異邦の影、あるいは四人目の特級術師
初雪の予感に震える東京都立呪術高等専門学校。
乙骨憂太は、グラウンドの隅で奇妙な光景を目にしていた。
五条悟が、自分たちに見せるのとは全く違う、どこか子供のような無防備な笑顔で、一人の女性と話し込んでいたからだ。女性は着古した紺色のスポーツジャージに身を包み、肩には使い込まれたボストンバッグを提げている。
「お帰り、さり。カザフスタンはどうだった?」
「……寒かったわよ。あそこの呪詛師、術式に頼りすぎてて、こっちのタックル一発で脊椎鳴らしてたわ」
女性――吉田さりは、無造作にバッグから「鉄の塊」を取り出した。それはかつて特級呪具と呼ばれたであろう、複雑な彫金が施された短剣だったが、今は見る影もなく、飴細工のようにひしゃげていた。
「これ、あっちのリーダーの形見。……捕まえようと思ったら、つい指先に力が入りすぎちゃって」
「はは! 君の握力は相変わらずデタラメだね。真希、憂太。紹介するよ。僕の同期の吉田さり。今は海外で、『不純物』を物理的に掃除してもらってるんだ」
乙骨たちは絶句した。特級呪具を素手で握り潰すなど、呪術の常識ではあり得ない。
だが、さりは乙骨たちの驚愕を気にする様子もなく、ただ淡々と彼らを見つめた。その瞳は、何か遠い日の後悔を抱えているように深く、静かだった。
「……よろしく。乙骨君、あんた、いい目をしてるわね。でも、肩に力が入りすぎよ。そんなんじゃ、守りたいものも守れなくなるわ」
それだけ言い残し、さりは道場の奥へと消えた。彼女が通り過ぎた後には、術式特有の残穢ではなく、ただ「圧倒的な質量の残響」だけが重く沈んでいた。
さりが高専に帰還してから、百鬼夜行当日までの数週間。
五条は乙骨たちに「さり」を紹介こそしたが、彼女に指導を頼むことは一度もなかった。さりはただ、道場の隅で黙々と、鉄塊を振り回すような独自のトレーニングを続けているだけだ。
ある日の午後、乙骨、真希、狗巻、パンダの四人は、さりのトレーニングを遠巻きに眺めていた。
「……なぁ、あれ。何キロあると思う?」
パンダが指差したのは、さりが片手で軽々と持ち上げているバーベルだった。プレートが何枚も重なり、シャフトが目に見えて撓っている。
「……あれは、呪具じゃねえよな」
真希が息を呑む。
さりは無表情のまま、その「鉄の塊」を頭上に掲げ、ゆっくりと下ろした。ただそれだけの動作。しかし、彼女が地面に足を着き直すたびに、道場の床板が悲鳴を上げ、数メートル離れた乙骨たちの足元まで微かな震動が伝わってくる。
「あんたたち、何見てるの? 暇ならスパーリングくらい付き合ってあげようか」
不意にさりが視線を向けた。乙骨は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「え、あ、はい! お願いします!」
乙骨が緊張の面持ちで竹刀を構える。さりは武器を手に取らず、ジャージの裾を少し捲り上げただけだった。
「……誰からでもいいわよ。四人同時でも構わないわ」
その後の数十分間を、乙骨は一生忘れないだろう。
攻撃が当たらない。避けているわけではない。さりは最短距離の動きで、乙骨たちの刃や拳を、わずかな「弾き」で逸らしていく。
「……な、なんだこれ。壁を殴ってるみたいだ」
真希が忌々しそうに吐き捨てる。真希の剛腕による一撃も、さりの前腕に触れた瞬間に、まるで鋼鉄の柱に激突したかのように弾き返された。
術式を使っている様子はない。呪力の激しい爆発もない。
ただ、そこに「動かせない質量」が、意思を持って存在している。
「憂太、もっと呪力を体に閉じ込めなさい。あんたの呪力は漏れすぎよ。熱効率が悪すぎるわ」
さりは乙骨の胸に指先をトン、と置いた。
ただそれだけの衝撃。なのに、乙骨の全身は激しい共振に襲われ、数メートル後方まで転がるように吹き飛ばされた。
「……今、何をしたんだ?」
「……さぁ。ただの『接触』よ」
さりは冷淡に言い捨て、再びバーベルへと向かった。
乙骨たちはこの時、まだ知らなかった。自分たちが体験したのが、呪術というルールではなく、洗練され尽くした「暴力の物理学」の片鱗であったことを。