閉めておくから」

 

「う、うん。ありがとう蓮くん。ラッシュガード、後で洗って返すね……」

 

 モゴモゴと顔を赤らめたまま、六花ちゃんは僕のラッシュガードを羽織って更衣室へと小走りで向かっていった。監視テントからは、九条先輩の「青春ねぇ」という呆れたような笑い声が聞こえた。

 

「……やれやれ。これでようやく、平穏な夏を迎えられるか」

 

 僕は大きく深呼吸をしてから、空になったプールの中へ備え付けの梯子を下りた。ピカピカになった水底を歩き、プールの中心にある排水溝へと向かう。先ほどの『蒼』の引力で、錆びついていた鉄格子の蓋がひしゃげて外れかかっていた。これを元に戻しておかないと、誰かが足を引っ掛けて怪我をする。

 

「よいしょ、っと」

 

 僕はひしゃげた鉄格子を持ち上げ、本来の溝にはめ込もうとした。その時。

 ふと、鉄格子の奥――プールの水を地下水道へと流す、暗く太い塩ビ管の奥底に視線が吸い寄せられた。底なしの暗闇。カビと潮の入り混じったような、酷く生臭い匂いが吹き上げてくる。

 暗闇の奥に、何か白く丸いものがある。最初は、ボールか何かが詰まっているのかと思った。だが、違った。その白い球体の中心には、濁った黄色の虹彩と、縦に割れた瞳孔があった。

 人間の頭ほどもある、巨大な眼球。それが、配管の遥か奥底から、ジッと僕を見上げていたのだ。

 

「――――ッ!!」

 

 心臓が鷲掴みにされたように凍りついた。声が出ない。全身の産毛が逆立ち、本能が「これ以上見つめ合うな」と警鐘を鳴らしている。

 あの巨大なヘドロの怪異は、独立した一体の妖怪ではなかったのだ。地下深く、この要塞学園の地下水脈に横たわる、想像を絶するほど巨大な「何か」。先ほど六花ちゃんが粉砕した肉塊は、奴のほんの指先……いや、一本の毛根程度の末端に過ぎなかったのだ。

 

『……ギロリ』

 

 濁った眼球が、ゆっくりと瞬きをした。その瞬間、排水溝の奥から、ズズズ……と低い地鳴りのような音が響いてきた。

 

「…………」

 

 僕は、一切の表情を消した。静かに、そして極めて丁寧な動作で、ひしゃげた鉄格子の蓋を排水溝にはめ込む。さらにその上から、念のため持っていた予備の結界符を三枚重ねて貼り付け、足で踏み固めた。

 

「よし。これで完璧だ」

 

 僕は誰に言うでもなく独り言を呟き、回れ右をして、プールの梯子を光の速さで駆け上がった。見なかった。僕は何も見なかった。……あれはただの錯覚だ。もしあんなものを六花ちゃんに報告すれば、彼女は「面白そうだね! 地下探検に行こっか!」と目を輝かせて、この学校の地下を更地にしてしまうだろう。

 

「蓮くーん! 着替えたよー! 帰ろー!」

 

 更衣室から、いつもの制服姿に戻った六花ちゃんが手を振っている。

 

「……あぁ。今行く」

 

 僕は胃のあたりを強く押さえながら、夕焼け空を見上げた。遠くで、ヒグラシが鳴き始めている。鳥籠のような境港白浜中学校。地下に名状しがたい怪異を飼いならし、地上では最強の少女がそれを無自覚に叩き伏せる防衛戦記。

 僕の胃薬と理性を引き換えにした、狂った街の終わらない放課後は、こうしてまた一つ、無駄に平和な一ページを刻むのだった。

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