石段を降りるたび、霧が濃くなる。
神社では触れなかった白が、里へ近づくにつれ、肌にまとわりついてきた。
冷たいわけでもない。
湿っているわけでもない。
ただ、距離感を奪う。
鳥居をくぐった瞬間、音が鈍った。
鍬の音。
子どもの声。
井戸の水を汲む音。
すべてが、布越しに聞こえる。
「……いつも通り、ね」
自分に言い聞かせるように呟く。
里の入口には、見慣れた見張りの男が立っていた。
「あら」
軽く手を上げる。
男は一瞬こちらを見て、曖昧に笑った。
「今日も霧が濃いですね、巫女さん」
それだけ。
それ以上はない。
視線が、どこか泳いでいる。
まるで、霊夢の“後ろ”を見ているようだった。
「困ってることは?」
「いえ、特には。少し視界が悪いくらいで」
本当に困っていない顔だった。
恐怖も、警戒もない。
里の中に入る。
店は開いている。
野菜は並び、湯気が立ち、女将は世間話をしている。
日常だ。
壊れていない。
それなのに。
――何かが、足りない。
霊夢は立ち止まる。
普段なら、誰かがいるはずの路地。
悪戯好きの妖精が顔を出し、
小さな影が屋根を渡り、
新聞の紙片がひらりと落ちてくる。
今日は、何もない。
屋根の上に、動きがない。
空が、静かすぎる。
「……」
甘味処の前を通る。
暖簾が揺れる。
中では客が団子を食べている。
「今日は静かだなあ」
誰かが言った。
「そうか?」
「最近、夜が静かでよ」
霊夢の足が止まる。
「静か?」
会話に割って入る。
男はきょとんとした顔をした。
「ええ。ほら、いつもは……」
そこで、言葉が止まる。
「……なんだっけな」
霊夢の胸が、わずかに締めつけられる。
「何が?」
「いや……なんでもないです。気のせいか」
笑って、団子を口に運ぶ。
違う。
気のせいじゃない。
夜は、静かすぎるのだ。
遠くで鳴いていたはずの何か。
軒下を走っていた何か。
子どもが怖がっていた何か。
それらが――
思い出せない。
霊夢は空を見上げる。
霧が、ゆっくり流れている。
だが、人間たちはそれを気にしない。
恐れていない。
避けてもいない。
ただ、そこにあるものとして受け入れている。
「……怖くないの?」
ぽつりと呟く。
誰にともなく。
だが、答えはない。
八百屋の前で、籠が倒れた。
野菜が転がる。
「おっと」
店主が拾い上げる。
「最近、猫も見ないなあ」
何気ない一言。
霊夢の指先が、ぴくりと動く。
「猫?」
「いや、野良猫ですよ。いつも魚を狙いに来るやつがいて」
「来ないの?」
「さあ……」
そこでまた、空白が落ちる。
「……いた、よな?」
店主は、隣の妻に聞く。
妻は首をかしげる。
「どうだったかしら」
霊夢は、息を吸う。
これが。
これが異変だ。
だが、誰も困っていない。
誰も叫ばない。
誰も助けを求めない。
忘れているわけではない。
ただ、
“思い出そうとしない”。
霊夢は、胸の奥に小さな焦りを覚えた。
もし。
もしこの霧が、恐怖を奪っているのだとしたら。
もし、
人間が“怖がること”をやめてしまったら。
妖怪は、どうなる?
視界の端で、
屋根の影が一瞬だけ揺れた。
振り向く。
何もいない。
ただ、霧が流れている。
霊夢はゆっくりと歩き出す。
里は、壊れていない。
だが。
守られてもいない。
“何かがいなくなったこと”にすら、気づけない。
それが一番、恐ろしい。
石畳を踏む足音だけが、やけに大きく響いた。
霧は、今日も静かに里を満たしている。
そして。
誰も、それを異変とは呼ばない。