最初に言っておきますがこの話に特定の組織を下に見る意図はありません。中にはこういう事もあったりするんじゃないかという話です。
2016年、6月。梅雨の入り。鳥取県・大山(だいせん)。古来より修験道の霊場として知られるこの山は、分厚い雲と白い霧に覆われ、重苦しい静寂に包まれていた。
山麓の寂れた林道を、一台のレンタカーが走っていた。運転しているのは、リアム・ベル。サウスダコタ州の秘密倉庫「ウェアハウス13」に配属されたばかりの新人エージェントだ。
「……アーティ、現場に到着した。ひどい天気だ。それに、なんだか空気が重い。息苦しいよ」
リアムは耳元の通信機(ファーンズワース)に向かってボヤいた。通信機からは、倉庫の管理者アーティ・ニールセンのしわがれた声が返ってくる。
『気をつけろリアム。そこはただの山じゃない。東洋の神秘主義においても特異点とされる場所だ。ターゲットは「小野篁(おののたかむら)の筆」。書いた文字を現実に変える力があるが、代償として使用者の正気を吸い取る』
「了解。サッと回収して、中和ケースに入れて、日本の寿司でも食って帰るよ」
リアムは車を降り、湿った土を踏みしめた。彼は気づいていなかった。自分が足を踏み入れたその森が、J-GOC(日本超常現象対策協議会)が指定する「第二種・特異呪術指定区域」であり、すでに一般人を遠ざけるための「帳(とばり)」が下りていることを。
◇
目的の廃寺は、朽ち果てていた。柱には無数のお札(呪符)が貼られ、風もないのにカサカサと音を立てている。
リアムは愛用のテスラ・ガン(電気ショック銃)を腰に、慎重に本堂へと進んだ。奥の祭壇。そこに、黒ずんだ一本の筆が置かれている。ウェアハウスの支給した探知機が、激しく反応を示した。
「ビンゴ。紫色のオーラが出てる。典型的なアーティファクトだ」
リアムは専用の「中和グローブ(紫の手袋)」をはめ、筆に手を伸ばした。これまでの任務と同じだ。遺物は中和剤で無力化し、フェラノラ(静電気吸着剤)のケースに入れれば終わり。……そのはずだった。
ビチャッ。リアムの手の甲に、何かが落ちてきた。雨漏りではない。黒く、粘り気のある、腐った油のような液体。
「……え?」
見上げると、本堂の梁(はり)に、「それ」が張り付いていた。人の形をしているが、手足の関節が二つずつあり、顔があるべき場所には巨大な口だけが開いている。全身から瘴気と殺意を撒き散らす異形。アーティファクトの守護者ではない。それは、長年放置された筆に宿った怨念が受肉した「呪霊」だった。
「なっ……怪物!?」
リアムは反射的にテスラ・ガンを抜いた。バチチチッ! 高電圧の蒼い稲妻が、異形に向かって放たれる。物理的な生物なら気絶し、エネルギー体(幽霊)なら霧散するはずの一撃。
だが。稲妻は呪霊の身体を素通りし、背後の壁を焦がしただけだった。呪霊は、痛みを感じる様子もなく、むしろ「邪魔だ」と言わんばかりに腕を振るった。
「……ギィィ……」
ボグッ。
「ぐあぁぁっ!?」
リアムの身体が吹き飛ばされ、境内の石畳に叩きつけられた。右腕に激痛が走る。見ると、テスラ・ガンを持ったままの手首が、ありえない方向にねじ曲がっていた。
『リアム! どうした!? 反応が乱れているぞ!』
「あ、アーティ! 武器が効かない! 電気も、中和剤もだ! こいつ、遺物じゃない! 物理法則が違う!」
リアムはパニックに陥りながら、予備の「中和液(ニュートラライザー)」を投げつけた。しかし、紫色の液体は呪霊の身体にかかっても、何の効果も発揮せず滑り落ちるだけだった。ウェアハウスの科学(疑似科学)は、「遺物」というルールの上でしか機能しない。だが、ここは日本。「呪い」という、全く異なるOSで動く世界だった。
◇
逃げなければ。リアムは激痛に耐え、境内から駆け出した。しかし、寺の出口が見当たらない。先ほど車を停めたはずの林道が消え、無限に続く杉林が広がっている。
結界……!? 閉じ込められた!?
背後から、ズリ、ズリ……と、何かを引きずる音が近づいてくる。死の予感が背筋を駆け上がった時。
前方の霧の中から、数人の人影が現れた。黒いスーツを着た男たち。耳にはインカム、手には日本の刀や、奇妙な巻物を持っている。
助かった、とリアムは思った。
「お、おい! 助けてくれ! 後ろに怪物が……!」
しかし、男たちの目は、背後の呪霊よりも冷たかった。リーダー格の男が、手元のタブレットを見ながら気だるげに言った。
「……あー、やっぱり。結界の反応が乱れたと思ったら、ネズミが入り込んでいましたか」
「は? 私はアメリカ政府の……」
リアムが懐のIDを見せようとするが、男は無視した。
「J-GOC・事後処理班です。そこの外国人。……貴方、登録証(ライセンス)は?」
「と、登録? なんの……」
「ない、と。未登録の術師あるいは呪詛師が、指定区域内で特級呪物を勝手に持ち出そうとした。これ、呪術テロ特措法違反および文化財保護法違反で、即時処理対象なんですよ」
男が冷徹に告げると、部下たちが銃器ではなく「お札(呪符)」を構えた。
「ま、待て! 後ろ!」
リアムが叫ぶ。呪霊が、リアムの頭上から襲いかかろうとしていた。
リーダーの男は、ため息をつきながら懐から「呪具(短刀)」を抜いた。
「……どけ」
シュッ。目にも止まらぬ速さ。男がリアムの横をすり抜けた瞬間、背後の呪霊の首が飛び、黒い塵となって崩れ去った。
ウェアハウスの最新装備が通用しなかった怪物を、たった一振りのナイフで?
男は血振るいをして納刀し、侮蔑の眼差しをリアムに向けた。
「さて。怪異(ノイズ)は消した。次は不法侵入者の処理だ」
部下たちがリアムを取り囲む。彼らの眼差しには、人間に対する感情がない。それは「汚染物質」を処理する、事務的な冷徹さだった。
「ウェアハウス? 知らんな。だが、日本の『穢れ』を甘く見た代償は払ってもらう」
◇
その後、リアムはJ-GOCの「隔離施設」へと連行された。そこは、警察署でも病院でもない。地下深く、壁一面にお札が貼られたコンクリートの独房だった。
取調室。J-GOCの保守派官僚が、事務的に書類を作成していた。
「名前はリアム・ベル。アメリカ国籍。所持品は……なんだこの玩具(テスラ・ガン)は。没収だ」
「……治療してくれ。腕が折れてるんだ」
リアムは脂汗を流しながら訴える。
「大使館に連絡を……」
「大使館? 無駄ですね」
官僚は冷たく切り捨てた。
「貴方が接触した『筆』は、特級呪物の一種です。あれに生身で触れた貴方の魂には、すでに『呪い』が根付いている。貴方はもう人間ではない。『保菌者(キャリア)』だ」
「な……」
「一般社会に戻せば、貴方の周囲で不幸な事故が多発するでしょう。我が国の法律では、保菌者は『隔離』か『祓除(=殺処分)』の対象となります」
官僚は、まるで害虫駆除の予定表を見るようにカレンダーを見た。
「上(保守派上層部)の判断待ちですが……まあ、殺処分が妥当でしょうね。モグリの外国人に人権はありませんから」
リアムは絶望した。ここは「不思議な冒険の世界」ではない。死と呪いが隣り合わせで、それを非情なシステムで管理するディストピアだった。
アーティ……ごめん。俺、ここで死ぬんだ……。
独房の扉が閉ざされ、暗闇が訪れる。その時。廊下の向こうから、怒りに満ちた足音と、騒がしい声が近づいてきた。
◇
バンッ!! 隔離施設の厳重な扉が、物理的(あるいは呪術的)に吹き飛んだ。
「……誰だ!?」
J-GOCの官僚たちが色めき立つ。硝煙と木片が舞う中、一人の男が入ってきた。法衣(五条袈裟)をまとい、長い黒髪を結い上げた長身の男。その表情は穏やかだが、瞳の奥には煮えたぎるような怒りが渦巻いている。
夏油傑(げとう・すぐる)。呪術高専・東京校教師であり、J-GOC改革派の重鎮。
「……やあ。随分と酷いことをするじゃないか」
夏油は倒れた警備員たちを跨ぎ、リアムの独房の前に立った。
「特級呪術師、夏油傑だ。……その外国人の身柄、私が預かるよ」
「な、夏油さん!? これは正規の手続きで……!」
官僚が抗議するが、夏油の背後から現れた巨大な呪霊(虹龍)が威嚇すると、全員が沈黙した。
夏油は独房の鍵を破壊し、ボロボロになったリアムを見下ろした。その目は、かつて彼が持っていた「非術師への侮蔑」ではなく、強者が弱者を守るための「慈愛」と「責任」に満ちていた。
「立てるかい? 迷子のエージェント君」
夏油が手を差し伸べる。
「……君たちのボス(アーティ)には、私が話をつける。……この国の『膿』を見せてしまって、すまなかったね」
リアムは、その手が神の手に見えた。しかし同時に、この男が背負う「闇」の深さにも、本能的な畏怖を感じずにはいられなかった。
◇
J-GOC隔離施設の地下独房。破壊された扉の前に立つ夏油傑は、静かに、しかし絶対的な威圧感を持って官僚たちを見下ろしていた。
「……君たちのやり方は、いつも時代錯誤だね」
夏油が口を開くと、保守派の官僚たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「彼はアメリカの公的機関のエージェントだ。無知だったとはいえ、悪意はない。それを、手続きもなしに『処理』しようとするなんて……。猿(非術師)以下の野蛮な振る舞いだと思わないか?」
「げ、夏油さん……! ですが、規則では未登録の術師は……!」
官僚の一人が震える声で反論を試みる。夏油は冷ややかに微笑んだ。
「規則? ああ、君たちが既得権益を守るために作ったあの古臭いルールのことか。だから君たちは嫌われるんだよ。宗教団体からも、フリーの霊能力者からも、そして若者たちからもね」
そう。J-GOC内部の保守派は、現代社会において孤立していた。彼らの「血統主義」や「秘密主義」は、ネット社会やグローバル化する超常現象に対応できず、現場からは「爛れたミカン」と蔑まれている。
「……行こうか、リアム君」
夏油はリアムの肩を抱き、歩き出した。背後で巨大な呪霊が「ギロリ」と官僚たちを睨みつけ、彼らは悲鳴を上げて道を開けた。
「……あ、ありがとう。あなたは……?」
リアムが痛む腕を抑えながら尋ねる。
「私は夏油傑。呪術高専の教師だよ。……君のボス(アーティ)には、私が直接詫びを入れよう。日本の『おもてなし』が、こんなに血生臭いものであったことをね」
◇
数日後。アメリカ、サウスダコタ州。荒野にぽつんと佇む巨大な倉庫、ウェアハウス13。
管理者のアーティ・ニールセンは、モニターの前で冷や汗を流していた。警備システムが、かつてない反応を示していたからだ。
「……なんだこの数値は? アーティファクト反応じゃない。もっと生々しい……『質量を持った感情』の塊が近づいてくる」
倉庫の入り口。自動ドアが開き、和装(五条袈裟)の男が一人、静かに入ってきた。パスポート片手に、まるで観光客のような気軽さで。
「やあ。ここが噂のウェアハウス13かい? ……ふむ。随分と雑多な気配がするね。歴史の澱(おり)のような」
夏油傑だ。彼は瞬時にこの場所の本質を見抜いた。ここは「呪い(負の感情)」を封じる場所ではなく、「遺物(人間の歴史と願望)」を保管する場所だと。
「動くな!」
マイカとピートがテスラ・ガンを構える。アーティが前に出た。
「……君が、リアムを助けてくれた男か。日本の『ソーサラー(呪術師)』だな?」
「いかにも。……銃を下ろしてくれないか? 私は謝罪に来たんだ」
夏油は懐から手土産(高級和菓子)を取り出し、デスクに置いた。そして、深々と頭を下げた。
「申し訳なかった。私の国の未熟なシステムが、君の大切な部下を傷つけてしまった」
その所作は完璧で、優雅だった。しかし、アーティは感じ取っていた。この男の背後に渦巻く、数千、数万の「呪い」の気配を。もし彼がその気になれば、この倉庫の遺物を全て暴走させることすら可能だろう。
「……リアムの腕は、君の同僚(家入硝子)が治してくれたと聞いた。感謝する。だが……日本という国は、皆、君のような化け物(モンスター)なのか?」
アーティの問いに、夏油は苦笑した。
「いや。私は『改革派』と呼ばれる少数派だよ。……君たちが扱う『遺物』は、人間の願いや歴史が生んだものだね? だから、どこか人間臭くて、愛嬌がある」
夏油は、近くにあった「ルイス・キャロルの鏡」を指先で撫でた。
「だが、私たちが扱う『呪い』は違う。あれは純粋な悪意、腐敗、死だ。……それと長く向き合いすぎたせいで、我々の社会(上層部)もまた、腐ってしまったのかもしれない」
夏油の瞳に、一瞬だけ暗い影が落ちた。かつて彼自身が、その「腐敗」に飲み込まれそうになり、非術師を皆殺しにしようとした過去。それを親友(五条悟)に救われ、今はこうして「教育」によって世界を変えようとしている現在。
「……日本には近づくな、とは言わない。だが、次に来る時は正規の手続き(我々への連絡)を踏んでくれ。そうすれば、美味しい蕎麦屋くらいは案内するよ」
夏油はそう言い残し、踵を返した。
◇
夏油が去った後のウェアハウス13。張り詰めていた空気が緩み、ピートが座り込んだ。
「……なんだよ、あの人。めちゃくちゃイケメンで優しそうだったけど……。なんか、今まで会ったどの悪役よりも怖かったぞ」
リアム・ベルは、治療された右腕をさすりながら呟いた。
「ああ。ウェアハウスの任務は『不思議(ワンダー)』との戦いだ。でも、日本にあるのは……『呪い(カース)』なんだ」
リアムは、夏油が置いていった和菓子の箱を開けた。中には、美しい練り切りが入っている。しかし、リアムにはそれが、あの廃寺で見た「粘液」のように見えて、どうしても手を伸ばすことができなかった。
アーティは、ファイル棚に「日本」の項目を新設し、大きな赤字で書き加えた。
『警告:J-GOC管轄区域への侵入は、自殺行為と知れ。彼らのルールは、物理法則よりも重い』
世界の広さと、深淵の暗さを知ったウェアハウスのエージェントたち。彼らの冒険は続くが、極東の島国だけは、しばらく地図から除外されることになるだろう。