地霊殿の廊下は長い。
赤い石壁が、淡く脈打っている。
足音は四つ。
霊夢。
魔理沙。
燐。
そして――
古明地さとり。
静かだ。
本来なら、もう一つ気配がある。
無意識にふらりと現れて、
ふらりと消える影。
だが今はいない。
「……お空は?」
燐が言う。
さとりが答える。
「炉心の様子を見ています」
短い返事。
自然だ。
霊夢は歩きながら言う。
「他に誰がいた?」
燐は振り向く。
「他?」
「ここに住んでるの」
燐は指折り数える。
「さとり様と、あたいと、お空」
止まる。
それで終わり、の顔。
霊夢は足を止める。
「それだけ?」
燐は首を傾げる。
「他にいましたっけ」
魔理沙がさとりを見る。
さとりは無言。
第三の目が、かすかに揺れる。
霊夢は、はっきり言う。
「……妹」
その一言で、空気がわずかに重くなる。
燐が瞬きをする。
「妹?」
さとりの足が止まる。
ほんのわずかに。
霊夢は続ける。
「いたでしょ」
「あなたの」
さとりの呼吸が浅くなる。
魔理沙が小さく言う。
「おい」
さとりは、静かに目を閉じる。
記憶を辿る。
確かに、いる。
はずだ。
笑わない少女。
無意識の妖怪。
地霊殿の、もう一人。
名前は――
そこが、白い。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
空白。
霊夢は見逃さない。
「……さとり?」
さとりが目を開く。
いつもの表情だ。
だが、ほんのわずか、遅い。
「います」
即答する。
「私には、妹がいます」
声は安定している。
だが燐は困った顔をする。
「地霊殿に、もう一人?」
霊夢が言う。
「無意識を操る妖怪」
燐は首を傾げる。
「そんなの、見たこと……」
そこで止まる。
見たことが、ない?
本当に?
燐の額に皺が寄る。
「……あれ」
床に落ちる燐の影が、揺らぐ。
魔理沙が低く言う。
「まただ」
さとりが燐を見る。
だがすぐ、視線を逸らす。
読まない。
今、読むのが怖い。
霊夢はさとりを見る。
「名前は?」
短い問い。
さとりは即答するはずだった。
何度も呼んできた名だ。
喉まで出かかる。
だが。
ほんの一拍。
遅れる。
「……こ」
音が途切れる。
その瞬間。
廊下の空気が冷えた。
燐がきょとんとする。
「こ?」
さとりの第三の目が、大きく開く。
強く、自分の記憶を読む。
いる。
確かにいる。
笑わない妹。
扉を閉じたままの少女。
名前は――
「こいし」
ようやく言葉が落ちる。
古明地こいし。
その名を口にした瞬間、
空気がわずかに戻る。
燐が首を傾げる。
「……そんな妖怪、いましたっけ」
霊夢の背筋が冷える。
魔理沙が舌打ちする。
「おいおい」
さとりは燐を見る。
ゆっくりと。
「います」
今度は迷いがない。
「私の妹です」
その断言で、何かが踏みとどまる。
だが。
さっき、確かにあった。
空白。
ほんの一瞬、
名前が抜け落ちた。
霊夢は理解する。
中心まで来ている。
外縁から削られていたはずの忘却が、
今、核に触れた。
燐がぽつりと言う。
「……地霊殿、四人でしたっけ」
誰も答えない。
数を確定させるのが、怖い。
廊下の奥で、炉心が脈打つ。
熱はある。
光もある。
だが、何かが足りない。
霊夢は静かに言う。
「急ぐわよ」
理由は言わない。
言えない。
次に抜けるのは、
名前か。
それとも。
わたしは、目を閉じる。
閉じているほうが、楽だから。
誰も見ない。
誰も気にしない。
それが普通。
だってわたしは道端の小石だもの。
でも。
今日は、少し違う。
背中が、あったかい。
炉心の熱とは違う。
視線みたいなもの。
振り向いても、誰もいない。
お姉ちゃんも、燐も、いない。
廊下は静か。
でも、ある。
“こっち”を向いている何か。
地底の気配じゃない。
怨霊でもない。
妖怪でもない。
もっと、遠い。
もっと、外。
わたしは首を傾げる。
あれ。
わたし、見えてる?
お姉ちゃんには見えにくいはず。
地上の巫女にも、たまにしか。
なのに。
今は。
確かに、線がつながっている。
細い糸みたいに。
わたしから、どこかへ。
向こうから、こっちへ。
それは怖くない。
むしろ、くすぐったい。
だって、
“見られてる”ってことは、
“いる”ってことだから。
忘れられかけて、
薄くなって、
いないことにされそうなのに。
どこかで、
わたしをちゃんと見ている。
不思議。
幻想郷の外?
ううん。
外とも、ちょっと違う。
もっと上。
もっと手前。
まるで。
まぶたのすぐ向こう。
わたしは笑う。
ねえ。
そっち。
わたし、ちゃんと見えてる?
返事はない。
でも、確かにある。
静かな、注視。
わたしは少しだけ姿勢を正す。
消えるのは、まだいい。
でも。
見られているなら、
姿勢くらいはしっかりしなくちゃね。
「視埋」で「しまい」って読みます。
埋まった視で、こいしのことを表現してるつもり。