人の心はいつ折れるのか分からない。
けれど、一つ、確かなことがある。
不幸な時に人の心は折れるのだ。

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今日、私は死にかけました。
もちろん理由はお分かりですね。


全ては虚しいものだ

不幸とは押し寄せる洪水の様なものである。

 

たかだか一つや二つの嫌な出来事は決して不幸ではない。

 

もっと、どうしようもなく連続していて、何もできない事こそが不幸である。

 

早朝、出勤をする時に少し遅れた。

 

昨晩はいつもの様に寝たはずなのに、起きるのが遅れた。

 

何のことはない。

 

ただ学園に着くのにが十分ほど遅れるだけだ。

 

始業時間に影響することも、生徒に迷惑を掛けることもない。

 

何ら問題は無かった。

 

いつもの様に通勤の為に学区内を走る電車に乗った。

 

いつも通りだった。

 

途中、急激に腹が痛くなった。

 

ドアに寄りかかりながら考えた。

 

一度降りて、お手洗いに行くか。

 

それともこのまま学園まで行くか。

 

やけに微妙な頃合いだった。

 

二駅進んで、お手洗いのために下車を決めた。

 

至って正常な判断だった。

 

昨夜を振り返り、寿司を思い出し合点がいった。

 

路線と現在地を示す車内のパネルを眺めて、不意に視界に入った、優先席に座ってヘッドホンで音楽を聴く人間に殺意が沸いた。

 

ただそれだけだった。

 

そのはずだった。

 

次第に冷汗が止まらなくなって。

 

気が付けば視界が白ばんでいた。

 

体から急速に力が抜けて上下の感覚が分からなくなる。

 

視界がレッドウィンター学園の様な、冬の景色になって、その内に見えなくなった。

 

暫くして白黒の視界で薄っすらと見える様になった頃には反対側のドアが開いていた。

 

私はただそれを眺めていた。

 

倒れぬ様にドアに寄りかかるのに精一杯で動けぬまま、ドアが閉まるのを眺めていた。

 

白い視界が色彩を取り戻して、度の強過ぎる眼鏡を掛けたようにぼやけて車内が見える頃に、再びドアは開いた。

 

震える足と揺れる体で何とか車内から脱出をして。

 

駅のホームに作られた、人を長居させないための悪意に満ちた造形のベンチにへたり込んだ。

 

どうやら日頃の無理が祟ったらしい。

 

貧血、過労、栄養失調、慢性的な水分不足。

 

医者ではないにも関わらず、自分自身で思い当たる節が幾重にも頭を過ぎった。

 

むしろ倒れず、意識を手放さなかったのが上出来なぐらいだ。

 

一度座ってしまえば、もう立ち上がれなかった。

 

体に力が入らず、頭は再び白化していく。

 

簡単な理屈の話だ。

 

漏れ出ぬ様に腹に力を入れている。

 

けれど、体から力が抜けていく。

 

そして動くことができない。

 

至極単純で、当たり前の出来事に、駅のベンチで帰結した。

 

香るベンチに座ったまま、端末を取り出して電話を掛けた。

 

シッテムの箱を使いたくなくて。

 

私用の端末で電話を掛けた。

 

掛ける先は正しかったはずだが、窓口が誰かなのかも分からなかった。

 

今日だけ休むつもりのはずが、口からは退職を願う旨の言葉が口から紡がれる。

 

当たり前の話だった。

 

もう、私は、大人を名乗れない。

 

逃げる様に電話を切って、そのまま私は逃げ出した。

 

本来なら、駅員に告げるべきだったのだろう。

 

けれど、責任感というものは既に決壊していた。

 

人のいない公園のトイレでスーツと下着の処理をして、寂れた服屋で服を買って、スーツをビニール袋に詰めて、再び電車に乗って帰宅した。

 

もう、どうしようもなくて、消えてなくなりたくて、家に閉じこもっていたかったが、生徒に訪問されることを恐れて、ゴミ箱にスーツを投げ込んで、また、電車に乗った。

 

行先もなく、ただ、ただ、遠くを目指して、ひたすらに乗り換えをして、適当な駅で降りた。

 

遠くへ行きたかった。

 

誰も私を知らない場所へ、遥か遠くへ。

 

それが今日中には叶わぬことを分かっていたから、人気の無い場所を目指して。

 

行きついたのが河原だった。

 

汚い川だ。

 

きっと都市開発のせいで環境が荒れてしまったのだろう。

 

濁った水に気泡が沸いている。

 

適当な石の上に腰かけて、淀みに浮かぶ泡沫を羨んだ。

 

あの泡達はすぐに弾けて消えることができるのにと。

 

そう思いながらひたすらに眺めていた。

 

 

 

 

 

 

「……先生」

 

陽が落ちて、泡沫が見えなくなった頃、誰かが私を呼んだ。

 

「先生!!」

 

声で誰かは分かっていた。

 

けれど、顔を合わせることが出来なかった。

 

でも、呼ばれてしまったから、見つかってしまったから、無視をすることもできず、見えない泡を眺めたまま、ただ返事をした。

 

「なんだい」

 

続く言葉は無かった。

 

彼女も、私も。

 

静寂の中で虫の音が鳴いている。

 

「虚しいのか?」

 

どれくらい時間が経ったのかも、経っていないのかも分からない。

 

先に話したのは彼女だった。

 

虚しいのか。

 

そう問われれば、虚しいのかもしれない。

 

確かに私は、私の行いは、無駄で、無意味で、虚無だ。

 

「そうかもしれないね。確かにこれは虚しさだ」

 

人は誰しも一線がある。

 

心に決めた慣例や、行動原理、学び教えられ感銘を受けたなにかが。

 

それが決壊してしまえば、その先に残っているのは虚無だろう。

 

まさしくそれが、これが、虚しさだった。

 

「全ては虚しい。どこまで行こうとも全ては虚しいものだ」

 

口からあれだけ否定していた言葉が漏れ出た。

 

彼女の前で、その言葉を口にしてしまった。

 

また虫の音が響いた。

 

さっきよりも、あの時よりも、更に消えたくなる。

 

「……たとえ全てが虚しいことだとしても、それは今日最善を尽くさない理由にはならない。先生が居たから私は、私はより、そう思えたんだ」

 

そう言ってアズサは立ち去っていった。

 

振り向くこともできずに、足音が遠のいていく音だけを聞いていた。

 

虫が煩く鳴きだす。

 

私の最善は。

 

最善は立ち直ることだろうか。

 

一度投げ出してしまったものを、また拾うことだろうか。

 

分からない。

 

分からないからこうなっているのだろう。

 

けれど。

 

やらなければならないことがある。

 

電話を掛けるのだ。

 

そして家に帰ってスーツをクリーニングに出すのだ。

 

だって。

 

明日は行くのだから。




トイレの安心感ヤバい

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