仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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怪談:盛り塩のマンション

 

 俺が鳥取県の大学に通うために、境港市へ引っ越したのは2016年の春だった。実家からの仕送りは少なく、バイト代もたかが知れている。だから、不動産屋のカウンターで「家賃2万5千円、共益費込み、リノベーション済み2LDK」という物件を見せられた時は、事故物件であることを疑うよりも先に、心の中でガッツポーズをしたものだ。

 

「……あの、これ事故物件ですか?」

 

 一応、マニュアル通りに聞いてみた。

 担当の不動産屋――脂ぎった中年男性は、ハンカチで額の汗を拭いながら、首を横に振った。

 

「いえいえ、滅相もない。前の住人の方は……ええ、転勤で退去されました。自殺や孤独死といった事実は一切ございません」

 

「じゃあ、なんでこんなに安いんです?」

 

「いやぁ、オーナー様がちょっと変わった方でしてね。『管理規約』さえ守っていただければ、学生さんを応援したいとおっしゃってるんです」

 

 そのマンション――仮に『メゾン・シオカゼ』としておこう――は、港の近くの埋立地に建っていた。4階建ての鉄筋コンクリート造り。外壁は潮風で少し黒ずんでいるが、内装は驚くほど綺麗だった。ただ、内見に行った時、俺はすぐに「その異様さ」に気づいた。

 塩だ。マンションのエントランス、集合ポストの下、エレベーターの四隅、そして各部屋のドアの前。至る所に、白い小皿が置かれ、そこに「盛り塩」がされていた。それも、飲食店で見るような可愛らしい円錐形ではない。どんぶり一杯分くらいの粗塩が、荒々しく山盛りにされているのだ。

 

「……これ、なんですか?」

 

 俺が指差すと、不動産屋はさも当然のように言った。

 

「ああ、この辺りは海が近いですからね。湿気取りと、まあ、魔除けみたいなもんですよ。漁師町特有の風習だと思ってください」

 

 俺は鳥取の人間じゃないからよく知らないが、そんな風習があるのかと納得しようとした。不動産屋は、契約書に判を押す直前、真顔でこう付け加えた。

 

「佐藤さん。一つだけ、絶対に守っていただきたいルールがあります。この盛り塩には、決して触れないでください。もし崩してしまったら、すぐに管理会社へ連絡を。24時間対応ですから。……絶対に、そのままにして夜を明かさないでくださいね」

 

 大げさな人だな、と俺は思った。その時はまだ、安く住めるなら多少の宗教勧誘くらいは我慢しよう、程度に考えていたんだ。

 

 

 引っ越して最初の数週間は快適だった。隣人の生活音はほとんど聞こえない。というか、住人がいる気配が極端に薄い。たまにすれ違うのは、疲れた顔をしたサラリーマン風の男か、怯えたように足早に歩く主婦くらいだった。

 異変に気づいたのは、五月の連休明けだったと思う。

 大学から帰宅すると、俺の部屋――304号室の隣、305号室の前の盛り塩が、変色していた。夕日に照らされているせいかと思ったが、違う。真っ白だったはずの塩が、どす黒い赤色に染まっているのだ。まるで、塩が何か悪いものを吸い取って、飽和してしまったかのように。そして、微かに生臭い。腐った魚と、鉄錆を混ぜたような臭いがした。

 

「うわ……なんだこれ」

 

 俺が顔をしかめていると、エレベーターが開いて、作業着を着た男が現れた。背中に『(株)財団ハウジング・管理課』というロゴが入っている。このマンションの管理人だ。

 管理人は、俺に挨拶もせず、無言で305号室の前へ歩み寄った。そして、手にした金属製のトングで、赤黒い塩の塊を慎重に掴み、持参した銀色の密閉容器へと放り込んだ。その手つきは、ゴミ掃除というよりは、放射性廃棄物の処理に似ていた。

 

「……あの、それ」

 

 俺が声をかけると、管理人はギロリと俺を睨んだ。その目は、深く沈んでいて、クマが酷かった。

 

「……見ない方がいいですよ、学生さん」

 

 声は低く、押し殺したようだった。

 

「湿気でカビが生えただけです。よくあることです」

 

 管理人は手早く新しい塩を山盛りにすると、逃げるように去っていった。俺はその夜、隣の305号室から、一晩中「ズズッ、ズズッ」という、何か重いものを引きずるような音が聞こえた気がして、なかなか眠れなかった。

 

 

 そして、あの日が来た。六月の梅雨時。境港はずっと雨が降っていて、街全体が海の中に沈んでいるような湿気だった。

 俺はサークルの飲み会で遅くなり、深夜二時過ぎに帰宅した。かなり酔っ払っていた。千鳥足でエレベーターを降り、自分の部屋、304号室へと向かう。廊下の照明は薄暗く、チカチカと点滅していた。俺は鍵を取り出そうとして、足元がおぼつかなくなり――

 

 ガシャッ。

 

 思い切り、蹴飛ばしてしまった。ドアの前に置かれた、あの山盛りの塩を。

 白い山は無惨に崩れ、廊下に散らばった。酔っていた俺は、不動産屋の警告をすっかり忘れていた。あーあ、やっちまった。……まあいいか、明日片付けりゃ。管理会社に連絡? こんな深夜に? 馬鹿馬鹿しい。

 俺は靴の裏で、散らばった塩を適当にドアの前に寄せ集めた。元のような綺麗な山ではない。ただの汚い塩の残骸だ。「これでよし」と一人ごちて、俺は部屋に入り、鍵をかけ、泥のように眠りについた。

 

 ……目が覚めたのは、一時間後だったと思う。

 

 ピチャ……ピチャ……

 

 廊下から、音が聞こえた。雨漏りかと思った。だが、音は移動していた。エレベーターホールの方から、俺の部屋の方へ。

 

 ズルッ……ピチャッ……ズルッ……

 

 濡れた雑巾の束を引きずりながら、素足で歩くような音。それが、301号室の前を通り過ぎ、302、303と近づいてくる。心臓が早鐘を打ち始めた。酔いは一瞬で醒めた。

 音は、俺の部屋――304号室の前で、ピタリと止まった。

 静寂。雨の音さえ聞こえない。俺は布団を頭まで被り、息を殺した。頼む、通り過ぎてくれ。隣の部屋に行ってくれ。

 だが、次の瞬間。

 

 ガチャンッ!!

 

 ドアノブが、乱暴に回された。鍵は掛かっている。開くはずがない。しかし、ドアの向こうの「何か」は、諦めなかった。

 

 ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ!!

 

 尋常ではない速度で、ドアノブが回され続ける。金属が軋む音が、深夜のワンルームに響き渡る。そして、ドアの郵便受けの隙間から、「臭い」が入ってきた。数週間放置した魚の内臓と、下水を煮込んだような、強烈な腐臭。

 さらに、声が聞こえた。

 

『……ケ……た……』

 

 それは、人間の声帯から発せられたものではなかった。泡が弾ける音を無理やり繋ぎ合わせて、日本語を模倣したような音。

 

『……塩……ナ……い……』

 

『……ハイ……れ……ル……?』

 

 俺は理解した。あの盛り塩は、カビ取りでも魔除けのまじないでもない。物理的に「ナニカ」を防ぐための、境界線(ライン)だったんだ。俺がそれを蹴飛ばして、崩してしまったから。境界が、途切れている。

 

『……ア……ケ……テ……』

 

 ドアの下の隙間から、ヌルリとした何かが室内へ滲み込んできそうになった、その時だった。

 

 カツ、カツ、カツ。

 

 廊下の向こうから、別の足音が聞こえた。それは、あの濡れた雑巾のような音とは違う。硬い革靴が、コンクリートの床を規則正しく叩く音だった。

 ドアの前で暴れていた「ナニカ」の気配が、ピタリと止まった。ガチャガチャという金属音も止む。まるで、天敵に出会った小動物のように萎縮している気配がした。

 俺は息を殺して耳を澄ませた。男の声が聞こえた。低く、ひどく不機嫌そうな声だ。

 

「……チッ。304号室か。また『漏れ(ブリーチ)』かよ」

 

 管理人だ。あの作業着の男の声だ。だが、その口調はいつもの無愛想なものとは少し違っていた。もっと冷徹で、事務的な響きがあった。

 

「おい、そこ退け。汚れるぞ」

 

 誰に言っているんだ? ドアの向こうの怪物にか?

 

 直後。プシュッ! というスプレー缶のガスを噴射したような音と、バチチチチッ! という高圧電流がショートしたような音が響いた。

 

『ギャアアア……ブギュ……!』

 

『ア……ツイ……! イタ……!』

 

 ドアの向こうで、カエルが踏み潰されたような、あるいは風船が破裂したような断末魔が上がった。壁に何かが激しくぶつかる音。そして、ズルズルと崩れ落ちる音。

 静寂が戻った。雨の音だけが、遠くから聞こえてくる。

 俺が震えていると、再び管理人の声が聞こえた。どこかへ無線連絡をしているようだ。

 

「……あー、こちらエージェント田村。304号室前、『海からのモノ(タイプ・ディープ)』の幼体を処理完了。ああ、まただ。住人が結界(塩)を破損させた。……いえ、記憶処理は不要でしょう。ドアを開けていない。清掃班を寄越してください。腐敗臭が酷い」

 

 無線が切れると、ドアの向こうで「サッサッ」と箒で何かを掃く音が始まった。さらに、ザラザラと新しい塩を盛る音がする。

 俺はその間、一歩も動けなかった。助けを呼ぶことも、礼を言うこともできなかった。ただ、布団の中で朝が来るのを待つしかなかった。

 

 

 翌朝。小鳥のさえずりで目が覚めた俺は、昨夜の出来事が悪い夢だったのではないかと思った。恐る恐る玄関へ行き、ドアチェーンをかけたまま、少しだけドアを開けた。

 廊下には、何もなかった。腐臭もしない。濡れた跡もない。そして俺の部屋の前には、昨日蹴散らしたはずの塩が、完璧な円錐形に盛り直されていた。真っ白で、美しい塩の山だ。

 ただ一つ、夢ではなかった証拠があった。ドアの郵便受けに、一通の封筒がねじ込まれていたのだ。差出人は『株式会社 財団ハウジング』。

 震える手で封を開けると、中には一枚の請求書と、退去勧告書が入っていた。

 

『件名:共用部分汚損および規約違反に関する請求』

 

『内容:特殊清掃費用(危険物処理)一式』

 

『請求額:80,000円』

 

 そして、手書きのメモが添えられていた。

 

『次はもっと頑丈な鍵をつけてください。命の値段よりは安いですから』

 

 

 俺はその日のうちに大学を休んで、引っ越しの手配をした。金はなかったが、親に泣きついて「幽霊が出た」と嘘をついて借金した。嘘じゃないかもしれないが、本当のことを言っても信じてもらえないだろう。

 一週間後。引越し業者のトラックに荷物を積み込み、俺はこの奇妙なマンションを去ることになった。

 トラックの助手席に乗り込む直前、ふとマンションを見上げた。屋上。普段は気にも留めない給水タンクの側面に、ペンキで奇妙なマークが描かれているのが見えた。円の中に、三つの矢印が内側を向いているマーク。その下に、小さくアルファベットと数字が書かれていた。

 

『SCP-JP-███ 収容棟』

 

『Warning: Keep Salted(塩を絶やすな)』

 

 だがそれは瞬きした瞬間に消えて、元の白いタンクに戻っていた。

 その時、俺はようやく理解した気がした。あのマンションは、人が住むための場所じゃなかった。「何か」を閉じ込めておくための檻か、あるいは「何か」を誘き寄せるための餌場だったんだ。そして俺たち貧乏学生は、その檻の番人(あるいは餌)として、安く雇われていただけだったのかもしれない。

 トラックが走り出す。バックミラーの中で、マンションの管理人が、新しい入居者らしき学生に頭を下げているのが見えた。その足元には、真っ白な盛り塩が、今日もまた積み上げられていた。

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