「霧醒」ー魔理沙の消失ー
地上の空気は、軽すぎた。
地底の熱と重さを抜けた直後だからか、博麗神社の風は妙に澄んでいる。
霊夢は縁側に腰を下ろし、長く息を吐いた。
「……静かね」
魔理沙が境内を見回す。
「地底があれだけ空っぽならな」
その言葉に、霊夢はわずかに目を伏せる。
地霊殿。旧都。橋の上。
足音は、最後には二つだけだった。
最初から二つだったような、奇妙な整合。
「忘却、か」
魔理沙が言う。
「忘れられたから消えた。幻想郷らしい理屈だ」
霊夢は頷きかけて、止まる。
引っかかりがある。
忘れた、という感覚ではなかった。
消えたはずなのに、世界は綺麗に噛み合っていた。
そのとき、空間が裂ける。
紫色の隙間が縁側の脇に開いた。
現れたのは、八雲紫 。
「ずいぶん静かな帰還ね」
霊夢は睨む。
「知ってるんでしょ」
紫は扇子で口元を隠し、空を見上げる。
「ええ。地底は、かなり削れたわ」
魔理沙が鼻で笑う。
「削れた、ねえ。忘却だろ?」
紫は即座に首を振った。
「いいえ」
その否定は、迷いがない。
霊夢の胸がわずかに冷える。
「忘却なら、“あったもの”が薄れる」
「でも今回は違う」
紫の声は低い。
「“あったという事実”ごと整えられている」
霊夢は理解する。
違和感の正体。
消えたのに、世界は揺らがなかった。
「最初からいなかった形に?」
「そう」
風が止む。
空気が、張りつめる。
魔理沙が立ち上がる。
「じゃあ何だってんだ」
その瞬間だった。
空が軋む。
音ではない。だが確実に。
魔理沙の輪郭が、くっきりと濃くなる。
色が鮮やかに。
影が深く。
存在が、はっきりと。
「……何だ?」
魔理沙が自分の手を見る。
指先が微かに光を帯びる。
紫の表情が変わる。
「まずい」
霊夢の心臓が跳ねる。
「魔理沙!」
足元の空間が歪む。
紫の隙間ではない。
もっと外側。
境界のさらに外からの力。
引力。
「ちっ……」
魔理沙の身体が、上へ――いや、外へ引かれる。
霊夢は飛びつき、腕を掴む。
確かな感触。
まだいる。
「離さない!」
「霊夢……っ」
魔理沙の顔が歪む。
その目が、空を見た。
いや、その向こうを。
理解した瞬間の目。
そして、ほんの一瞬だけ。
剥き出しの恐怖。
子供のような、純粋な怯え。
「――っ!」
引力が強まる。
霊夢の指が滑る。
「待ちなさい!」
紫が隙間を開く。
だが届かない。
魔理沙の身体が光の線となり、境界の外へ引き抜かれる。
その瞬間。
黒い帽子だけが、地面に落ちた。
乾いた音。
風が戻る。
空は青い。
虫が鳴く。
世界は、何も失っていない顔をしている。
だが霊夢は知っている。
奪われた。
震える手で、帽子を拾う。
確かな重み。
「……紫」
声が掠れる。
「今の、何」
紫は空を見上げたまま答える。
「確定よ」
霊夢の思考が、急速に繋がる。
幻想郷は、忘れられたものの行き着く場所。
曖昧であることで存在している。
「じゃあ逆は?」
霊夢の声は低い。
「思い出されたら?」
紫は沈黙する。
霊夢は続ける。
「外で、強く観測されたら?」
魔理沙の濃くなった輪郭。
固定された存在。
そして引き抜き。
「強く見られるほど、確定される」
「確定されれば、幻想郷には留まれない」
紫が小さく言う。
「ええ」
霊夢は空を睨む。
「地底のは、防衛だったのね」
消滅ではない。
曖昧に沈めることで、外への確定を避けた。
「忘却は結果」
「幻想郷が、観測に抵抗した形」
だが魔理沙は。
人間だから?
有名だから?
はっきりしていて。
外側で、鮮明に語られている。
「だから、引っ張られた」
霊夢の手が帽子を握りしめる。
「消えたんじゃない」
「持っていかれた」
その瞬間。
ぞくりと背筋が粟立つ。
視線。
無数の。
空の向こうから。
霊夢ははっきりと理解する。
今も。
見られている。
「観測……」
呟く。
これは忘却ではない。
観測だ。
幻想郷は、忘れられたものの居場所。
ならば。
思い出され、強く見られたものは。
外へ引き抜かれる。
霊夢は空を睨む。
恐怖はある。
だが、逸らさない。
「返してもらう」
帽子を握りしめる。
魔理沙の温もりは、まだ残っている。
「霧醒」で「きりさめ」って読みます。
そろそろ最終章ですね。あと三か四話くらい。こんな駄文をここまで読んで下さっている方には感謝しかありません。