霊とか相談所、調味市。壁掛け時計の針が、午後9時50分を指した瞬間、霊幻新隆(れいげん・あらたか)はバネ仕掛けのように事務椅子から飛び上がった。
「よし! そこまでだモブ! 作業中止! 帰れ!」
雑巾がけをしていた影山茂夫(モブ)が、キョトンとした顔で顔を上げる。
「え? 師匠、まだ床の半分しか……」
「床なんてどうでもいい! 時計を見ろ、21時50分だぞ!」
霊幻は鬼気迫る表情で、モブの背中を押してロッカーへ誘導した。この世界の霊幻新隆は、ただの詐欺師ではない。前世の記憶を持つ「転生者」である。前世ではブラック企業で摩耗し、過労死寸前だった記憶がある彼にとって、自身が経営する「霊とか相談所」をホワイト企業にすることは、至上命題だった。
特に、モブは高校2年生。17歳だ。労働基準法第61条。使用者は、満18歳に満たない者を午後10時から午前5時までの間において使用してはならない。これに違反すれば、6ヶ月以下の懲役または30万円以下の罰金。いや、罰金よりも社会的信用だ。俺は! 未成年を深夜までこき使うブラック経営者にはならん! 断じて!
「ほら着替えろ! タイムカードは俺が押してやる! 交通費は出しとくからタクシー使え!」
「あ、ありがとうございます。……師匠、なんか今日、焦ってます?」
「焦ってない! コンプライアンスを遵守してるだけだ!」
霊幻は額の汗を拭った。あと10分。10分以内にモブを事務所から追い出し、自宅へ帰さなければならない。モブが学生服に着替えるのを待つ時間が、永遠のように感じられた。
◇
21時53分。着替えを終えたモブが、カバンを持ってドアに向かう。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
「おう、お疲れ! 寄り道すんなよ! 補導されたら俺が始末書書くことになるんだからな!」
モブがドアノブを回し、いつもの調味市の路地裏へと出る――はずだった。ガチャリ。ドアが開いた瞬間、そこに広がっていたのは、見慣れたアスファルトの道路ではなかった。
「……え?」
モブが足を止める。霊幻も、後ろからその光景を覗き込み、絶句した。
そこには、無限に続くショッピングモールがあった。ただし、人の気配は一切ない。壁は目に痛いほどのショッキングピンク。床は市松模様の大理石。天井からは枯れ果てた観葉植物が垂れ下がり、どこからともなく、音が伸びきったようなスローテンポのBGM(80年代のシティポップ)が流れている。空気は乾燥し、埃っぽく、そして異様に静かだった。
「……は?」
霊幻の脳内で、前世の知識が検索結果をはじき出す。おい嘘だろ。これ……『Backrooms』か? あるいは『Vaporwave』的なリミナルスペース……!
「師匠、外装工事ですか?」
モブが天然なことを言う。
「バカ野郎、そんなチャチなもんじゃない! ドアを閉めろ!」
霊幻が慌ててドアを閉めようとするが、ドアノブが溶けたように歪み、動かない。しかも、振り返ると、事務所の窓の外も、同じピンク色のモールに変わっていた。
「……閉じ込められた」
霊幻は青ざめた。異界に迷い込んだ恐怖ではない。時計を見た。21時54分。あと6分で22時になる。ここで出られなくなれば、モブの「深夜労働」が確定してしまう。
「くそっ! ふざけんなよ! 俺のホワイト経営計画を邪魔する気か!」
◇
その時だった。事務所の隅に置いてある、地デジ化以降はインテリアと化していた古いブラウン管テレビが、突然「ブツン!」という音と共に起動した。ザザザッ……ピーーー……。耳障りな砂嵐。そして、画面に極彩色のテストパターンが表示され、不気味な緊急警報のアラート音が鳴り響いた。
『ブォォォォォォン……ブォォォォォォン……』
「うわ、うるさっ」
モブが耳を塞ぐ。画面が切り替わる。映し出されたのは、昭和の深夜番組のような、粗い画質のテレビショッピングのセットだった。しかし、そこに立っている司会者は、人間ではなかった。安っぽいスーツを着ているが、顔のパーツが福笑いのようにズレている。目は頬の位置にあり、口は額にある。そして、それらは黒い検閲バーで隠されていた。
『こ ん ば ん は。 お 買 い 得 情 報 で す』
合成音声特有の、抑揚のない声。テロップが出る。フォントがホラー映画のように赤く滲んでいる。
『不 要 な 記 憶、 高 価 買 取 致 し ま す』
『ス ト レ ス、 ト ラ ウ マ、 全 て 現 金 化!』
「……なんだこれ。趣味の悪い海賊放送だな」
霊幻はテレビのコンセントを確認したが、そもそも抜けていた。典型的な「アナログホラー」の侵入パターンか。ベタだな。2016年にVHS画質とか、一周回って流行りか? 転生者としてのメタ視点が、恐怖よりも「呆れ」を感じさせる。
だが、事態は深刻だった。天井から、バサバサと何かが落ちてきたのだ。それは、大量の「商品カタログ」だった。ただし、紙ではない。薄く伸ばした「人間の皮膚」のような質感で、ページをめくるとヌチャっという音がした。
「うわ、気持ち悪っ」
モブがカタログを拾い上げる。
「師匠、これ見てください。『幼少期の孤独:500円』って書いてありますよ。安いですね」
「触るなモブ! 呪われるぞ!」
◇
テレビの中の司会者が、不自然な動き(フレームレートが欠落したカクカクした動き)でカメラに近づいてきた。額にある口が、検閲バーの下でニヤリと裂けるのが見えた。
『お や ? そ こ の ボ ク』
画面から、白く長い指がニュルリと飛び出し、モブを指差した。3Dテレビではない。物理的に液晶を突き破って出てきている。
『素 晴 ら し い 「鬱 屈」 を お 持 ち で す ね』
『学 校 デ ノ 孤 独。 弟 ヘ ノ 劣 等 感。 抑 圧 サ レ タ 感 情』
司会者の声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。モブの無表情な顔が、ピクリと動いた。彼の内側にある、爆発寸前の超能力エネルギー。それを、この怪異は「商品」として値踏みしているのだ。
『そ の 「100%」 …… 全 部 売 っ て く れ ま せ ん か ?』
『今 ナ ラ、 人 生 ヲ リ セ ッ ト デ キ ル 金 額 ヲ ……』
モブの髪が、重力に逆らって浮き上がり始めた。部屋の備品がカタカタと震える。
「……師匠。これ売ったら、結構なお小遣いになりますか? 律に何か買ってあげたいんですけど」
「バカ野郎!」
霊幻が叫んだ。恐怖からではない。時計の針が、21時56分を回ったからだ。
「モブ! そいつの口車に乗るな! お前の感情(100%)なんて売ったら、調味市が消し飛ぶぞ! それに何より!」
霊幻は、テレビから飛び出している司会者の指を、素手でひっぱたいた。パァン! 乾いた音が響く。
「今は営業時間外だ! うちは22時完全閉店なんだよ! セールスなら明日の朝出直してこい!」
『……ハ ?』
司会者の動きが止まった。想定外の反応だったらしい。
「あと、未成年者との売買契約には親権者の同意が必要だ! 民法第5条を知らんのかこの三流怪異が!」
霊幻は、カタログ(人皮製)を丸めて、司会者の指をさらに叩いた。
「帰れ! そしてモブを帰らせろ! 俺の財布が深夜割増賃金で死ぬ前に!」
霊幻の剣幕に、怪異とモブ、双方が呆気にとられた。だが、時計の針は無情にも進む。あと3分。ホワイト企業の矜持をかけた、世紀のクレーム対応バトルが幕を開けようとしていた。
◇
時刻は21時57分。深夜労働禁止のデッドライン(22時)まで、あと3分。
霊幻新隆は、ブラウン管テレビから飛び出している白い腕を、カタログ(人皮製)でペチペチと叩き続けていた。
「痛いか? 痛いなら引っ込めろ! うちは飛び込み営業お断りなんだよ!」
『グ ヌ ヌ …… リ ズ メ デ 来 ル ト ハ ……』
司会者の手が、不承不承といった様子で画面の中に引っ込んだ。だが、その顔にある検閲バーの下で、見えない目がギラリと光った気がした。
『デ ハ、 契 約 者 ヲ 変 更 シ マ ス』
『そ こ の 、 オ ジ サ ン』
司会者が、今度は霊幻を指差した。画面のノイズが激しくなる。極彩色の背景が、ドス黒い赤色へと変色していく。
『ア ナ タ ノ 中 ニ 、 「別 ノ 人 生」 ノ 記 憶 ガ ア リ マ ス ネ ェ ?』
霊幻の背筋が凍った。この怪異、ただの詐欺師ではない。転生者である霊幻が隠し続けてきた最大の秘密――「前世の記憶」を、商品として値踏みしているのだ。
『現 代 日 本 …… ブ ラ ッ ク 企 業 …… 過 労 …… 孤 独 ナ 死 ……』
『芳 醇 ナ ト ラ ウ マ デ ス ! ソ レ 、 高 価 買 取 致 シ マ ス !』
「……ッ!」
霊幻は動揺を隠そうと、声を張り上げた。
「はっ! 何を言ってるんだか! 俺の人生はこの『霊とか相談所』一本だ! 変な言いがかりをつけるな!」
『隠 セ マ セ ン ヨ …… 無 料 査 定 、 始 メ マ ス』
ズズズズ……。テレビの枠が溶け出した。画面から、一本、また一本と、黒い触手のような腕が伸びてくる。それは物理的な質量を持って、霊幻の頭(記憶)をこじ開けようと迫ってきた。
「師匠!」
モブが一歩前に出る。彼の髪が逆立ち、周囲の空間がビリビリと震え始めた。感情エネルギーの数値が跳ね上がる。30%……50%……。
「待てモブ! 手を出すな!」
霊幻が制止した。
「お前が本気(100%)を出したら、このビルごと吹き飛ぶ! 修理費と近隣への賠償金で事務所が潰れるぞ!」
「でも、師匠が!」
「俺は大丈夫だ! それより時計を見ろ! あと2分しかない!」
◇
21時58分。事務所(という名の異界)の浸食が加速した。ピンク色の壁紙が剥がれ落ち、下から生々しい赤身の肉のような壁が露出する。天井の蛍光灯が破裂し、代わりに無数の「目玉」がぶら下がってこちらを見下ろしている。典型的な「グリッチ系ホラー」のクライマックス演出だ。
『売 レ ! 売 レ ! 記 憶 ヲ ヨ コ セ !』
司会者の顔が崩壊し、ノイズの塊となって霊幻に襲いかかる。
「くそっ、これだからアナログ回線は!」
霊幻は必死に黒い腕を振り払う。ネバネバとした感触。生理的嫌悪感がすごい。だが、彼の頭にあるのは恐怖ではない。あと1分……あと1分で22時だ……! ここでモブに残業をさせたら、俺の「ホワイト企業経営者」としてのプライドが死ぬ! そして割増賃金(1.25倍)が発生する! 金がない! 今月の売り上げはカツカツなんだ!
極限状態の思考が、霊幻に奇妙な勇気を与えた。彼は黒い腕に掴まれながら、叫んだ。
「お客様ーッ! 困ります! あーっ! 個人情報の不正取得です! コンプライアンス違反ですーッ!」
「師匠、何やってるんですか……」
モブが呆れたように呟く。
「モブ! 見てるだけじゃなくて手伝え! いや、戦うんじゃない! 『帰る』んだ!」
「帰る?」
「そうだ! お前の超能力で、この空間の出口をこじ開けろ! 『定時退社』への執念を見せろ!」
モブは少し考え込み、そして頷いた。
「わかりました。……母さんが、今日はハンバーグだって言ってたんで」
ゴゴゴゴゴ……! モブの周囲に、凄まじいオーラが立ち昇る。それは「怒り」でも「悲しみ」でもない。純粋なる「帰宅願望」のエネルギー。
空間が歪む。無限に続くショッピングモールの景色が、雑巾のように絞り上げられていく。
◇
21時59分。残り60秒。
『ナ ニ ヲ スル 気 ダ …… 放 送 ハ マ ダ 続 イ テ ……』
司会者が慌ててテレビから這い出そうとする。
「放送終了だ、バカ野郎!」
霊幻は、懐から「最終兵器」を取り出した。スーパーで買ってきた、1キロ100円の食卓塩。封を切っていない新品だ。
「モブ! 空間圧縮と同時に、テレビの電源コードを念動力で引っこ抜け!」
「はい」
「俺はその隙に、こいつの口(スピーカー)に、物理的に『放送禁止用語(塩)』を詰め込んでやる!」
霊幻が塩の袋を構える。モブが右手を掲げる。ホワイト企業の威信をかけた、最後の共同作業。秒針が、12の数字に近づいていく。カチ、カチ、カチ……。
「行くぞオオオオッ!!」
◇
21時59分50秒。深夜労働禁止の刻限まで、あと10秒。
霊幻新隆が投じた「最終兵器」――未開封の1キログラム入り食卓塩の袋が、唸りを上げて空を飛んだ。それは浄化の願いを込めた聖なる礫(つぶて)ではない。単なる鈍器だ。
「必殺! 対霊・物理・ソルトスプラッシュ(1kg)!!」
ドゴォッ!!
塩の袋が、テレビから半身を乗り出していた司会者の顔面(検閲バーの部分)に直撃した。袋が破裂し、白い粉雪が舞う。
『ガ ッ …… !? 塩 分 過 多 …… !』
司会者がのけぞる。物理的な衝撃と、塩という概念上の弱点が同時に作用し、彼のノイズ混じりの身体が激しく明滅する。
「今だモブ! 引っこ抜けェェェ!!」
霊幻の合図と同時に、影山茂夫(モブ)が右手を握り込んだ。超能力が発動する。空間圧縮。無限に続いていたはずのピンク色のショッピングモールが、雑巾を絞るようにグシャリと歪み、一点に収束していく。
そして、モブの視線がテレビの裏側のコンセントを捉えた。
「……スイッチ、オフ」
バチンッ!! 電源コードが、見えない手によって勢いよく引き抜かれた。火花が散る。
『ク ー リ ン グ …… オ …… フ ……』
司会者の断末魔が、テープの回転を止めたように間延びしていく。彼の身体が、そしてこの悪趣味なショッピングモールの空間すべてが、ブラウン管の中へと吸い込まれるように渦を巻いて消失した。
◇
プツン。世界から色が消え、音が消えた。
……静寂。
霊幻が目を開けると、そこはいつもの「霊とか相談所」の事務室だった。ピンク色の壁紙も、枯れた観葉植物も、人皮のカタログもない。あるのは、埃を被った古いテレビと、床に散らばった大量の塩だけだ。
霊幻は、床にへたり込みそうになるのを堪え、恐る恐る壁掛け時計を見上げた。カチッ。長針が、12の数字に重なった。
午後10時00分。
「……セーフ!!」
霊幻はガッツポーズをした。
「見たかモブ! ギリギリセーフだ! 深夜労働の割増賃金(1.25倍)発生せず! 労基法第61条クリアだ!」
モブは、カバンを持って玄関の前に立っていた。何事もなかったかのような、いつもの無表情だ。
「お疲れ様でした、師匠。……あ、テレビ、煙出てますよ」
モブが指差した先で、ブラウン管テレビからプスン、プスンと黒い煙が上がっていた。画面にはヒビが入り、完全に沈黙している。
「あー……まあいい。どうせ地デジ映らないしな」
霊幻は手を振ってモブを促した。
「ほら、さっさと帰れ! 寄り道するなよ! ハンバーグが冷めるぞ!」
「はい。お先に失礼します」
モブは丁寧に頭を下げ、ドアを開けて出て行った。ガチャリ。ドアの向こうには、見慣れた調味市の夜の路地裏が広がっていた。遠くから、電車の走る音が聞こえる。日常だ。
◇
モブが帰った後の事務所は、シンと静まり返っていた。霊幻は、ネクタイを緩めてソファに倒れ込んだ。
「……はぁ。死ぬかと思った」
転生者としての知識があるからこそ、あのアナログホラー空間の「質の悪さ」が理解できた。あれは精神を侵食し、過去のトラウマや前世の記憶を掘り起こして廃人にするタイプの怪異だ。もし、モブがいなければ、霊幻自身の「前世のブラック企業の記憶」をほじくり返され、あっち側の住人にされていたかもしれない。
「まったく……ホワイト企業への道は険しいぜ」
霊幻は立ち上がり、散らばった塩を掃除しようと箒を手に取った。その時。
ジジッ……。壊れたはずのテレビから、微かなノイズが聞こえた。霊幻はビクリとして振り返る。電源コードは抜けている。画面は割れている。だが、その暗い画面の奥に、一瞬だけ白い文字が浮かび上がった。
『本 日 ノ 放 送 ハ 終 了 シ マ シ タ』
そして、テレビのスピーカー部分から、チリチリという音と共に、一枚の紙切れが吐き出された。感熱紙のレシートが、舌のように長く伸びて床に落ちる。
霊幻は恐る恐るそれを拾い上げ、目を細めた。そこには、滲んだ赤文字でこう印字されていた。
領 収 書
品名: 放 送 事 故
数量: 1
単価: ¥ 0
小計: プ ラ イ ス レ ス
備 考:
ま た の お 越 し を お 待 ち し て お り ま す
次 回 は 是 非 、 深 夜 営 業 で
「……二度と来るか、バーカ」
霊幻はレシートをクシャクシャに丸めると、ゴミ箱に投げ捨てた。そして、事務所の電気を消し、鍵をかけた。
夜の調味市。家路につく霊幻の背後で、街灯が一つ、チカチカと不規則に点滅していたが、彼は決して振り返らなかった。明日は日曜日。定休日だ。労働基準法に守られた、平穏な休日が待っている。