地霊殿を出るとき、振り返る者はいなかった。
赤い光は奥でまだ脈打っている。
弱いが、完全には止まっていない。
霊夢は足を止め、耳を澄ます。
炉心の鼓動。
低く、間延びした音。
「動いてるわね」
魔理沙が肩をすくめる。
「なら問題ないだろ」
その言葉に、根拠はない。
だが否定する理由もない。
地霊殿の廊下は広い。
以前よりも、少しだけ。
壁に掛けられていたはずの飾りが少ない気がする。
だが、具体的に何があったのかは思い出せない。
霊夢は視線を巡らせる。
「……静かね」
「最初からこんなもんだろ」
魔理沙は軽く言う。
違和感はある。
だが、形にならない。
旧都へ向かう。
石卓が並ぶ広間は、がらんとしている。
杯がいくつか転がっているが、埃をかぶっている。
「宴会でもしてたのか?」
魔理沙が拾い上げる。
軽い。
中身はない。
霊夢は広間の中央に立つ。
ここで、誰かが騒いでいた気がする。
豪快な笑い声。
ぶつかる杯。
嫉妬混じりの視線。
だが、顔が浮かばない。
「……何か、いた?」
自分でも曖昧な問い。
魔理沙は首を傾げる。
「何が?」
霊夢は少し考え、首を振る。
「忘れた」
それで終わる。
二人は橋へ向かう。
溶岩の川は赤く流れている。
だが熱は弱い。
橋の上に立つ。
霊夢は手すりに触れる。
冷たい。
以前は、もっと熱かった気がする。
「地底、こんなに静かだったか?」
魔理沙が呟く。
「さあ」
霊夢は短く答える。
静かでも、問題はない。
誰も困らない。
そう思考が結論づける。
階段を上る。
足音が二つ、一定の間隔で響く。
霊夢は数える。
一、二。
それで合っている。
胸の奥に、わずかな引っかかりがある。
だが、理由が分からない。
「……何だったのかしらね」
階段の途中で、ぽつりと零す。
魔理沙が振り返る。
「何がだ?」
霊夢は言葉を探す。
消えたもの。
足りないもの。
誰かの名前。
どれも、輪郭がない。
「忘れたわ」
それが一番正しい答えのように思えた。
地上の光が見える。
二人は振り返らない。
背後の地底は、ゆっくりと闇に沈んでいく。
赤い鼓動が、さらに遠くなる。
それでも完全には止まらない。
何かが消えても、
世界は均衡を保つ。
幻想郷は、そういう場所だった。
地霊殿の廊下に、もう足音はない。
広間も、炉心も、旧都も。
最初から空だったかのように、
静まり返っている。
そして。
その静寂の中。
目を開ける者がいる。
断章
使われていないはずの部屋。
薄暗い空間に、少女が座っている。
古明地こいし は、床に寝転び、天井を見ている。
「静かだね」
独り言。
誰も答えない。
地底は広い。
広くなった気がする。
こいしはゆっくり起き上がる。
廊下に出る。
足音は一つ。
軽い。
姉のことを思い出そうとする。
胸が少しだけ痛む。
でも。
顔が曖昧だ。
声も、仕草も、ぼやけている。
「まあ、いっか」
こいしは笑う。
忘れるのは、慣れている。
ずっと、そうやってきた。
でも。
今日は少し違う。
足を止める。
視線を上げる。
壁でも、天井でもない。
もっと外。
地底の外。
幻想郷の外。
そのさらに外側。
何かが、こちらを見ている。
はっきりとした感覚。
触れられない視線。
それは怖くない。
むしろ、懐かしい。
ずっと前から、そんな気配があった。
みんなが消えていく中で、
自分だけが、その視線を感じている。
忘れられる側だったはずなのに。
今は逆に、見られている。
こいしは小さく笑う。
目を細める。
そして。
ゆっくりと、
そっと、
「こちら」に目を向けた。