六花ちゃんの拳が、巨大な「顔」を粉砕した瞬間。世界はガラスのように砕け散った――わけではなかった。砕けた破片の向こう側に広がっていたのは、元の世界(JR境線の車内)ではなく、さらに深く、澱んだ「情報の墓場」だった。
ザザッ……ピーー……ガガガ……。耳障りなホワイトノイズが鼓膜を震わせる。僕たちが立っていたのは、琥珀色の駅舎の残骸の上……いや、もっと抽象的な、無限に続く「廊下」のような場所だった。壁一面に、無数のブラウン管テレビが埋め込まれている。その画面には、砂嵐や、意味不明な文字列、あるいは昭和初期のニュース映像の断片が、サブリミナルのように高速で点滅していた。
「……最悪ね。表層を吹き飛ばしたら、汚泥(ヘドロ)が出てきたわ」
博麗霊夢が、お祓い棒で空中のノイズを払いながら舌打ちをした。彼女の紅白の衣装が、この彩度の低い空間で異様に浮いている。
「ここは『情報の掃き溜め』よ。さっきの駅が表層意識なら、ここは深層心理。あるいは、ネットの海に捨てられたデータの残骸ね」
「……なるほど。集合的無意識の『ごみ箱(リサイクルビン)』というわけか」
六花ちゃんが、顎に手を当てて冷静に呟いた。さっきまでのハイテンションな戦闘モードとは打って変わり、その瞳には理知的な光が宿っている。彼女の前世は、そこそこの難関国公立大学を出たインテリだ。普段の言動はアッパーだが、その思考回路は基本的には論理的で、抽象的な概念を理解するIQは僕よりも高い。
「見て、蓮くん。あのモニター群の配置」
六花ちゃんが指差す。
「ランダムに見えるけど、フラクタル構造になってる。この空間自体が、ある種の『演算装置』として機能してるのかもしれない。……だとすれば、物理攻撃だけじゃ抜けられないね」
彼女は白シャツの襟を正し、周囲の空間を見渡した。無下限呪術のバリアが、周囲のノイズ(情報の奔流)を完全に遮断している。彼女にとって、この不快な空間は「汚い部屋」と同じであり、掃除(解析)すべき対象でしかないようだ。
◇
廊下を進むにつれ、異変は加速した。壁に埋め込まれたモニターから、黒い液体のようなものが染み出し、床の上で人の形を取り始めたのだ。それは「人間」の形をしていたが、決定的に何かが間違っていた。腕が三本あるサラリーマン。顔のパーツが中心に寄りすぎている女性。口が縦に裂け、そこからテレビの調整音を発し続ける子供。アナログホラーに特有の、生理的嫌悪感を催す「不気味の谷(Uncanny Valley)」の具現化だ。
「……うぷっ」
僕は口元を押さえた。
「キツいな、これ。直視すると脳がバグる」
「蓮、目を逸らしなさい。あれは『認識災害(コグニトハザード)』よ」
霊夢が警告する。
「存在を認識した時点で、あんたの脳の視覚野に寄生してくるタイプの呪いね。……ったく、最近の怪異はデジタルの味がして不味いわ」
霊夢が御札を構えるが、六花ちゃんがそれを手で制した。
「待って、霊夢。あれは霊じゃない。……ただの『エラーデータ』よ」
六花ちゃんは、不気味なサラリーマン(腕が三本ある)に歩み寄った。相手は奇声を上げ、長い腕を振り回して襲いかかってくる。だが、六花ちゃんは動じない。彼女の瞳が、相手の構造を解析していた。
「座標指定、対象の構成情報を参照……ふん、やっぱり」
彼女は避けることすらせず、指先一つで相手の額に触れた。パチン。指を鳴らした瞬間、サラリーマンの体が「四〇四(Not Found)」という文字列に分解され、ノイズとなって霧散した。
「……は?」
僕と霊夢は同時に声を上げた。
「何したのよ、今の」
「バグ修正(デバッグ)しただけ」
六花ちゃんは平然と言った。
「こいつらは、忘れ去られた記憶や放送データが、霊的な磁場でバグって結合しただけの『情報の幽霊』。だから、こちらの認識を『これはデータである』と強く定義して、物理演算を否定してあげれば、自己崩壊するよ」
彼女は銀色の髪をかき上げ、にこりと笑った。
「要するに、『そんな人間はいない』って論破したの。情報論的(インフォマティクス)な退魔術ってところかな」
恐ろしい。彼女の意外な教養の高さが、魔術的センスと融合して、独自の解釈を生み出している。「幽霊」を「バグ」と定義し直すことで無力化する。それは、ある意味で最強の精神防御だ。
さらに奥へと進むと、巨大な広間に出た。そこは、まるで放送局のスタジオの残骸のようだった。天井からは無数のマイクやケーブルが内臓のように垂れ下がり、中央には巨大なスクリーンが鎮座している。
突然、大音量で不協和音が鳴り響いた。ブォォォォォッ!! 緊急地震速報や、ミサイル発射警報に似た、不安を煽る音。スクリーンに、真っ赤な背景と、白い明朝体の文字が映し出された。
『警告:月を見ないでください』
『警告:あなたの隣にいる人間は、人間ではありません』
『警告:直ちに自らの顔を破壊してください』
文字が高速で切り替わる。そして、スクリーンの前に、一人の「ニュースキャスター」が現れた。整ったスーツ。綺麗にセットされた髪。だが、その顔は――目も鼻も口もなく、ただ黒く塗りつぶされた「虚無」だった。
「……あれが、この階層の管理者(アドミニストレータ)か」
僕は身構えた。キャスターが口を開く(口はないのに)。
『――次のニュースです。鳥取県境港市にて、身元不明の遺体が三体発見されました。名前は、佐藤蓮さん、六花さん、博麗霊夢さんです』
ゾクリ、と背筋が凍った。予言? いや、確定した未来の報道? その言葉を聞いた瞬間、僕の足元の影が勝手に動き出し、僕の首を絞めようと這い上がってきた。
「現実改変能力持ちかよ……!」
霊夢が御札を投げるが、キャスターの周囲に展開されたノイズバリアに弾かれる。
『報道は真実です。真実は変更できません』
キャスターの声が脳内に直接響く。
「……真実? 笑わせるわね」
六花ちゃんが一歩前に出た。彼女の頭上に、雪の結晶のヘイローが眩く輝く。彼女は、この絶望的な状況を楽しんでいるかのように、口角を上げた。
「報道機関が真実を語るとは限らない。それはメディア・リテラシーの基本でしょ?」
六花ちゃんは右手を掲げた。その指先が、複雑な印を結ぶ。
「領域展開……なんて大袈裟なものじゃないけど」
彼女の周囲の空間が歪む。無下限の術式が、情報の流れを干渉・逆流させ始めたのだ。
「あんたが流しているのは『情報』。情報は『波』であり、干渉可能な『物理現象』よ。……なら、私の『無限』でフィルタリングしてあげる」
六花ちゃんの手のひらに、小さなブラックホールのような重力球が生成される。彼女はそれを、キャスターに向けて放った。
「術式順転・『蒼(あお)』――改め、『検閲(センサーシップ)』!」
放たれた蒼い光球は、キャスターの周囲の空間ごと捻じ曲げ、彼が発する「呪いの放送電波」をすべて吸い込んでいった。
『――ガガッ……音声、途切れ……ガガガッ……』
キャスターの姿がブレる。
「情報の質量過多で、サーバー落ちしたみたいね」
六花ちゃんは冷徹に言い放った。
「さあ、霊夢。あいつの『放送免許』を剥奪してやって」
「はいはい、人使いが荒いわね!」
霊夢が空中に舞う。彼女の背後の陰陽玉が回転し、膨大な霊力をチャージする。それは、デジタルな悪夢を終わらせる、アナログで原始的な神の光。
「夢想封印――『放送終了(サイン・オフ)』!!」
霊夢の放った極大の霊弾が、キャスターと巨大スクリーンを直撃した。閃光。そして、古いテレビのスイッチを切った時のような、「プツン」という音が世界に響いた。
◇
霊夢の放った霊弾が、ニュースキャスターの虚無の顔を貫き、背後の巨大スクリーンごと粉砕した。ガラスが割れるような甲高い音。そして、プツン……という、古いブラウン管テレビの電源を切った時のような音が響き、放送スタジオの幻影が霧散した。
その向こう側に広がっていたのは、壁ではなかった。僕――佐藤蓮(さとう・れん)は、思わず息を呑み、その場に立ち尽くした。
「……嘘だろ。駅の外は、こんなことになっていたのか」
そこには、圧倒的な「荒廃」が広がっていた。空はどこまでも高く、毒々しいほどの琥珀色に染まっている。雲の代わりに、蜘蛛の巣のような細い繊維が空一面を覆い、時折、乾いた風に揺れていた。大地は赤錆色の砂漠だ。その砂漠の上に点在するのは「廃墟」ではない。「墓標」だ。
遥か彼方に見えるのは、人間の背骨を複雑に組み合わせて作ったような、高さ数百メートルはある巨大な塔。あるいは、朽ち果てた大聖堂のようなシルエットを持つ、名もなき巨石構造物。それらが、夕焼けのような永遠の光の中で、長い影を落として沈黙している。
ズジスワフ・ベクシンスキーの世界。死と、腐敗と、しかしどうしようもなく荘厳な「滅びの美」が支配する風景。
「……綺麗だね」
隣で、六花ちゃんが静かに呟いた。彼女の声には恐怖はなく、純粋な感嘆が混じっていた。
「生命反応はゼロ。有機物は全て石化するか、金属と融合してる。……文字通り、終わってしまった世界なんだ」
彼女は銀色の髪を風になびかせ、眩しそうに目を細めた。
「僕たちがいた地下鉄は、この広大な砂漠に捨てられた『おもちゃ箱』の一つに過ぎなかったってことか」
「そういうことよ」
博麗霊夢が、お祓い棒を肩に担いで空中に浮かび上がった。
「感傷に浸ってる暇はないわ。あそこを見て」
霊夢が指差したのは、遥か彼方、巨大な「枯れ木」の上に引っかかっている、赤錆びた鳥居のようなものだった。その鳥居の中だけが、歪んだ空間の渦を巻いている。
「あれが私の神社の裏山――境港の『黒山(くろやま)』に繋がるパスよ。あそこまで走るわ」
「走るって……数キロはあるぞ!」
僕が叫ぶと、六花ちゃんが僕の腰に手を回した。
「掴まってて、蓮くん。ここから先は『観光』の時間じゃないみたいだし」
◇
ズズズズズ……。地響きがした。砂漠の向こうから、山のように巨大な影が近づいてくる。それは、四本の長い脚を持つ「歩く教会」だった。教会の尖塔が頭部のように揺れ、窓からは青白い炎が吹き出している。さらに、空からは「顔のない巨大な鳥」の群れが、不快な電子音を発しながら降下してくる。
「敵性存在、多数確認。……やっぱり、異物を排除しに来たね」
六花ちゃんが、僕を小脇に抱えたまま姿勢を低くした。彼女の全身から、青い魔力が奔流となって溢れ出す。
「蓮くん、舌を噛まないようにね」
「ちょ、待っ――」
ドンッ!!
爆発的な加速。六花ちゃんが地面を蹴った瞬間、周囲の景色が線となって後方へ飛び去った。速い。新幹線並み……いや、それ以上だ。無下限呪術による「無限」の収束を応用した高速移動。空間そのものを圧縮して滑るように移動しているのだ。
「ギャァァァッ!」
上空から襲いかかる怪鳥の群れ。六花ちゃんは速度を緩めず、空いた片手で空を薙いだ。
「邪魔だよ」
術式順転・『蒼(あお)』。引力の特異点が発生し、怪鳥たちをひとまとめにして吸い込み、圧壊させる。血肉ではなく、黒いデータの残骸となって霧散していく鳥たち。
「すごい……この世界、物理法則が緩いから、術式の通りがいいね」
六花ちゃんは楽しげに笑った。
「霊夢! 先導お願い!」
「任せなさい! 夢想封印・散!」
空を飛ぶ霊夢が、無数の追尾弾をばら撒く。光の弾幕が、迫りくる「歩く教会」の脚を次々と破壊し、バランスを崩させる。巨体が砂漠に倒れ込み、轟音と共に鉄粉が舞い上がった。
僕たちは、その崩壊する巨人の脇を、一陣の風となって駆け抜けた。琥珀色の空の下、銀色の髪の少女と、紅白の巫女が、終末世界を切り裂いていく。それは恐怖を通り越して、ある種の神話的な光景ですらあった。
◇
目的地の鳥居が近づいてきた。それは断崖絶壁の上にあり、下には底の見えない暗闇が広がっている。鳥居自体も激しく点滅し、ノイズを発していた。
「出口が不安定になってるわ! 急いで!」
霊夢が叫ぶ。
「蓮くん、しっかり掴まって。跳ぶよ!」
六花ちゃんが、断崖の縁で踏み切った。フワッ……。重力が消失したかのような浮遊感。僕たちは空中に投げ出され、鳥居の渦の中へと吸い込まれていく。
その瞬間。背後から、これまでとは異質の「何か」が迫ってくる気配を感じた。振り返ると、琥珀色の空に巨大な「目」が開いていた。まぶたはなく、ただただ冷徹に、こちらを観察する瞳。その瞳孔の奥に、砂嵐のような映像が見えた気がした。
『D O N ' T L E A V E』
脳内に直接響く声。六花ちゃんは、空中でくるりと反転し、その巨大な目に向かって優雅に手を振ってみせた。
「さよなら。君の世界観、嫌いじゃなかったよ。……住みたくはないけどね」
彼女の頭上のヘイロー(雪の結晶)が、最後の輝きを放つ。その光が閃光弾(フラッシュバン)となって、巨大な目を眩ませた。
視界が真っ白に染まる。落下感覚。そして――。
◇
ドサッ! 柔らかい草の上に転がった。
「……いっつつ……」
僕は身を起こし、眼鏡がズレているのを直した。むっとするような草の匂い。肌にまとわりつく高い湿度。そして、耳をつんざくような蝉の声。
そこは、見覚えのある神社の裏手だった。境港市、黒山。小高い丘の上にある、博麗神社の境内だ。
「あー……帰ってきたぁ」
隣で、六花ちゃんが大の字になって空を見上げていた。空はすでに夜の帳が下りており、見慣れた星空が広がっている。琥珀色の空ではない。
「やっぱり、日本の湿気って落ち着くね」
彼女は制服の汚れを払いながら起き上がった。その白いシャツには、異界の赤錆ひとつ付着していない。さすがは無下限の使い手だ。
「やれやれ、とんだ『神隠し』だったわね」
霊夢が、鳥居(こちらは朱塗りの綺麗なものだ)の上から降りてきた。
「あんたたち、お祓い代はツケとくわよ。出世払いでいいけど」
「ありがとうございます、霊夢さん。……助かりました」
僕は深々と頭を下げた。
僕たちは境内の階段を降り、それぞれの家路につくことにした。あの異界での出来事が、まるで長い夢だったかのように感じる。だが、ポケットの中で震えたスマホが、それが現実だったことを告げていた。
◇
帰り道。街灯の下で、僕はスマホを確認した。「圏外」の表示は消え、4G回線が戻っている。だが、写真フォルダを開くと、そこに見知らぬ動画ファイルが一つだけ保存されていた。ファイル名は文字化けしている。
「……これ」
再生ボタンを押す。画面に映し出されたのは、ザラザラしたノイズ混じりの映像だ。琥珀色の駅のホーム。そこには、こちらに背を向けて歩き去る、二人の人物が映っていた。一人は制服の少年。もう一人は、銀色の髪の少女。だが、少女がふとこちらを振り返った瞬間――その顔が、真っ黒に塗りつぶされていた。
『ミ ツ ケ タ』
低い合成音声と共に、動画はプツリと終了し、ファイルごと消滅した。
「……うわっ!」
僕は思わずスマホを取り落としそうになった。
「どうしたの? 蓮くん」
隣を歩く六花ちゃんが、不思議そうに覗き込んでくる。街灯に照らされた彼女の顔は、いつもの整った、少し大人びた美少女の顔だ。黒塗りなどされていない。
「……いや、なんでもない。ただのスパム動画だ」
僕は冷や汗を拭い、スマホをポケットにねじ込んだ。あれは、あの世界からの「お土産」か。あるいは、まだ視線が繋がっているのか。
「ふーん? まあいいや」
六花ちゃんは伸びをして、夜空を見上げた。
「明日はプール掃除だっけ? 何が出るか楽しみだね。デッキブラシ、新調しなきゃ」
彼女の横顔を見ながら、僕は安堵の息をついた。琥珀色の終末世界も恐ろしかったが、明日からの「要塞学園」での日常も、十分にスリリングだ。でも、彼女が隣にいるなら、まあなんとかなるだろう。
「……ああ、そうだな。明日は晴れるといいな」
遠くで、夜汽車の警笛が鳴った気がした。だが、境線はもう終電が終わっている時間だ。僕は振り返ることなく、六花ちゃんと共に夜の道を歩き続けた。