仮称:やる夫スレ的世界でオカルトやってくー   作:水野芽生

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H.R.1 漂着する社と、塩の轍

 

 その異変は、ある日突然始まったわけではない。境港市の運送会社に勤める須藤(すどう)にとって、それは靴の中にいつの間にか入っていた小石のような、些細な違和感から始まった。

 

 二月の初旬。日本海側特有の、鉛色の雲が垂れ込める季節だった。

 

 須藤の担当エリアが、市街地から沿岸部の「外浜(そとはま)ルート」に変更されたのがきっかけだったかもしれない。

 

 最初の違和感は、フロントガラスの汚れだった。業務用の軽バンで配送を終え、営業所に戻ると、ガラスの内側が白く曇っているのだ。

 

 最初は結露かと思った。ヒーターを最強にしても消えない。雑巾で拭ってみて、須藤は眉をひそめた。指先に残ったのは、ザラザラとした白い粉。舐めてみると、強烈に塩辛い。

 

「……なんだこれ。潮風か?」

 

 だが、窓を開けて走った覚えはない。塩は、ガラスの「内側」に付着していた。

 

 一週間後、違和感は「重さ」に変わった。荷台には、軽い雑貨の段ボールが数個積まれているだけだ。なのに、アクセルを踏んでも車が前に進まない。エンジンの回転数だけが上がり、唸り声を上げる。まるで最大積載量をオーバーして、急な坂道を登っているような感覚。燃費は目に見えて悪化した。整備工場の男は、リフトアップした車の下回りを覗き込んで、青ざめた顔でこう言った。

 

「須藤さん、あんた一体何を運んだんだ?」

 

「何って、普通の日用品だよ」

 

「嘘をつけ。サスペンションが四本とも死んでる。バネが伸び切って、ショックアブソーバーからオイルが吹いてるぞ。これじゃあ、常に『何か』を数百キロ積んで走ってるのと同じだ」

 

 須藤は言葉を失った。空っぽの荷台を見る。そこには、湿った合板の床があるだけだった。

 

 その頃からだ。須藤が「匂い」を感じるようになったのは。運転中、ふと鼻をつく生臭さ。魚市場の匂いではない。もっと古い、海藻が腐ってヘドロになったような、鼻の奥に粘りつくような重い悪臭。その匂いは、助手席の方から漂ってくる気がした。信号待ちで、ふと助手席を見る。誰もいない。ただ、シートのヘッドレストの裏側あたりに、じっとりと湿った気配がある。視線を戻すと、耳元で「ジュルッ」という音がする。濡れた雑巾で、プラスチックを拭うような音。誰かが、助手席で体勢を変えたような音。

 

 須藤は、バックミラーをガムテープで塞いだ。見てはいけない気がしたからだ。

 

 限界が訪れたのは、二月の終わりの深夜だった。その日は、境港にしては珍しく、風のない静かな夜だった。須藤は残業で、最後の荷物を届けるために、島根半島へと続く「境水道大橋」を渡っていた。高さ四十メートル。下を行き交う大型船のために極端に高く作られたその橋は、地元の人間なら誰もが知る「出る」場所だ。

 

 橋の中腹に差し掛かった時、霧が出た。ヘッドライトの光が白い壁に当たって拡散し、視界が真っ白になる。須藤は舌打ちをして、速度を落とした。――ガツン。

 

 唐突に、車体が沈み込んだ。タイヤが何かに乗り上げた衝撃ではない。「上から押さえつけられた」ような、あるいは「誰かが飛び乗ってきた」ような、垂直方向の重み。ハンドルが取られる。ミシミシと、車体のフレームが悲鳴を上げる。

 

「……なんだよ、おい!」

 

 須藤は叫んだ。恐怖を誤魔化すための怒声だった。車は悲鳴を上げながら、ノロノロと橋を渡りきり、島根半島側の山道へと入っていく。

 

 そこは、美保関へ続く一本道のはずだった。だが、景色がおかしい。

 

 ヘッドライトに照らされたガードレールが、白く膨れ上がっている。

 

 錆ではない。塩だ。ガードレールも、道路標識も、沿道の松の木も、すべてが分厚い塩の結晶に覆われて、ボコボコと白く変形している。

 

 まるで、海底の遺跡を走っているようだ。

 

 車内の生臭さが、限界を超えた。息をするたびに、塩水が肺に入ってくるような苦しさ。そして、聞こえてきた。

 

 ヒュウ、ヒュウ、ヒュウ……。呼吸音だ。一つではない。助手席から。後部座席から。荷台から。四方八方から、濡れた肺で空気を吸い込む、掠れた呼吸音が聞こえる。須藤の背中に、冷たいものが触れた。運転席のシートの裏から、水が染み出してきている。いや、水じゃない。背もたれ越しに、「誰か」が背中を押し付けてきている。

 

『……かえろう』

 

 耳元ではなく、脳内に直接、その念が響いた。

 

『……うみへ、かえろう』

 

 ハンドルが勝手に動く。須藤の意思とは関係なく、車はガードレールを突き破りそうになりながら、海側へ、海側へと寄せられていく。

 

 崖の下は日本海だ。落ちれば助からない。ブレーキが効かない。金縛りのように足が動かない。

 

「う、わああああああ!」

 

 須藤が絶叫した瞬間、車は脇道へと逸れた。そこは道ですらなかった。塩で白く枯れた獣道。車はガタンガタンと激しく揺れながら、森の奥へと吸い込まれていく。プスン、とエンジンが止まった。静寂。いや、違う。車の屋根を、バン、バン、バン、と叩く音が響き始めた。外からではない。内側からだ。荷台に乗っている「何か」が、出せ、出せと暴れている。

 

 須藤は震える手でドアノブを引いた。転げ落ちるように車外へ出る。

 

 逃げなければ。這いずりながら顔を上げると、目の前に「それ」があった。

 

 朱色だった。この、塩と灰色の世界で、そこだけが鮮烈な朱色を保っていた。鳥居だ。古びているが、手入れの行き届いた立派な木造の鳥居。その奥には、真っ直ぐに伸びる石畳の参道が見える。不思議なことに、鳥居の内側だけは塩の侵食を受けていなかった。木々は青々と茂り、地面は乾いている。そこだけ、別の場所から切り取って貼り付けたような、異質な空間。

 

 須藤は、蜘蛛の糸を掴む思いで鳥居をくぐった。瞬間、背中にのしかかっていた重圧が、ふっと軽くなった。ざっ、ざっ、ざっ。規則正しい音が聞こえる。参道の先。拝殿の前で、誰かが動いている。一人の少女だった。年齢は高校生くらいだろうか。奇妙な服を着ていた。赤いスカートに、白い上衣。袖が胴体から分離している、露出の多い巫女服。大きな赤いリボンを頭につけた彼女は、竹箒を手に、黙々と石畳を掃いていた。

 

「あ、あの……!」

 

 須藤の声は、自分で驚くほど掠れていた。少女の手が止まる。彼女はゆっくりと振り返った。その顔立ちは整っていたが、瞳には、この世のものとは思えないほどの「冷たさ」があった。恐怖ではない。道端の石ころや、落ち葉を見るような、無関心な冷徹さ。

 

「……あら」

 

 少女が口を開く。その声は鈴を転がしたように澄んでいたが、抑揚に乏しい。

 

「また迷い込んだの? 最近、結界のほころびが多いわね」

 

「た、助けてくれ……車が、車の中に……!」

 

 須藤が指差した先。闇に沈んだ獣道の方から、ズズズ……と何かを引きずる音が近づいてくる。

 

「車? ああ、あの鉄屑のこと」

 

 少女は箒を片手に、興味なさそうに呟いた。

 

「あれはもう車じゃないわ。ただの『器』よ。……随分とまあ、質の悪いものを詰め込んだものね。境港の海は、ちょっと深呼吸しただけでヘドロが肺に入ってくるみたいで嫌になるわ」

 

 彼女は独り言のようにぼやきながら、須藤の方へ歩み寄ってくる。

 

 その一歩一歩に、不思議な威圧感があった。彼女が歩いた跡だけ、空気が澄んでいくような感覚。

 

「あ、あんた、何なんだ? ここは……」

「博麗神社。……まあ、今は『漂流中』だけど」

 

 少女――博麗の巫女は、須藤の目の前で立ち止まり、彼の顔をじっと覗き込んだ。

 

「酷い顔。死相が出てるどころじゃないわよ。あんた自身が半分、向こう側(海)に溶けかかってる」

 

 彼女は懐から、一枚のお札(ふだ)を取り出した。和紙に筆で何かが書かれた、古風な霊符。だが、その文字からは、直視できないほどの力がバチバチと放たれているように見えた。

 

「動かないで」

 

 有無を言わせぬ声だった。

 

 彼女はためらいなく、そのお札を須藤の額に叩きつけた。

 

「――夢想封印、解除(リリース)」

 

 バヂィッ!!

 

 須藤の視界が白く弾けた。熱い。額が焼けるように熱い。同時に、背中から、何かが「剥がれる」感覚があった。ガムテープを皮膚から無理やり引き剥がすような、ベリベリという不快な音と痛み。

 

 須藤の口から、どす黒い海水がゴボッと吐き出された。

 

「う、ぐぁ……はっ、はぁ……!?」

 

 須藤はその場に膝をついた。

 

 呼吸ができる。

 

 あの、肺を押しつぶすような重苦しさが消えている。

 

「……ふん、やっぱりただの『澱(おり)』ね。実体もない、有象無象の集合体」

 

 少女は、須藤の背後――何かが剥がれ落ちて霧散した空間――を見つめ、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 

 彼女は須藤を助けたという感慨もなさそうに、淡々と言い放つ。

 

「塩は祓ったわ。でも、車は諦めなさい。あれに乗れば、今度こそ海の底へ直行よ」

「あ、ありがとう、ございます……貴方は……」

「礼なら賽銭箱へ。……ここは維持費がかかるのよ。長野の山奥にいた頃より、物価も高いし」

 

 彼女はボソリと呟いた。長野? 山奥? 須藤が聞き返そうとすると、彼女は鋭い視線を向けた。

 

「さっさと行きなさい。参道を真っ直ぐ降りれば、元の県道に出るわ。……絶対に、振り返るんじゃないわよ」

 

 その目は、「これ以上詮索するな」と告げていた。須藤は震えながら財布を取り出し、千円札を数枚、賽銭箱に押し込んだ。そして、逃げるように石段を駆け下りた。

 

 背後で、ザッ、ザッ、と再び箒の音が始まった。

 

「……やれやれ。コミケの締切前だってのに、こんな雑用ばっかり。……まったく、現世(こっち)に戻ってきても貧乏くじは変わらないわね」

 

 風に乗って、そんな独り言が聞こえた気がした。コミケ? 締切?

 

 意味はわからなかったが、そのあまりに日常的な単語が、逆にこの非日常的な状況の中で、奇妙なリアリティを持って耳に残った。

 

 須藤が県道で保護されたのは、夜が明けてからだった。彼の軽バンは、数日後に崖下の海岸で発見された。車体はまるで数十年放置されたかのように、赤錆と塩の結晶に覆われ、原形をとどめていなかったという。

 

 須藤はその後、運送会社を辞めた。彼は時折、あの夜のことを思い出す。塩に埋もれた世界の中で、そこだけ鮮やかだった朱色の鳥居。

 

 そして、冷たくもどこか懐かしい目をした、不思議な巫女の少女のことを。

 

 あの神社がどこにあったのか、地図を見ても載っていない。ただ、境港のどこかの山中に、今もひっそりと「漂着」しているのかもしれない。異界からの澱を、淡々と掃き清めながら。

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