【公文書整理番号:XX-2013-05-XX】
【件名:黒山地区道路拡張計画に伴う地盤調査・中間報告書(未提出)】
【作成者:境港市役所 建設部土木課 主査 坂口洋平】
その異変は、幽霊や妖怪といった類のものではなく、Excelの冷徹な数値として私の目の前に現れた。
2013年6月14日。午後9時を回った境港市役所、土木課の執務室。
空調の切れた室内は、梅雨入り前の湿気と、古紙の埃っぽい匂いが充満していた。私は、先日「病気療養」という理由で突然休職した前任者――安田技師のデスクを引き継ぎ、残されたパソコンのデータを整理していた。
「……計算が、合わない」
私は眼鏡の位置を直し、モニターの数値を三度目の再計算にかけた。
対象は、市内北西部に位置する通称「黒山(くろやま)」地区。
自衛隊の演習予定地を含み、現在は立ち入り禁止区域となっているその山裾を削り、県道を拡張するという公共事業だ。
問題は「土砂搬入量」と「地盤高(GL)」の不整合だった。
過去5年間、この黒山地区には「地盤改良工事」という名目で、ダンプカー延べ数万台分、およそ450万立方メートルの土砂やコンクリートが搬入されていることになっている。東京ドーム数杯分だ。これだけの量を埋めれば、谷の一つや二つは埋まり、地形が変わっていなければおかしい。
だが、最新の航空レーザー測量のデータは、残酷な事実を示していた。標高が変わっていない。いや、むしろ5年前と比較して、平均で3.5センチメートル「沈下」している。
450万立米の土砂はどこへ消えた? 横流しか? 業者が伝票を改竄し、空のダンプを走らせて公金を中抜きしているのか?
「……典型的な汚職か。安田さんはこれに気づいて、消された(飛ばされた)のか?」
背筋に冷たいものが走る。だとしたら、これは市役所レベルの話ではない。県、あるいは国会議員クラスが絡んだ一大スキャンダルだ。
見なかったことにするべきか。だが、私の生真面目な性格――あるいは公務員としての融通の利かなさが、それを許さなかった。
私はデータをUSBメモリにコピーし、上着を掴んで席を立った。
現場を見るしかない。それが、私の人生における最大かつ最後の過ちだった。
翌日。天気は薄曇り。日本海から吹き付ける風は生暖かく、潮の匂いを含んでいた。私は公用車のライトバンを走らせ、市街地から外れた「外浜ルート」を進んでいた。
黒山が見えてくる。弓ヶ浜半島の平坦な砂地に、そこだけ腫瘍のように盛り上がった、鬱蒼とした原生林。地元民からは「あそこには近づくな」と言われて育ったが、大人になればそれは「自衛隊の施設があるから」という現実的な理由に置き換わっていた。
工事用道路の入り口には、頑丈な鉄柵が設けられ、警備員が立っていた。
私は車を寄せ、窓を開けた。
「ご苦労様です。市役所土木課の坂口です。現場の確認に来ました」
警備員は、シルバー人材センターから派遣されたような老人ではなく、体格の良い30代の男だった。制服を着ているが、その目つきは鋭く、腰には警棒だけでなく、無線機や何やら物々しい装備を下げている。
「許可証は?」
「あ、いや、通常の巡回ですので……」
「なら帰れ。ここは現在、特定管理区域だ」
男は私の顔を見もせずに言った。
「特定管理区域? 聞いていませんが。ここは市有地も含まれて……」
「県の管轄に移管された。市役所の人間でも、事前の申請なしには通せない」
「そんな馬鹿な。工事の進捗管理はウチの課の仕事です。現場監督を呼んでください」
私が食い下がると、男はゆっくりとこちらを見た。
サングラスの奥の瞳が、爬虫類のように冷たく光った気がした。
「……坂口さん」
名乗っていないのに、名前を呼ばれた。
「『安田さん』のようになりたくなかったら、余計な仕事は増やさないことだ。……引き返せ」
それは警告というより、宣告だった。背後の詰め所から、さらに数人の男たちが出てくるのが見えた。全員、作業着の下に鍛え上げられた筋肉を隠している。土建屋じゃない。こいつらは、「プロ」だ。
「……わかりました。出直します」
私は震える手でギアをバックに入れ、逃げるようにその場を離れた。
帰り道、ルームミラーを見る回数が増えた。ずっと後ろをついてくる車がある。品川ナンバーの、黒塗りのセダン。スモークガラスで中の様子は見えないが、明らかに私を追尾している。
恐怖よりも、怒りが湧いてきた。やはり、黒山では「何か」が行われている。不正な産廃処分場か、あるいは軍事施設の極秘建設か。どちらにせよ、彼らは市職員を脅してまで隠蔽しようとしている。
市役所に戻った私は、すぐに課長に報告した。しかし、課長の反応は予想外のものだった。
「坂口君。黒山の件からは手を引け」
課長は書類から目を離さず、低い声で言った。その顔色は土気色で、額には脂汗が浮いている。
「は? でも課長、あそこの数値はおかしいんです! 業者の不正の可能性が……」
「いいから引け! これは命令だ!」
課長がバン、と机を叩いた。そして、周囲を気にするように声を潜め、私の耳元で囁いた。
「……上から電話があったんだ。市長よりも、県知事よりも、もっと『上』からだ。……安田君のことは忘れるんだ。彼が何を見たかも、詮索するな」
課長の目は怯えていた。権力への恐怖? いや、もっと根源的な、生理的な恐怖に見えた。
「……わかりました」
私は表面上、承諾した。だが、腹の中では決意していた。こんな理不尽がまかり通っていいはずがない。私が証拠を掴んでやる。マスコミにリークして、この腐った構造を暴いてやる。
その日の深夜、午前2時。私は私用の軽自動車に乗り、再び黒山へと向かった。公用車は目立つし、GPSで管理されている可能性がある。
カメラと懐中電灯、そして護身用のスパナをリュックに詰め込んだ。
正面ゲートは警備が厳重だ。私は地図に載っていない、かつて林業者が使っていた古い獣道から山に入ることにした。
車を藪の中に隠し、徒歩で斜面を登る。静かだ。あまりにも静かすぎる。6月の山なら、カエルや虫の声がうるさいほど聞こえるはずなのに、この山は死んだように沈黙している。聞こえるのは、自分の荒い息遣いと、遠くから響く潮騒だけ。
(……おかしい。海までは数キロあるはずなのに、波の音がすぐそこで聞こえる)
湿気が異常に高い。服が肌に張り付く。汗ではない。空気そのものが、塩水を含んだミストのようにねっとりとしている。
30分ほど登ると、視界が開けた。そこは、地図上では「道路拡張予定地」となっている場所だった。私は木の陰に身を隠し、眼下の光景に息を飲んだ。
「……なんだ、あれは」
工事現場用の投光器が、その場所を昼間のように照らし出している。
重機が動いていた。巨大なパワーショベルが数台、無言でアームを動かしている。そして、その中心にあるもの。
それは「工事」ではなかった。
地面に、巨大な「穴」が開いていた。
直径50メートルはあるだろうか。その穴の中に、重機が絶え間なくコンクリートを流し込んでいる。だが、穴は埋まらない。コンクリートが、穴の底から湧き上がる「黒い泥」に飲み込まれ、ズブズブと沈んでいくのだ。
私は望遠レンズを覗き込んだ。ピントを合わせる。背筋が凍りついた。
泥じゃない。あれは……「動いている」。アスファルトのような黒い粘液が、まるで生き物のように脈打ち、コンクリートを咀嚼している。
そして、穴の縁には、迷彩服を着た男たちが立っていた。彼らは銃を持っていたが、それを穴に向けているわけではない。彼らは……「お経」のようなものを唱えながら、穴に向かって何かを投げ込んでいた。
白い袋。人間くらいの大きさの、白い袋。それが投げ込まれるたびに、黒い泥は歓喜するように袋を飲み込み、一瞬だけ大人しくなる。
「……人身御供?」
馬鹿な。21世紀の日本だぞ。だが、私の震える指は、無意識にシャッターを切っていた。カシャ、カシャ、という電子音が、やけに大きく響く。
その時。ファインダーの中の男の一人が、ふと顔を上げた。距離は100メートル以上ある。暗闇だ。私が見えるはずがない。なのに、男は正確に私の方を向き――ニヤリと笑った。
男の目が、赤く光っていた。いや、男だけじゃない。穴の中から、泥の中から、無数の「白い目」が一斉に開き、私を見上げた。
『……見ちゃった?』
耳元で、女の声がした。私は悲鳴を上げ、カメラを抱えて走り出した。後ろは振り返らなかった。振り返れば、二度と人間の世界に戻れない気がしたからだ。
私は走った。道なき獣道を、転げ落ちるように駆け下りる。リュックの中のカメラとノートパソコンが背中にガンガンと当たるが、痛みを気にしている余裕はない。
心臓が破裂しそうだった。脳裏に焼き付いているのは、あの巨大な穴。脈打つ黒い泥。そして、それを見下ろす赤い目の男と、耳元で囁かれた女の声。
『……見ちゃった?』
幻聴だ。そう自分に言い聞かせる。極度の緊張と疲労が見せた幻覚だ。あれはただの違法産廃処分場で、作業員たちは防護マスクか何かをつけていただけだ。そうだ、そういうことにしておけ。とにかく車に戻り、この山を降りて、明るい市街地に戻れば――。
だが、私の「常識」による防衛本能は、周囲の環境の変化によって容赦なく削り取られていった。
臭い。磯の香りが、吐き気を催すほど濃くなっている。ここは黒山の山中のはずだ。なのに、足元の落ち葉が、ぬるぬるとした「ワカメのような質感」に変わっている。木の幹には、白い粉が吹いている。カビかと思ったが、指についたそれを舐めて、戦慄した。塩だ。森全体が、塩漬けにされている。
「……はぁ、はぁ、なんだよこれ……!」
ようやく、藪の中に隠していた私の軽自動車が見えた。現代文明の象徴。鉄とプラスチックの塊。それを見た瞬間、安堵で涙が出そうになった。
しかし、ドアノブに手をかけた瞬間、その安堵は凍りついた。ベタつく。ドアノブが、濡れていた。夜露ではない。もっと粘着質で、生臭い液体。そして、ボディの塗装が浮き上がり、まるで数十年放置された廃車のように、所々赤錆が浮いている。たった数時間。私が山に入っていた数時間の間に、私の車は「老化」していた。
「動け……頼むから動いてくれ……!」
私は半狂乱でキーを回した。キュルルル、キュルルル……。エンジンがかかりにくい。バッテリーが弱っている。祈るような思いでアクセルを踏み込むと、ズドンという振動と共に、なんとかエンジンが息を吹き返した。
私はライトを点け、アクセルを全開にした。車が急発進し、獣道を強引に突破して林道へ出る。助かった。これで帰れる。
そう思った直後だった。ダッシュボードのカーナビが、勝手に起動した。
『GPS信号を捕捉しました』
『現在地を確認してください』
無機質な電子音声。
私はちらりと画面を見た。そして、ハンドルを切り損ねそうになった。
画面に表示されている自車位置のアイコン。それは、道路の上ではなかった。陸地ですらなかった。
青一色。アイコンは、境港の北、日本海の沖合20キロの地点を表示していた。
「……故障か? ふざけるなよ、こんな時に!」
私はナビを叩いた。だが、表示は変わらない。それどころか、画面上のアイコンは、猛スピードで「海底」へと沈んでいくように移動している。
ザザッ……ザザザッ……。今度は、切っていたはずのカーステレオから、ノイズが流れ始めた。AMラジオの放送終了後のような砂嵐の音。
そのノイズの奥から、無機質な男の声が聞こえてきた。DJの声ではない。業務無線の傍受音声のような、冷徹な声だ。
『……感度良好。対象エリア、侵食深度レベル4を確認』
『物理障壁の維持は困難。これより、プロトコル・焼却(イシナギ)へ移行する』
『当該区域の座標を放棄。現実空間からの「切除」を開始せよ』
「……切除?」
背筋が粟立つ。誰が、何を話している? 自衛隊か? それとも、もっと別の組織か?
『――繰り返す。生存者の有無は問わない。全て「汚染物質」として処理せよ』
その言葉が聞こえた瞬間、フロントガラスの景色が一変した。
林道のガードレール。その向こうに見えるはずの境港の夜景。
街の灯り。コンビニの看板。家の明かり。それらが、「歪んで」いた。
まるで、水槽の中から外の世界を見ているように。あるいは、分厚いガラス越しに景色を見ているように、街の灯りがゆらゆらと揺らめき、遠ざかっていく。
違う。街が遠ざかっているんじゃない。私が、「沈んで」いるんだ。
車は山道を下っているはずなのに、気圧がおかしい。耳がキーンと痛む。窓の外を流れる霧が、白濁した液体のように濃くなっていく。
ヘッドライトが照らす先に、魚の影が見えた気がした。空を、魚が泳いでいる?
「う、わあああああああ!!」
私は絶叫し、アクセルを床まで踏み込んだ。逃げなければ。このままでは、私は「処理」される。土砂崩れか、転落事故か、あるいは行方不明者として、書類一枚でこの世から消される。
ドンッ!
車の屋根に、何かが落ちてきた。重い音。石か? いや、バン、バン、バンと叩く音がする。
手だ。誰かが、屋根にしがみついている。
『……ねえ』
また、あの声。今度は耳元じゃない。後部座席から聞こえた。
バックミラーを見る勇気なんてない。見てはいけない。見たら、それが「確定」してしまう。
「降りろ! 降りろ降りろ降りろォ!!」
私はハンドルを左右に振った。車体が激しく揺れる。タイヤが悲鳴を上げる。だが、屋根の上の「重り」は外れない。それどころか、ミシミシと天井が凹んでいく。塩水が、天井の隙間からポタポタと垂れてくる。それが私の肩に落ちた。焼けるように熱く、そして氷のように冷たい。
前方に、急カーブが見えた。ガードレールの向こうは崖だ。ブレーキを踏む。――スカッ。
抵抗がない。ブレーキペダルが、床まで抜けた。オイルラインが切られている? いや、錆びついて折れたのか?
「あ――」
私の口から、情けない音が漏れた。
車は物理法則に従い、カーブを直進する。ヘッドライトが、虚空を照らす。そこにあるはずのない「水面」を照らす。
浮遊感。そして、激突の衝撃。
世界が反転し、ガラスが砕け散る音と共に、私の意識は暗い水の底へと引きずり込まれていった。
【翌日の地方紙・朝刊 社会面】
『市職員の車、崖下に転落 運転の男性は行方不明』
16日未明、境港市黒山地区の県道沿いの崖下で、同市職員・坂口洋平さん(29)の軽乗用車が大破しているのが発見された。車内に人影はなく、警察は坂口さんが運転を誤って転落した後、車外へ投げ出されたか、自力で脱出しようとして海に流された可能性があるとみて捜索している。現場はガードレールのない急カーブで……
現場検証記録:2013年5月16日 午前6時30分
担当:境港警察署 交通課および刑事課
「……酷いな、こりゃ」
ベテラン刑事のAは、潮風に吹かれながら顔をしかめた。崖下、波打ち際の岩場に、ひしゃげた軽自動車が仰向けに転がっている。クレーンで引き上げるまでもなく、その「異様さ」は崖の上からでも見て取れた。
「おい、鑑識。あれを見ろ」
「はい……ありえませんね」
若い鑑識官が青ざめた顔で答える。車体全体が、赤茶色の錆(サビ)に覆われていたのだ。ナンバープレートは腐食して判読不能。タイヤのゴムはボロボロに劣化し、ホイールは塩の結晶で白く固まっている。
昨夜事故を起こした車ではない。まるで、「数十年間、海底に沈んでいた車」が、突然ここに打ち上げられたような状態だった。
「被害者の坂口という男、新車を買ったばかりだと聞いていますが……」
「ああ。だが、この残骸はどう見てもスクラップだ。時間の進み方がおかしいのか、強力な酸化剤でも被ったか」
Aはタバコに火をつけようとしたが、ライターの火がつかない。湿気が酷すぎるのだ。
彼は苛立たしげにライターを投げ捨て、部下に指示した。
「車内の遺留品は?」
「はい。運転席のフロアマットの下から、これが見つかりました」
部下が証拠品袋を差し出す。中に入っていたのは、奇跡的に原形をとどめているデジタルカメラのSDカードだった。坂口が命がけで守り抜いた、あの「不正の証拠」だ。
「……防水仕様か。よし、署に持ち帰って解析だ。事故の原因がわかるかもしれん」
解析室:同日 午前10時
モニターの前に、刑事たちと技術捜査官が集まっていた。
坂口のSDカードには、数百枚の写真データが保存されていた。
「出します」
技術官がキーを叩く。最初の数枚は、何の変哲もない工事現場の写真だった。重機、土砂、作業員。だが、タイムスタンプが深夜2時を回ったあたりから、画像がおかしくなり始めた。
「……なんだこれ? ノイズか?」
写真の半分が、砂嵐のようなノイズで塗りつぶされている。
辛うじて写っている部分には、巨大な「穴」のようなものが確認できる。
だが、その穴の中身が判然としない。黒い、不定形の何か。拡大すると、画素(ピクセル)の一つ一つが、「人の目玉」のような形に歪んでいるように見えた。
「気持ち悪い画像だな……。おい、次のファイルは動画か?」
「はい。再生します」
動画ファイルが開かれた。画面は真っ暗だ。レンズキャップをしたまま録画したのか、あるいは完全な闇の中なのか。
だが、音声だけはクリアに記録されていた。
『……はぁ、はぁ、なんだよこれ……!』
坂口の声だ。走っている。逃げている。
『来る! 海が上がってくる! 山なのに!』
『……ねえ』
刑事たちが息を飲む。坂口の荒い息遣いに混じって、明らかに「別の声」が入っていた。若い女の声。いや、老婆のようにも、子供のようにも聞こえる、性別不明の声。
『……見ちゃった?』
ザザッ……ザザザザッ……。
激しいノイズ。そして、唐突に、「笑い声」が響いた。ケタケタケタ、という乾いた笑い声ではない。
ゴボッ、ゴボッ、ジュルッ……という、溺れながら笑っているような、湿った水音。
プツン。そこでデータは途切れていた。衝突音も、悲鳴もない。ただ、唐突な切断。
解析室に、重苦しい沈黙が流れた。誰も口を開かない。開けば、認めてはいけないものを認めることになるからだ。
「……事故だな」
Aが低い声で言った。
「深夜の山道で、ハンドル操作を誤った。被害者はパニック状態で、幻覚を見ていた可能性がある。……精神的に追い詰められていたんだろう」
「で、ですが警部! この音声は……!」
「若いの。お前、まだこの街で働きたいか?」
Aの目が、爬虫類のように冷たく光った。
若い刑事は言葉を飲み込んだ。
「……SDカードは破損していた。データは復旧不能。……いいな?」
「……はい」
証拠は握りつぶされた。いや、最初から証拠になどなり得なかったのだ。
「怪異」は、法廷では裁けない。
◇
一週間後
境港市役所、土木課。坂口のデスクは綺麗に片付けられていた。
彼の私物はダンボール箱に詰められ、実家へと送り返された。
代わりに座っているのは、県から出向してきた新しい職員だ。
「あー、黒山の件ですね。はい、はい。予定通り進行中です」
新しい担当者は、電話口で快活に答えている。窓の外を見る。遠くに見える黒山は、今日も梅雨空の下、鬱蒼とした緑に覆われている。
あの夜、坂口が見た「穴」も、「泥」も、まるで最初から存在しなかったかのように、風景に溶け込んでいる。
ただ一つ、変わったことがあるとすれば。黒山の麓にあった古びた公衆電話ボックスが、撤去されたことくらいだ。何でも、ガラスの内側に「泥の手形」が何度拭いても浮き出てくるという苦情があったからだとか。
カナカナカナカナ……。夕暮れ時。市役所の窓から、ヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。その声は、どこか物悲しく、そして警告しているようにも聞こえた。
――まだ、終わっていない。――何も、終わっていない。
坂口洋平、行方不明。境港市の「神隠し」リストに、また一つ名前が増えただけの、ありふれた初夏の出来事だった。