東方幻忘霧   作:居酒屋の枝豆

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※咲夜推しは閲覧注意


立志編
5「懐中」ー咲ける夜の結末はー


翌朝、紅魔館はいつも通りだった。

 

霧は薄い。

庭の薔薇は露をまとい、

館は静かで、

時計の音だけが高い天井に反響している。

 

あまりにも、変わらない。

 

そのことが、胸の奥をざらつかせた。

 

なんとも言われぬ、嫌な予感を抱いたまま門をくぐる。

門番の姿はない。

それにも、もう驚かなくなっている自分がいる。

 

重い扉を押し開ける。

 

「……」

 

呼びかけても、返事はない。

音が、広間の奥で薄れていく。

 

大広間のテーブルには、紅茶が三つ置かれていた。

 

銀のポット。

白磁のカップ。

 

一つは、完全に冷めている。

 

表面に浮いた膜が、時間の経過を物語っていた。

 

「……咲夜?」

 

声は、広間の奥で砕ける。

 

返事はない。

 

二階へ。

長い廊下。

磨き抜かれた床に、歪んだ自分の影が映る。

 

最上階。

 

咲夜の部屋の扉は、閉まっていた。

 

ノックをする。

返事はない。

 

ゆっくりと、開ける。

 

「……」

 

部屋の中は、整っていた。

 

ベッドは皺一つなく直され、

制服は畳まれ、

ナイフは一本も出ていない。

 

窓も閉じられ、

カーテンは揃い、

埃すら見当たらない。

 

――完璧すぎる。

 

まるで、

“これ以上は何も起こらない”と宣言するかのように。

 

理解してしまった。

 

「……これは……」

 

机の上に、懐中時計が置かれていた。

 

止まっている。

 

だが、壊れてはいない。

 

針は、ある時刻を指したまま。

 

そこから一秒も進んでいない。

 

歯を食いしばる。

 

「……いなくなった、だけか?」

 

違う。

 

そうでないことは分かっている。

 

部屋の空気が、あまりにも整いすぎている。

“主を失った部屋”ではない。

“役目を終えた部屋”だ。

 

静かに、言葉が零れる。

 

「役目を、終わらせた」

 

紅魔館の中を回っても、

咲夜の姿はどこにもなかった。

 

地下も、厨房も、廊下の角も。

 

代わりに、

 

“仕えていた痕跡”だけが、完璧に残っている。

 

紅茶の味。

掃除の行き届いた廊下。

止まった時計。

 

すべてが、

 

「ここに主がいた」という事実を、

最後まで否定させないための配置だった。

 

掌に爪が食い込む。

 

……これは、抗議だ。

 

顔を上げる。

 

忘却に対する。

幻想郷に対する。

 

そして――

 

一瞬、息が詰まる。

 

「自分だけが残されることへの、拒絶だ」

 

咲夜は、人間だった。

 

忘れられない。

消えない。

最後まで、残る。

 

だから。

 

残らないことを、選んだ。

 

それが、

あいつなりの“忠誠”だった。

 

昨日、紅魔館を出るとき、なんとなく気づいていた。

 

明日来ても、もう咲夜はここにはいないだろうと。

 

あいつが死ぬときは、もっとかっこいいものだと思っていた。

 

レミリアを守って、

敵の渾身の一撃を受け止めて、

最後までメイドらしく笑って。

 

そんな終わり方だと、勝手に思っていた。

 

だから、思いもしなかった。

 

あいつの命を奪うのが、

こんなただの紐だなんて。

 

戦いもなく、

誇示もなく、

ただ――主のいない世界を拒むための決断。

 

「あのバカ……!」

 

振るった拳が、虚空を切る。

 

怒りか、悲しみか、自分でも分からない。

 

床に残された一本の麻のロープを、無言で掴む。

 

それはもう、さっきまでメイドの首を括っていただけのただの縄だ。

 

けれど、そこに宿っていた決意だけが、重い。

 

箒にまたがる。

 

ロープを手に巻き付ける。

 

「……終わらせねえぞ」

 

霧はまだ、幻想郷を包んでいる。

 

あいつが選んだ結末を、

無意味にしてたまるか。

 

紅魔館を背に、空へ飛び上がる。

 

白い靄を裂きながら。

 

怒りと、悔しさと、

そして遅すぎた理解を抱えたまま。

 

時計の音だけが、

空っぽの館に響き続けていた。

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