その日、史上初めて、外の世界で、異変が観測された。
夜の博麗神社。
空は澄みきり、月はまるで合図のように輝いている。
境内に立つのは四人。
霊夢。
八雲紫 。
伊吹萃香 。
奥野田美宵 。
縁側に置かれた黒い帽子。
霊夢はそれを見つめる。
「取り返すわよ」
紫が扇子を開いた。
「開けるわよ。」
夜空が音もなく割れる。
その向こうには、光の海。
無数の名前。
固定された設定。
整理され、整頓され、磨き上げられた情報の世界。
幻想郷を引き裂いてきた観測の奔流。
霊夢は一歩前へ出る。
「見すぎなのよ」
その瞬間。
萃香が瓢箪を掲げた。
「宴だァァ!!」
栓が抜ける。
溢れ出したのは、黄金の奔流。
酒が、雨となって境界を越える。
一滴ではない。
霧でもない。
豪雨。
世界規模。
都市の屋上に。
路地裏に。
机の上の画面に。
眠れぬ夜の視線に。
降る。
降る。
降る。
煙草を吸っていた若者が酔う。
父と出かけていた子供が酔う。
ハンチングハットに眼鏡をかけた、酒飲みでさえ酔う。
紫が笑う。
外側の文字が揺れる。
説明が滲む。
輪郭がほどける。
“博麗霊夢”
“霧雨魔理沙”
強固だった名が、ふわりと浮く。
萃香は高らかに笑い、瓢箪をさらに振る。
「もっと飲め!!」
空が金色に染まる。
酒は理屈を溶かす。
定義をゆるめる。
「まあ、いいか」
その一言が、鎖を外す。
そこへ。
美宵が静かに徳利を傾ける。
「忘れさせるのではありません」
「遠くへ、やわらかく」
透明な波が酒と混ざる。
記憶が軽くなる。
思い出すことに力がいらなくなる。
“知っている”という強い固定が、
“なんとなく好きだった”へ変わる。
外の世界が、笑う。
誰も理由は分からない。
ただ、心がふっと軽くなる。
強く握っていたものを、少しだけ手放す。
霊夢が叫ぶ。
「幻想郷は、忘れられたものの居場所!」
声はまっすぐ、境界を越える。
「なら!」
「思い出されすぎたら、酔わせる!」
境界が反転する。
引力が、逆流する。
固定が、解ける。
縛っていた力が、一斉にほどける。
そして。
降る。
光が。
無数の光が。
金色、赤、緑、蒼。
流星群のように、幻想郷へ降り注ぐ。
霊夢の手の中で、帽子が震える。
次の瞬間。
「……派手にやってるじゃないか」
聞き慣れた声。
霊夢が振り向く。
黒と白の影が、ふわりと着地する。
「遅いのよ」
だが、魔理沙だけではない。
境内に、次々と気配が戻る。
消えたはずの妖怪たち。
地底で消えた名も。
里で薄れた姿も。
橋の上で消えた影も。
全部。
全部。
一人残らず。
光が形を取り、笑い声が弾ける。
幻想郷が、息を吹き返す。
萃香が大笑いする。
「大勝利だ!!」
紫が扇子を閉じる。
「完全に酔いましたわね」
美宵がにこりと笑う。
「しばらくは、思い出すのもゆっくりでしょう」
空は澄み渡る。
もう、刺さるような視線はない。
観測はある。
だが柔らかい。
重くない。
幻想郷を引き抜く力ではない。
霊夢は帽子を魔理沙に投げる。
「二度と勝手に行くんじゃないわよ」
魔理沙は笑って被る。
「そっちこそな」
境内に笑い声が広がる。
鬼が騒ぎ、妖怪が踊り、巫女がため息をつく。
大宴会。
今度こそ、本当の。
幻想郷が、勝った。
忘却でもない。
観測でもない。
ただ。
酔わせて、笑って、取り戻した。
月は高く。
夜は澄みきり。
誰も消えない。
誰も引っ張られない。
幻想郷は、そこにある。
それだけで、十分だった。
「意返」で、「いへん」って読みます。
はい。クライマックスですね。やっぱり次回でラストです。
もうなんとお礼を言ったらいいか。