7「訪刻」ー現状、そして紫の左腕ー
夕暮れ。
霧は石段の中腹まで上がってきている。
境内はまだ守られているが、白は確実に近づいていた。
結界に触れるたび、霧は歪み、押し返される。
だが、押し返されるだけだ。消えてはいない。
霊夢が戻ると、魔理沙は縁側に座っていた。
帽子は膝の上。
いつもの気楽さはない。
「里は?」
魔理沙が先に聞く。
霊夢はため息をついた。
「平和」
「……そっか」
「困ってる様子もない。霧も気にしてない」
「夜が静かだって言ってたけど」
「何が静かかは思い出せないみたい」
魔理沙の眉が寄る。
「忘れてる、ってことか」
霊夢はゆっくり頷く。
「“いなくなった”って認識してないのよ」
沈黙。
今度は霊夢が聞く。
「そっちは?」
魔理沙は少しだけ目を逸らす。
「森で襲われた」
「妖怪?」
「ああ。小物だがな」
「本気だった。殺す気で来た」
霊夢の目が細くなる。
「……焦ってるのね」
「消えかけてた」
その一言で、空気が沈む。
「輪郭が薄くなってた。弾も不安定だった」
「でもな」
魔理沙は拳を握る。
「目だけは必死だった」
恐れられたい。
覚えていてほしい。
存在を繋ぎ止めたい。
言葉にしなくても、二人には分かる。
霊夢が静かに言う。
「忘却の異変ね」
魔理沙は顔を上げる。
「確定か?」
「ほぼね」
「人間が妖怪を思い出せなくなってる」
「だから存在が保てない」
魔理沙は舌打ちする。
「最悪だな」
そのとき。
空間が、静かに裂けた。
いつもの優雅な隙間。
だが、どこか歪んでいる。
八雲紫が現れる。
しかし。
左手が、ない。
手首から先が、霞のように消えている。
霊夢は表情を変えない。
「遅いわよ」
紫は苦笑する。
「ええ、少し手間取って」
視線が、欠けた腕に落ちる。
魔理沙が低く言う。
「それも忘れられたのか?」
紫は首を振る。
「正確には、薄くなっている」
「存在が揺らいでいるのよ」
霊夢が言う。
「人間の認識の影響?」
「ええ」
紫は静かに頷く。
「妖怪は人間に認識されることで形を持つ」
「それが曖昧になれば、輪郭も曖昧になる」
魔理沙が吐き捨てる。
「忘却の異変、か」
紫は扇子を開く。
その骨が、わずかに透ける。
「今のところ、そう判断していいわ」
「今のところ?」
霊夢が鋭く返す。
紫は一瞬だけ目を伏せる。
「進行速度が、やや早い」
「そして、均一すぎる」
霊夢は境内を見渡す。
桜の枝。
石灯籠。
屋根の上。
「……妖精がいない」
静かに言う。
魔理沙がはっとする。
「そういや」
「さっきから一匹も見てないな」
紫の目が細くなる。
「確かに」
霊夢は続ける。
「妖精は恐怖依存じゃない」
「自然そのものみたいなものよ」
「人間が忘れても、即座に消える存在じゃない」
「それなのに、いない」
沈黙。
霧が、石段を一段上がる。
紫がゆっくりと言う。
「つまり――」
「忘却は原因ではなく、結果かもしれない」
魔理沙が顔を上げる。
「どういう意味だ」
「幻想郷そのものの基盤が揺らいでいる可能性」
その言葉に、空気が凍る。
霊夢は即座に思考を巡らせる。
「基盤が揺らいでいるなら、影響は地上だけじゃない」
紫は頷く。
「ええ。むしろ――」
「地底のほうが顕著に出る可能性がある」
魔理沙が首をかしげる。
「なんでだ?」
紫は静かに答える。
「地底は“忘れられたもの”の集積地だからよ」
旧都。
地霊殿。
地上から切り離された妖怪たち。
「地底の妖怪は、地上の人間の認識にそこまで依存していない」
「それでも揺らいでいるなら、原因は“忘却”ではない」
霊夢が言葉を継ぐ。
「逆に、地底が安定してるなら」
「人間の認識に原因がある」
魔理沙が立ち上がる。
「切り分けか」
「ええ」
霊夢の声は冷静だ。
「地上だけが崩れてるのか」
「幻想郷全体が崩れてるのか」
紫の左腕が、さらに薄くなる。
「時間はあまりないわ」
霧が境内の端を覆う。
桜の花弁が、白に溶けて見えなくなる。
霊夢は賽銭箱に手を置く。
「地底に行く」
「地上と切り離された場所で、異変の性質を確かめる」
魔理沙が帽子を被る。
「もし地底まで同じなら」
霊夢は答える。
「幻想郷そのものが揺らいでる」
紫が静かに微笑む。
「ええ。それなら、話は根本から変わる」
隙間が閉じる。
静寂。
霧は確実に濃くなっている。
忘却の異変。
それは間違いない。
だがそれが原因なのか、結果なのかはまだ分からない。
妖精がいない。
弱い妖怪から消える。
均一な進行速度。
すべてが、どこか不自然だ。
霊夢は桜を見上げる。
風はない。
揺れるものもない。
静かすぎる夕暮れ。
「行くわよ」
霊夢が空へ浮かぶ。
魔理沙も続く。
霧の上を越え、
その下に口を開ける暗い穴へ。
答えは、地の底にある。
少なくとも、そう信じて。