鳥取県境港市、黒山(くろやま)。
地図上には存在しない、あるいは意図的に消去されているこの山岳地帯は、昼なお暗い原生林に覆われている。
湿った苔の匂いと、どこか鉄錆のような臭気が漂うこの魔境の中腹に、「それ」は鎮座していた。
朱色の鳥居。綺麗に掃き清められた石畳の参道。そして、古風だが手入れの行き届いた拝殿。
博麗神社(はくれいじんじゃ)。
本来この場所には存在しないはずの、境界の神社である。
「……はぁ。また湿気が上がってきたわね」
長い黒髪に大きな赤いリボンを結んだ少女――博麗霊夢は、竹箒を動かしながら深いため息をついた。
彼女の視線の先、木々の切れ間からは、弓ヶ浜の美しい曲線と日本海が見下ろせる。
(景色だけはいいんだけどね。……前いた島根半島の方が、まだ空気がカラッとしてた気がするわ)
彼女は前世の記憶を反芻する。
かつて(前世で)島根県の由緒ある神社で宮司を務め、神職階位「明階(めいかい)」まで上り詰めた彼女にとって、神社の「立地」は死活問題だ。
この「博麗神社」は、まるで漂流船のように空間を移動する性質を持っていた。
長野の山奥で目覚め、数ヶ月前に島根半島の美保関へ転移し(そこで配送業者の男を一人助けた)、そして今度は、この境港市の「黒山」へと流れ着いたのだ。
「土地神への挨拶回りは済ませたし、結界の杭も打ち直した。……あとは」
霊夢は賽銭箱を覗き込んだ。
空っぽだ。
島根時代に須藤という男が入れた数千円は、すでに神社の修繕費(と通販の送料)に消えた。
「……客、来ないわよねぇ。こんな自衛隊の封鎖エリア内じゃ」
そう。ここは一般人立ち入り禁止区域。
来るのは夜な夜な結界を叩く「泥の怪異」か、迷い込んだ野生動物くらいだ。
ザッ、ザッ、ザッ。
不意に、参道の入り口から、規則正しい足音が聞こえてきた。
動物ではない。軍靴の音だ。
「……あら、招かれざる客ね」
霊夢は箒を止め、スッと背筋を伸ばした。その佇まいは、怠惰な少女から、一級神職のそれへと瞬時に切り替わった。
現れたのは、迷彩服に身を包み、小銃を携行した四名の男たちだった。陸上自衛隊・対アノマリー特殊作戦群(J-GOC管轄下)の斥候部隊。
彼らは鳥居の前に立ち、信じられないものを見る目で神社を見上げていた。
「……おい、なんだこれ。地図にないぞ」
「昭和の古地図にも載っていませんでした。……未確認構造物(アンノウン)です」
隊長らしき年配の男が無線で報告を入れる中、先頭に立っていた若い隊員が、緊張した面持ちで一歩踏み出した。
まだ二十歳そこそこだろうか。正義感と使命感に燃えている目だ。
「そこの民間人! 直ちに手を上げてこちらへ来なさい!」
若い隊員が霊夢に銃口を向け……かけ、すぐに下ろした。相手が非武装の少女だと気づいたからだ。自衛隊としての理性が働いている。
「ここは指定特別警戒区域です! 一般人の立ち入りは禁止されています。即刻退去してください!」
「退去って言われてもねぇ」
霊夢は困ったように肩をすくめた。
「見ての通り、私はここの管理者よ。神社ごと引っ越せって言うなら、トラックの手配でもしてくれるの?」
「ふざけないでください! この山は危険なんです! 貴方の安全のためにも……」
若い隊員は、霊夢を保護しようと焦っていた。
この山がどれほど危険かを知っているからこそ、少女が一人でいることが信じられないのだ。
彼は説得のために、鳥居をくぐり、境内へ入ろうとした。
「あ、待ちなさい。そこは――」
霊夢の警告は、一瞬遅かった。
隊員のブーツが、鳥居の下の結界ラインを踏み越えた瞬間。
バヂィッ!!
「うわぁっ!?」
見えない壁に弾かれたように、若い隊員が後方へすっ飛ばされた。
怪我はない。柔道の受け身のように、ふわりと地面に転がされる。
それは攻撃ではなく、神域への不浄な侵入を拒む「正規の拒絶」だった。
「なっ……!?」
「だ・か・ら、言ったでしょ。ウチの神様、無作法な人は嫌いなのよ」
霊夢は箒を構え、呆れたように言った。
他の隊員たちが一斉に銃を構える。空気が張り詰めた。
「撃つな!」
鋭い声が響いた。
無線で交信していた隊長が、血相を変えて制止したのだ。
「銃を下ろせ! 敵対行動をとるな!」
「しかし隊長! 未確認の霊的障壁を展開されました!」
「馬鹿野郎、上からの命令だ! よく見ろ、その扁額(へんがく)を!」
隊長が指差したのは、鳥居に掲げられた看板だ。
そこには、力強い筆文字で『博麗神社』と刻まれている。
「博麗……神社……?」
若い隊員が呟く。
隊長は冷や汗を拭いながら、霊夢に向かって居住まいを正した。
そして、驚くべきことに、深々と頭を下げたのだ。
「……失礼いたしました。貴殿が、噂の『博麗の巫女』殿でありますか」
「あら? 話が早そうね」
霊夢は少し驚いた。
どうやら、自分(あるいは神社)の名前は、一部の界隈ではすでに知れ渡っているらしい。
隊長は部下たちを手で制し、申し訳なさそうに言った。
「司令部より通達がありました。『黒山に出現した神社については、友好的な第三勢力と認定する。干渉せず、丁重に扱え』と」
「へえ。物分かりがいい上司がいるのね」
「なんでも、上層部の分析官が……『まさか、あの幻想の社が実在したとは』と、ひどく興奮しておりまして。(そりゃ実在しているからこうなるのに、何を言ってるんだか)」
(……あ、これ上層部にオタクがいるパターンだわ)
霊夢は内心でガッツポーズをした。
2013年。ネットの裏社会にはこの世界には存在しないはずの「東方」の知識を持つ人間が潜んでいる。それが吉と出た。
「そういうことなら、話は簡単ね」
霊夢はニコリと笑い、箒で賽銭箱をポンと叩いた。
「ここは博麗神社。来る者は拒まないけど、タダではないわ。……特に、国を守る立派な方々なら、神様への敬意(カンパ)も弾んでくれるわよね?」
隊長は一瞬きょとんとしたが、すぐに苦笑して頷いた。
「……承知いたしました。本日の巡回における『安全祈願料』として、処理させていただきます」
こうして、博麗神社と自衛隊の間に、奇妙な不可侵条約が結ばれた。
それは同時に、霊夢がこの「境港の魔境」において、公的な立場(?)を得た瞬間でもあった。
(よし。これでライフラインは確保できそうね)
賽銭箱に投入される千円札の束を見ながら、元・一級神職の少女は、したたかな笑みを浮かべるのだった。