東方幻忘霧   作:居酒屋の枝豆

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1「霧答」ー幻にかかる霧ー

霧は、どこからか出ていた。

「どこからか」は、霊夢でも感知できなかった。

 

地脈の乱れもない。

妖気の偏りもない。

空は高く澄み、雲ひとつない。

 

それでも、家々の間を白い靄が這うように流れている。

 

低く、ゆっくりと。

まるで地面に染み出した呼吸のように。

 

 

 

「今日は濃いなあ」

 

里のどこかでそう言った声は、すぐに霧に吸われた。

音が吸い込まれ、輪郭を失う。

 

返事はないが、誰も気にしなかった。

 

 

 

歩ける。

働ける。

生活はいつも通りだ。

 

鍛冶屋は槌を振るい、商人は声を張り、子供は走り回る。

ただ、少しだけ遠くが見えない。

 

道の先が、曖昧だ。

向こう側に何があるのか、考える必要がないほどに。

 

 

 

博麗神社では、霊夢が石段の上で立ち止まっていた。

 

霧はここまで登ってこない。

結界に触れるたび、形を歪めて流れ落ちる。

 

弾かれているのではない。

拒まれているわけでもない。

 

ただ、そこに“入る理由がない”ように、

するりと避けていく。

 

 

 

「……変ね」

 

異変と言うには、静かすぎる。

だが自然現象にしては、意思がある。

 

霊夢は御札を一枚取り出し、霧へ放った。

 

札は白い靄に触れた瞬間、力を失い、ひらりと地面に落ちた。

 

焼けもしない。弾けもしない。

ただ、効かない。

 

 

 

「拒否、じゃない……素通り?」

 

霊夢は眉を寄せる。

手応えがない。

触れているはずなのに、触れていない。

 

理解できない感触だった。

 

 

 

昼過ぎ、魔理沙が霧を割ってやってきた。

 

箒の先が白く滲み、輪郭がぼやけている。

 

「霊夢、今日の霧――」

 

言いながら、彼女は足を止める。

 

石段の上だけ、空気が澄んでいる。

 

「……神社は、普通だな」

 

「ええ。霧は里だけ」

 

 

 

魔理沙は眉をひそめた。

 

「変だろ。いつもなら、妖怪の誰かが文句言いに来る」

 

確かに、と霊夢は思った。

 

これ程の霧なら、森や湖の連中が騒ぐはずだ。

視界を奪われることを、好む妖怪ばかりではない。

 

「……来てないわね」

 

それは事実だった。

理由は、まだ分からない。

 

 

 

里を見下ろす。

 

白い層が、屋根と屋根の間を満たしている。

人はいる。

声もする。

 

だが、霧の中で動く影は、どこか均一だった。

 

個性が削られているような、

同じ高さで揃えられた影。

 

 

 

「なあ霊夢」

 

魔理沙が低く言う。

 

「今日さ、まだ一度も――」

 

言いかけて、彼女は口を閉じた。

 

 

 

「……いや、いい」

 

霊夢は何も聞かなかった。

聞かなくても、同じ違和感を抱いている。

 

 

 

「ルナー?」

 

桜の木に呼びかける。

 

返事はない。

 

「スター? サニー?」

 

「また、いたずらか?」

 

 

 

風が枝を揺らすだけだ。

 

本来、ここにいるはずの気配が、足りない。

 

悪戯の気配。

潜む視線。

わずかな妖気の震え。

 

それが、ない。

 

 

 

夕方になっても、霧は薄くならなかった。

 

灯りをつけても、遠くまで届かない。

光は白に溶け、輪郭を曖昧にする。

 

 

 

里は静かだった。

平和、と言っていいほどに。

 

犬も吠えない。

戸を閉める音も少ない。

 

 

 

「異変、よね」

 

霊夢が言う。

 

 

 

「だな。でも……派手じゃない」

 

魔理沙は笑わなかった。

 

 

 

「誰も困ってない。

 だから気づかれない」

 

 

 

霊夢は結界に手を当てる。

 

霧は、境界を越えようとしない。

まるで――人間だけを包むように。

 

 

 

「……人間だけ」

 

その言葉は、口の中で重く沈んだ。

 

 

 

霊夢は、まだ動かなかった。

 

これが異変だという確信を持てなかったからだ。

弾幕を張る理由も、退治する対象も、まだ見えない。

 

霧の中で時間だけが過ぎ、夜になる。

 

 

 

霧はさらに深くなり、

里の輪郭を曖昧にしていく。

 

 

 

それでも人は眠りにつく。

 

恐怖はない。

不安もない。

 

夢を見るかどうかさえ、分からない静けさ。

 

 

 

幻想郷は、まだ何も失っていない。

 

そう見える。

 

 

 

ただ、

 

声を上げるはずの存在が、沈黙しているだけだ。

 

騒ぐはずの者が来ない。

覗くはずの影がない。

 

 

 

何かが、確かに始まっている。

 

それは音もなく、

抗議もなく、

ただ“必要ないもの”から薄れていく。

 

 

 

霊夢は、白く沈む里を見下ろしながら、

初めて胸の奥に小さな不安を覚えた。

 

これは、異変なのか。

 

それとも。

 

幻想郷そのものの、変化の兆しなのか。

 

 

 

夜の帳は、霧と混ざり合い、

境界を曖昧にしていく。

 

そして、静かに結界が歪む。

誰かに、観測されたから。

 

 

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