東方幻忘霧   作:居酒屋の枝豆

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6「日忘」ー変わらぬ人里ー

石段を降りるたび、霧が濃くなる。

 

神社では触れなかった白が、里へ近づくにつれ、肌にまとわりついてきた。

 

冷たいわけでもない。

 

湿っているわけでもない。

 

ただ、距離感を奪う。

 

鳥居をくぐった瞬間、音が鈍った。

 

鍬の音。

子どもの声。

井戸の水を汲む音。

 

すべてが、布越しに聞こえる。

 

「……いつも通り、ね」

 

自分に言い聞かせるように呟く。

 

里の入口には、見慣れた見張りの男が立っていた。

 

「あら」

 

軽く手を上げる。

 

男は一瞬こちらを見て、曖昧に笑った。

 

「今日も霧が濃いですね、巫女さん」

 

それだけ。

 

それ以上はない。

 

視線が、どこか泳いでいる。

 

まるで、霊夢の“後ろ”を見ているようだった。

 

「困ってることは?」

 

「いえ、特には。少し視界が悪いくらいで」

 

本当に困っていない顔だった。

 

恐怖も、警戒もない。

 

里の中に入る。

 

店は開いている。

 

野菜は並び、湯気が立ち、女将は世間話をしている。

 

日常だ。

 

壊れていない。

 

それなのに。

 

――何かが、足りない。

 

霊夢は立ち止まる。

 

普段なら、誰かがいるはずの路地。

 

悪戯好きの妖精が顔を出し、

小さな影が屋根を渡り、

新聞の紙片がひらりと落ちてくる。

 

今日は、何もない。

 

屋根の上に、動きがない。

 

空が、静かすぎる。

 

「……」

 

甘味処の前を通る。

 

暖簾が揺れる。

 

中では客が団子を食べている。

 

「今日は静かだなあ」

 

誰かが言った。

 

「そうか?」

 

「最近、夜が静かでよ」

 

霊夢の足が止まる。

 

「静か?」

 

会話に割って入る。

 

男はきょとんとした顔をした。

 

「ええ。ほら、いつもは……」

 

そこで、言葉が止まる。

 

「……なんだっけな」

 

霊夢の胸が、わずかに締めつけられる。

 

「何が?」

 

「いや……なんでもないです。気のせいか」

 

笑って、団子を口に運ぶ。

 

違う。

 

気のせいじゃない。

 

夜は、静かすぎるのだ。

 

遠くで鳴いていたはずの何か。

軒下を走っていた何か。

子どもが怖がっていた何か。

 

それらが――

 

思い出せない。

 

霊夢は空を見上げる。

 

霧が、ゆっくり流れている。

 

だが、人間たちはそれを気にしない。

 

恐れていない。

 

避けてもいない。

 

ただ、そこにあるものとして受け入れている。

 

「……怖くないの?」

 

ぽつりと呟く。

 

誰にともなく。

 

だが、答えはない。

 

八百屋の前で、籠が倒れた。

 

野菜が転がる。

 

「おっと」

 

店主が拾い上げる。

 

「最近、猫も見ないなあ」

 

何気ない一言。

 

霊夢の指先が、ぴくりと動く。

 

「猫?」

 

「いや、野良猫ですよ。いつも魚を狙いに来るやつがいて」

 

「来ないの?」

 

「さあ……」

 

そこでまた、空白が落ちる。

 

「……いた、よな?」

 

店主は、隣の妻に聞く。

 

妻は首をかしげる。

 

「どうだったかしら」

 

霊夢は、息を吸う。

 

これが。

 

これが異変だ。

 

だが、誰も困っていない。

 

誰も叫ばない。

 

誰も助けを求めない。

 

忘れているわけではない。

 

ただ、

 

“思い出そうとしない”。

 

霊夢は、胸の奥に小さな焦りを覚えた。

 

もし。

 

もしこの霧が、恐怖を奪っているのだとしたら。

 

もし、

 

人間が“怖がること”をやめてしまったら。

 

妖怪は、どうなる?

 

視界の端で、

 

屋根の影が一瞬だけ揺れた。

 

振り向く。

 

何もいない。

 

ただ、霧が流れている。

 

霊夢はゆっくりと歩き出す。

 

里は、壊れていない。

 

だが。

 

守られてもいない。

 

“何かがいなくなったこと”にすら、気づけない。

 

それが一番、恐ろしい。

 

石畳を踏む足音だけが、やけに大きく響いた。

 

霧は、今日も静かに里を満たしている。

 

そして。

 

誰も、それを異変とは呼ばない。

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