「炉心の前に」
そう切り出したのは霊夢だった。
「旧都の方をみてきてもいいかしら」
さっきは地霊殿に向かうために急いで通過したため、
しっかりと調査ができなかった。
さとりの「目」が霊夢を覗く。
「分かりました。では先に旧都に」
そうして、地霊殿の大きな扉を開き、一行は旧都へ向かった。
旧都はやけに静かだった。鬼の声もまばらだ。
最初に目に入った人影は、旧都の橋の上にあった。
橋の上に立っていたのは、
水橋パルスィ だった。
金色の髪が揺れる。
伏し目がちの視線。
橋の影に溶けるような立ち姿。
「ずいぶん騒がしいじゃない」
声はいつも通り、湿っている。
魔理沙が帽子を押さえる。
「地底でも消えてる」
「鬼も怨霊も」
パルスィは欄干に指を滑らせる。
「へえ」
「妬ましいわね」
霊夢が問う。
「何が?」
パルスィは、答えない。
川を見下ろす。
「……誰を妬んでたんだっけ」
空気が止まる。
燐が眉をひそめる。
「は?」
パルスィは首を傾げる。
「最近ね、胸が静かなの」
その言葉は異常だった。
妬み橋姫が“静か”。
ありえない。
魔理沙が言う。
「地上が羨ましいとか、鬼が羨ましいとか、あっただろ」
パルスィは考える。
長い、空白。
「鬼……?」
単語が、曖昧。
霊夢ははっきり言う。
「忘却が来てる」
パルスィは胸を押さえる。
「妬みってね」
「他人がいるから生まれるのよ」
指先が、透ける。
燐が叫ぶ。
「おい」
パルスィは苦笑する。
「比べる相手がいないなら」
肩が薄くなる。
橋の影が、体を飲み込むように揺らぐ。
「私、何者なの?」
霊夢が一歩踏み出す。
「水橋パルスィ」
名前を強く言う。
その瞬間、わずかに輪郭が戻る。
パルスィは目を見開く。
「……ああ」
小さく息を吐く。
だが次の瞬間、指先から光が零れる。
崩れない。
砕けない。
濃度が落ちる。
「初めて、妬ましく、ない」
その言葉とともに。
完全に、消えた。
橋の上は最初から無人だったかのように整う。
川音だけが残る。
燐が震える。
「……誰が」
魔理沙が即答する。
「パルスィだ」
燐は困惑する。
「……誰?」
霊夢は橋を睨む。
「いた」
「橋の妖怪がいた」
だが名前をもう一度言おうとすると、
喉の奥で霧になる。
さとりが静かに告げる。
「記憶の固定が弱まっています」
「強く意識しないと、保持できない」
霊夢は低く言う。
「前は違った」
「人間に忘れられても、妖怪同士では消えたことは分かった」
橋を見つめる。
「でも今は違う」
「妖怪の中でも忘却が始まってる」
そのとき。
岩陰から笑い声。
「湿っぽいねえ」
現れたのは
黒谷ヤマメ。
足を揺らしながら、橋を見る。
「誰もいないじゃないか」
魔理沙が振り向く。
「さっき消えた奴だよ」
ヤマメは首を傾げる。
「消えた?」
「最初から誰も、いなかったろ?」
燐の顔が青ざめる。
霊夢はヤマメを観察する。
足元の影が、薄い。
輪郭が揺らぐ。
「最近どう?」
霊夢が問う。
ヤマメは岩壁を見上げる。
「静かだよ」
「病も流行らない」
魔理沙が言う。
「それお前の力だろ」
ヤマメは考える。
「……病?」
自分の手を見る。
指先が、透けている。
「わたし、病の妖怪だったか?」
空気が凍る。
さとりが告げる。
「土蜘蛛。病を媒介する妖怪」
ヤマメは小さく笑う。
「病ってさ」
「誰かが、誰かにうつすもんだろ?」
膝が薄くなる。
「でも最近、誰もいないんだ」
霊夢の背筋が冷える。
“誰もいない”。
それは比喩ではない。
「うつす相手がいないなら」
燐が叫ぶ。
「いる!」
「ここにいる!」
ヤマメは霊夢を見る。
「……いたっけ?」
霊夢は強く言う。
「黒谷ヤマメ」
名前を押し込む。
胸が痛む。
ヤマメは少し安心したように笑う。
「そっか」
肩が透ける。
岩壁が見える。
「じゃあ、いいや」
光にならない。
音も立てない。
ただ、濃度が落ちる。
完全に。
消えた。
静寂。
橋も、岩場も、空っぽ。
魔理沙がぽつりと呟く。
「……今そこ、誰かいたか?」
霊夢はすぐ答える。
「ヤマメよ」
だが声が少し遅れる。
燐が橋を見つめる。
「橋って……」
そこで言葉が止まる。
さとりが低く言う。
「二名、短時間で消失」
霊夢は地底を見渡す。
嫉妬が消えた。
病が消えた。
感情と災いが、削除されていく。
静かすぎる。
減った音に、もう慣れ始めている。
霊夢は静かに言う。
「覚えてる限りは、消させない」
だがその“覚えている者”が減っていけば。
地底の輪郭そのものが、薄くなる。
遠くで炉心が脈打つ。
まだ、燃えている。
だがその熱を必要とする妖怪が、
確実に減っていた。
「嫉棺」で「しっかん」って読みます。
妬みって文字でパルスィ、しっかんって読みでヤマメを表現したつもり。