霧は、どこからか出ていた。
「どこからか」は、霊夢でも感知できなかった。
地脈の乱れもない。
妖気の偏りもない。
空は高く澄み、雲ひとつない。
それでも、家々の間を白い靄が這うように流れている。
低く、ゆっくりと。
まるで地面に染み出した呼吸のように。
「今日は濃いなあ」
里のどこかでそう言った声は、すぐに霧に吸われた。
音が吸い込まれ、輪郭を失う。
返事はないが、誰も気にしなかった。
歩ける。
働ける。
生活はいつも通りだ。
鍛冶屋は槌を振るい、商人は声を張り、子供は走り回る。
ただ、少しだけ遠くが見えない。
道の先が、曖昧だ。
向こう側に何があるのか、考える必要がないほどに。
博麗神社では、霊夢が石段の上で立ち止まっていた。
霧はここまで登ってこない。
結界に触れるたび、形を歪めて流れ落ちる。
弾かれているのではない。
拒まれているわけでもない。
ただ、そこに“入る理由がない”ように、
するりと避けていく。
「……変ね」
異変と言うには、静かすぎる。
だが自然現象にしては、意思がある。
霊夢は御札を一枚取り出し、霧へ放った。
札は白い靄に触れた瞬間、力を失い、ひらりと地面に落ちた。
焼けもしない。弾けもしない。
ただ、効かない。
「拒否、じゃない……素通り?」
霊夢は眉を寄せる。
手応えがない。
触れているはずなのに、触れていない。
理解できない感触だった。
昼過ぎ、魔理沙が霧を割ってやってきた。
箒の先が白く滲み、輪郭がぼやけている。
「霊夢、今日の霧――」
言いながら、彼女は足を止める。
石段の上だけ、空気が澄んでいる。
「……神社は、普通だな」
「ええ。霧は里だけ」
魔理沙は眉をひそめた。
「変だろ。いつもなら、妖怪の誰かが文句言いに来る」
確かに、と霊夢は思った。
これ程の霧なら、森や湖の連中が騒ぐはずだ。
視界を奪われることを、好む妖怪ばかりではない。
「……来てないわね」
それは事実だった。
理由は、まだ分からない。
里を見下ろす。
白い層が、屋根と屋根の間を満たしている。
人はいる。
声もする。
だが、霧の中で動く影は、どこか均一だった。
個性が削られているような、
同じ高さで揃えられた影。
「なあ霊夢」
魔理沙が低く言う。
「今日さ、まだ一度も――」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
「……いや、いい」
霊夢は何も聞かなかった。
聞かなくても、同じ違和感を抱いている。
「ルナー?」
桜の木に呼びかける。
返事はない。
「スター? サニー?」
「また、いたずらか?」
風が枝を揺らすだけだ。
本来、ここにいるはずの気配が、足りない。
悪戯の気配。
潜む視線。
わずかな妖気の震え。
それが、ない。
夕方になっても、霧は薄くならなかった。
灯りをつけても、遠くまで届かない。
光は白に溶け、輪郭を曖昧にする。
里は静かだった。
平和、と言っていいほどに。
犬も吠えない。
戸を閉める音も少ない。
「異変、よね」
霊夢が言う。
「だな。でも……派手じゃない」
魔理沙は笑わなかった。
「誰も困ってない。
だから気づかれない」
霊夢は結界に手を当てる。
霧は、境界を越えようとしない。
まるで――人間だけを包むように。
「……人間だけ」
その言葉は、口の中で重く沈んだ。
霊夢は、まだ動かなかった。
これが異変だという確信を持てなかったからだ。
弾幕を張る理由も、退治する対象も、まだ見えない。
霧の中で時間だけが過ぎ、夜になる。
霧はさらに深くなり、
里の輪郭を曖昧にしていく。
それでも人は眠りにつく。
恐怖はない。
不安もない。
夢を見るかどうかさえ、分からない静けさ。
幻想郷は、まだ何も失っていない。
そう見える。
ただ、
声を上げるはずの存在が、沈黙しているだけだ。
騒ぐはずの者が来ない。
覗くはずの影がない。
何かが、確かに始まっている。
それは音もなく、
抗議もなく、
ただ“必要ないもの”から薄れていく。
霊夢は、白く沈む里を見下ろしながら、
初めて胸の奥に小さな不安を覚えた。
これは、異変なのか。
それとも。
幻想郷そのものの、変化の兆しなのか。
夜の帳は、霧と混ざり合い、
境界を曖昧にしていく。
そして、静かに結界が歪む。
誰かに、観測されたから。