北海道の介護施設。89歳のテルは冬になると決まって窓に向かい、意味不明な言葉を繰り返す。介護士・堂前真帆は、ある日SNSで話題になった国道40号の不可解な誤送信を目にし、その文字列がテルの呟きと一致することに気づく。テルの夫・宏三は50年前、同じ国道の吹雪の中で行方不明になっていた。「あの人が呼んでいる」と語るテルの言葉は認知症からくる混乱なのか、それとも。

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梶原テル

 ◆

 

 梶原テルは今日も窓に向かって喋っている。

 

 朝食の配膳を終えた堂前真帆がデイルームの入口に立って見ていると、テルは車椅子に座ったまま窓ガラスに顔を寄せ、白い息で曇った表面を見つめながら低い声で何かを繰り返している。唇の動きが規則的で、同じ言葉を何度も何度も唱えているのが分かるのだが、声が小さすぎて内容は聞き取れない。

 

「テルさん、朝ごはんですよ」

 

 真帆が声をかけると、テルは振り返った。八十九歳。総菜売り場の白い蛍光灯のように青白い肌に、枯れ木の幹を思わせる深い皺が刻まれている。目は生きている人間のそれとは思えないほど澄んで、瞳の縁がかすかに琥珀を帯びた灰色をしていた。

 

「テルさん?」

 

「……ああ」

 

 テルの声は掠れていたが、視線は真帆を正確に捉えていた。認知症の診断を受けてから三年になるが、テルの症状は日によって大きく波がある。今朝は比較的穏やかな日のようで、真帆の顔を見て「あんた、堂前さんだね」と名前を呼んだ。

 

「そうですよ。真帆です」

 

「真帆さんか。今日はいい天気かい」

 

 窓の外は吹雪だった。一月下旬の豊富町に晴天は滅多にやって来ない。窓の外に広がっているのは視界の果てまで白い雪の壁で、二百メートル先にあるはずの国道40号の姿もまるで見えない。

 

「吹雪ですよ、テルさん」

 

「吹雪。そうだろうねえ。いつだって吹雪だ」

 

 テルは朝食のトレイを受け取り、味噌汁を一口啜った。箸の持ち方は確かで、白米を口に運ぶ動作にも迷いがない。認知症でも身体機能は保たれている。壊れているのは記憶と時間の認識だけだ。

 

 

 ◆

 

 

 真帆が介護施設「雪の里」に就職したのは一年前の四月だった。二十六歳。東京の福祉系大学を出てそのまま上京先で三年間働いたが、実家のある豊富町で唯一の介護施設が人手不足だと聞いて戻ってきた。

 

 豊富町は人口三千八百人。天塩郡の北端に位置し、町の西を国道40号が南北に貫いている。冬は気温がマイナス三十度を下回ることもあり、町の外周は二月から三月にかけて雪に完全に閉ざされる。「雪の里」は町立の小規模介護施設で、入居者は二十三名。その大半が八十代以上の独居老人で、家族が遠方にいるか既にいない。

 

 梶原テルは入居者の中で最も古い。五年前からここにいる。

 

「テルさん、窓に向かって話してることがあるでしょう」

 

 真帆が施設長の大和田に聞いたのは着任して二週目のことだった。大和田は五十五歳の女性で、この施設を十五年間切り盛りしている太った穏やかな人物だ。

 

「ああ、テルさんの独り言は昔からよ」

 

「何て言ってるんです?」

 

「よく聞き取れないのよねえ。ぶつぶつ言ってるだけで」

 

 大和田はカルテの束を挟んだバインダーをめくった。

 

「最初の頃はね、ご主人の名前を呼んでるんだと思ってたの。旦那さんが五十年くらい前に亡くなってるって聞いてたから」

 

「亡くなった?」

 

「行方不明。昭和四十八年の冬にね、国道40号で吹雪に遭って。テルさんだけが見つかったんだけど、旦那さんの宏三さんは結局……」

 

 大和田はそこで言葉を切った。

 

「見つからなかったんですか」

 

「見つからなかった。春になっても。夏になっても。それ以来ずっと行方不明のまま」

 

 真帆は窓の外を見た。国道40号がどこかに見えるはずだが、吹雪の白い壁の向こうに隠れて何も見えない。

 

「テルさんが窓に向かって話すのは決まって冬なのよ」

 

「冬だけ?」

 

「夏はしない。秋もしない。雪が降り始めると始まるの」

 

 大和田は真帆の目を見て小さく微笑んだ。

 

「気にしなくていいわよ。認知症のある方には珍しくない行動だから」

 

 

 ◆

 

 

 二〇二一年一月二十日の朝、真帆は休憩時間にスマートフォンでSNSのタイムラインを見ていた。

 

 画面にスクリーンショットが流れてきた。国土交通省北海道開発局の公式アカウントが投稿した通行止のお知らせだが、文面が途中から意味不明の文字列に変わっている。

 

 ──国道40号ばばばばばばえおうぃおい〜べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ(9.9km)で通行止を実施しています。

 

 真帆は思わず声を出して笑った。隣の職員が「何」と覗き込んできたので画面を見せると、二人で笑った。「猫がキーボード踏んだんじゃない」と同僚が言った。

 

 だが真帆は笑っている自分の顔が固まっていくのを感じていた。

 

 ばばばばばばえおうぃおい。

 

 この音を聞いたことがある。

 

 テルの唇から。

 

 何ヶ月も前から、テルが窓に向かって呟いている言葉。小さすぎて聞き取れなかった声。だがその唇の動きを真帆は覚えている。「ば」の破裂音で唇が弾け、「え」と「お」で口が開き、「う」で唇がすぼまる。あの動きだ。

 

 真帆は休憩室を出てデイルームに向かった。テルはいつもの窓際にいた。車椅子に座ったまま窓に顔を近づけて何かを喋っている。

 

 真帆は靴音を殺してテルの背後に回った。二メートルの距離まで近づき、息を止めて耳を澄ませた。

 

 テルの唇が動いている。白い息が窓ガラスを曇らせている。

 

 ──ばばばばばばえおうぃおい。

 

 聞こえた。

 

 確かに聞こえた。テルの枯れた声が、あの文字列と同じ音を発している。一音一音は不明瞭だが、唇の動きと合わせれば間違いない。「ば」の連続。「え」の挿入。「おうぃおい」の奇妙な上昇。

 

 ──べべべべべべべべべえべえええべえべべべえ。

 

 後半も続いた。呻くような「べ」の連続が、テルの喉の奥から這い出してくる。その声を聞いているあいだ、真帆の皮膚の表面に冷たいものが走った。テルの声は単なる繰り言ではなかった。何かに応答しているような抑揚がある。質問に答えているような。あるいは呼びかけに応じているような。

 

「テルさん」

 

 真帆が声をかけると、テルの口が止まった。ゆっくりと首を回して真帆を見た。

 

「何の歌を歌ってるんですか」

 

「歌じゃないよ」

 

 テルの声は穏やかだった。

 

「じゃあ何を言ってるんです?」

 

「宏三が呼んでるんだ」

 

 真帆の背筋が冷えた。宏三。テルの夫だ。五十年前に国道40号で行方不明になった男。

 

「宏三さんが?」

 

「窓の向こうからね。吹雪のときだけ聞こえるんだよ。宏三の声が。何て言ってるか分からないけど──呼んでるんだ。あたしを」

 

 テルは窓に目を戻した。吹雪の白い壁が窓の外を覆い尽くしている。

 

「あの人はね、ずっとあそこにいるんだよ。道の上に。あたしが来るのを待ってる」

 

「テルさん……」

 

「あたしはまだ行けないけどね。足が悪いから」

 

 テルは自分の車椅子を軽く叩いた。笑っていた。その笑顔が真帆には怖かった。認知症の混乱とも絶望とも違う、何かを確信している人間の静かな笑みだったからだ。

 

 

 ◆

 

 

 真帆はテルの過去を調べ始めた。

 

 豊富町の役場に足を運び、住民記録を閲覧した。梶原宏三。昭和十年生まれ。豊富町在住の酪農家。昭和四十八年一月二十九日の午後、妻テルとともに旭川への用事から自家用車で帰宅する途中、豊富町内の国道40号で吹雪に遭遇。車両は路肩の雪壁に突っ込んで停車。翌朝、除雪作業中の作業員がテルを車内で発見したが、宏三の姿はなかった。

 

 真帆はその日付を二度見した。一月二十九日。

 

 助けを呼びに行ったのだろう、というのが当時の警察の推測だった。吹雪の中を車外に出た宏三は方向を見失い、道路から外れて原野に迷い込んだ。マイナス三十度の野外で一晩過ごせば人間は死ぬ。春の雪解け後に捜索が行われたが遺体は発見されなかった。

 

 一月二十九日。

 

 あの投稿に書かれていた日付と同じだ。

 

 真帆はスマートフォンを取り出してもう一度あの投稿を確認した。「29日 午後4時18分」。宏三が行方不明になったのも一月二十九日だ。偶然の一致だろう。一月下旬は北海道で吹雪が最も激しくなる時期であり、通行止や事故の発生頻度が高い。二十九日という日付に特別な意味はない。

 

 だが9.9キロという距離はどうだ。

 

 真帆は地図アプリで豊富幌加ICから豊富北ICまでの距離を測った。約9.9キロ。そしてテルと宏三の車が発見されたのは、役場の記録によれば豊富幌加IC付近だ。当時はインターチェンジの名称ではなく地番で記録されていたが、位置的に一致する。

 

 宏三が車を出て吹雪の中に消えた場所と、あの投稿の「9.9km」の区間は重なっている。

 

 かな入力の件は知っていた。SNSで拡散されていた「こちらへ来い」の変換。

 

 こちらへ来い。

 

 宏三がテルを呼んでいる。テルはそう言った。

 

 真帆はスマートフォンをポケットにしまった。窓の外で吹雪が叫んでいる。風が施設の壁を叩く音が低く響いて、暖房の効いた室内にいても空気の底に冬の気配がこもっている。

 

 偶然だ。すべて偶然だ。

 

 サーバーのエラーと、五十年前の遭難事故と、認知症の繰り言。この三つに因果関係はない。あるはずがない。

 

 

 ◆

 

 

 だが真帆は気づいてしまった。

 

 テルの症状の記録を過去に遡って読み返したとき、窓に向かって話す行為が始まるのは毎年決まって十二月の末からで、ピークは一月下旬だということに。そしてその行為が最も激しくなる日は、すべて吹雪の日だった。声が大きくなり、体を前後に揺すり、窓ガラスに手を押しつけて何度もあの音列を繰り返す。

 

 晴れた冬の日には何もしない。曇りの日も穏やかだ。雪が降り始めると唇が動き始め、吹雪になると声が大きくなる。そしてホワイトアウト級の猛吹雪の日にはテルは車椅子から立ち上がろうとする。

 

 歩けないはずの足で。

 

「テルさんは歩けるんですか」

 

 真帆が大和田に聞くと、施設長は首を傾げた。

 

「歩けないわよ。膝の関節を人工関節に置換してるけど、リハビリで立つのが精一杯。歩行はもう無理って主治医が言ってる」

 

「でも記録を見ると、猛吹雪の日にベッドから車椅子に自力で移乗した記録が何回かあります」

 

「ああ、それはあるわね。興奮状態で体が動いちゃうのよ。アドレナリンが出てるんでしょう」

 

「窓の鍵を開けようとしたことも」

 

「……あったわね。二年前かしら」

 

 大和田は眉をひそめた。

 

「あのときは夜勤の子が気づいて止めたんだけど。テルさんは外に出ようとしてたのよ。マイナス二十八度の夜中に。パジャマのまま」

 

「止めたとき、テルさんは何て言ってました?」

 

「……覚えてないわ。何か言ってたけど」

 

「『あの人が呼んでる』って言いませんでしたか」

 

 大和田は真帆をじっと見た。

 

「真帆ちゃん。あんまり深く考えないほうがいいわよ。認知症の方は過去の記憶が現在に混ざるの。旦那さんが亡くなったときのことが繰り返し蘇ってるだけ。冬の吹雪がトリガーになっているのは珍しいことじゃないわ」

 

 大和田の声は優しかったが、真帆を見る目には「これ以上追及するな」という光があった。

 

 

 ◆

 

 

 一月二十七日の夜、真帆は夜勤だった。

 

 午前二時。巡回を終えた真帆はナースステーションの椅子に座り、記録簿に巡回結果を書き込んでいた。入居者は全員就寝中。異常なしと書きかけたところで、テルの部屋のナースコールが鳴った。

 

 真帆はテルの部屋に向かった。廊下の蛍光灯は減光されていて、足元にだけ薄い光が落ちている。テルの部屋のドアをノックして開けた。

 

 テルはベッドの上に座っていた。

 

 車椅子はベッドの横に置いてある。テルは車椅子を使わずに自力で上体を起こしていた。暗い部屋の中で窓に向かって座り、窓の外を────。

 

 見ていなかった。

 

 窓の外を見ているのではない。窓ガラスに映った自分の顔を見ているのだ。部屋の中は暗く、外も暗い。窓ガラスは鏡のようにテルの顔を映しているはずだ。だがテルの視線はガラスの表面のもっと曖昧な場所に固定されていた。自分の顔でもなく、外の闇でもなく、その中間のどこかを見つめている。

 

「テルさん、大丈夫ですか?」

 

「真帆さん」

 

 テルの声はいつになく明瞭だった。

 

「明後日、吹雪になるんだってね」

 

「え? ……天気予報ではそう言ってましたけど」

 

「二十九日」

 

 真帆の体がこわばった。

 

「二十九日に吹雪が来る。宏三が来る。迎えに来てくれるんだ」

 

「テルさん、宏三さんは──」

 

「死んでないよ」

 

 テルの声が真帆の言葉を断った。断ったその声には怒りも悲しみもなく、ただ事実を述べているような平坦な響きがあった。

 

「あの人は道の上にいるんだ。ずっとずっと、あそこにいるんだよ。歩いてるのかもしれないし、立ってるのかもしれない。分からないけど、いるんだ。あたしには分かる。声が聞こえるから」

 

「テルさん、それは……」

 

「あんたには聞こえないだろうね。若いから。若い人には聞こえない。あたしみたいに長いこと聞いてると、だんだん分かるようになるんだよ。最初はただの風の音だと思ってた。でもね、風は同じ音を繰り返さない。あの声は繰り返すの。同じ言葉を何度も何度も」

 

「……何て言ってるんですか」

 

「来い、って」

 

 テルは窓を見た。

 

「こっちへ来い、って。五十年ずっと言ってる。あたしが行くまで止めないんだよ、あの人は。昔からそういう人だった。一度決めたら梃子でも動かない。だからあたしが行くしかないんだ」

 

 真帆はテルの傍に座った。テルの手を取ると、骨と皮だけの細い手のひらが驚くほど温かかった。

 

「テルさん、外はマイナス二十五度ですよ。出たら死んでしまいます」

 

「そうだろうね」

 

「だから出ちゃだめです」

 

「分かってるよ。分かってるけど、あの声が──」

 

 テルの目に涙が浮かんだ。枯れたと思っていた目から涙が溢れ、皺の深い頬を伝い落ちた。

 

「五十年だよ。五十年あたしを呼んでるんだよ、あの人は。あんたに分かるかい。五十年間同じ声を聞かされて、行けないでいるあたしの気持ちが」

 

 真帆は何も言えなかった。テルの手を握ったまま、窓の外の闇を見つめていた。

 

 闇の向こうから風が窓を叩いていた。ガラスが微かに振動し、その振動がテルの手を通じて真帆の指先に伝わっていた。

 

 風の音だ。ただの風の音だ。

 

 だが真帆の手のひらがガラスの振動の中にリズムを感じていた。耳ではない。テルの手を通じて伝わってくる振動そのものが、不規則な風の音の下に潜む一定のパターンを刻んでいる。

 

 ば、ば、ば──。

 

 真帆は手を離した。

 

 

 ◆

 

 

 一月二十九日。

 

 天気予報のとおり、豊富町は猛吹雪に見舞われた。

 

 午後から風速が増し始め、夕方には視界がゼロになった。施設の周囲は完全にホワイトアウトしており、窓の外には白以外の色が存在しなくなった。暴風雪警報が発令され、国道40号は豊富幌加IC付近で通行止──真帆はスマートフォンの通知でそれを確認した。通行止の区間は9.9キロ。

 

 テルは一日中穏やかだった。

 

 朝食を完食し、昼食も残さず食べ、午後のレクリエーションでは折り紙を折っていた。窓に向かって話すこともなく、繰り言もなかった。むしろここ数ヶ月で最も落ち着いた一日だった。

 

 真帆はかえって不安だった。嵐の前の静けさという言い方があるが、テルの穏やかさには何かを待っている人間の静けさがあった。約束の時間が来るのを知っていて、それまでの時間を丁寧に過ごしているような。

 

 午後四時。真帆は早番だったが、シフト交代の前にテルの部屋を見に行った。

 

 テルはベッドに横になっていた。毛布を顎まで引き上げて、天井を見つめている。穏やかな顔だった。

 

「テルさん、私、今日はこれで上がりますね」

 

「そうかい。お疲れさま」

 

「明日の朝また来ますから」

 

「うん」

 

 テルは真帆を見た。琥珀を帯びた灰色の瞳が、部屋の薄い光を受けて静かに光っていた。

 

「真帆さん」

 

「はい」

 

「ありがとうね」

 

 それだけだった。テルはそれ以上何も言わず、真帆に向かって小さく頷いた。

 

 真帆は「また明日」と言って部屋を出た。廊下を歩きながら一度だけ振り返ると、テルの部屋のドアは閉まっていた。

 

 

 ◆

 

 

 翌朝、真帆が出勤すると施設の入口に警察車両が停まっていた。

 

 大和田が玄関で真帆を迎えた。施設長の顔は青かった。

 

「テルさんが──」

 

「え?」

 

「夜中にいなくなったの」

 

 真帆の全身から血の気が引いた。

 

 大和田の説明によれば、午前二時の巡回時にテルのベッドがもぬけの殻だった。車椅子はベッドの横に残されていた。部屋の窓は開いていた。窓の下に、外へ出た人間の足跡があった。

 

 足跡。

 

 歩けないはずのテルの足跡が、施設の外の雪の上に残されていた。

 

「それで──」

 

 真帆は声を絞り出した。

 

「テルさんは」

 

「まだ見つかってない。警察が捜索してるけど、吹雪がひどすぎて」

 

 真帆は施設の裏口から外に出た。玄関とは反対側にあたる施設の西側に回ると、そこにテルの部屋の窓があった。窓は閉められていたが鍵はかかっていなかった。窓枠の下に雪が積もり、その雪の上に足跡が残っていた。

 

 裸足の足跡だった。

 

 小さな、痩せた老人の足跡。靴もスリッパもなく、裸の足が雪を踏んでいた。マイナス二十八度の夜中に。パジャマと裸足で。

 

 足跡は施設の壁から真っ直ぐ西へ、国道40号の方向へ延びていた。

 

 真帆は足跡を辿った。鎮まりかけた吹雪の残滓が時折顔を叩く中、テルの裸足の跡を追って雪原を歩いた。足跡は驚くほど確かだった。よろめきも迷いもなく、一直線に西へ伸びている。歩けなかったはずの足が、夜の雪原を一度も止まらずに歩いていた証拠がそこにあった。

 

 五十メートルほど歩いたところで、真帆は足を止めた。

 

 足跡が変わっていた。

 

 テルの小さな裸足の跡の隣に、もう一組の足跡が現れていた。

 

 大きな足跡だった。男の足だ。長靴のような、深い溝がある重い靴底の跡。それがテルの足跡と並んで、寄り添うように歩いていた。

 

 二人分の足跡は国道40号の方向へまっすぐ延びていって、吹雪で積もった新しい雪に覆われかけながらも、先の方までかすかに続いているのが見えた。

 

 真帆はそれ以上追わなかった。

 

 追えなかった。

 

 二人分の足跡が並んで歩いていく先には国道40号がある。五十年前に宏三が消えた道がある。テルが五十年間窓の外に向かって応答し続けていた声の主がいた場所がある。

 

 真帆は振り返った。施設の建物が雪の中に霞んで見えた。暖房の排気口から白い蒸気が立ち昇っている。

 

 足元の雪をもう一度見た。テルの裸足の跡の隣に残された大きな足跡の雪面を凝視した。

 

 足跡の底は雪を踏み抜いていなかった。

 

 テルの裸足は雪に深く沈んでいるのに、隣の大きな足跡は雪の表面にほとんど沈んでいない。まるで体重がないかのように。あるいは体がないかのように。靴底の溝だけが雪の表面をなぞっている。

 

 

 ◆

 

 

 テルは見つからなかった。

 

 その日も翌日も翌々日も吹雪は続き、捜索は難航した。三日後に吹雪が止んでから本格的な捜索が行われたが、施設から二百メートル先の国道40号の路肩で足跡は途絶えていた。道路の除雪が終わってからも、道の周辺からテルの痕跡は見つからなかった。

 

 五十年前の宏三と同じだった。

 

 春になっても。夏になっても。梶原テルの遺体は発見されなかった。

 

 真帆はテルの部屋の片づけを手伝った。私物はほとんどなかった。着替えが数点と施設の歯ブラシ、枕元に置かれた古い写真立て、そしてベッドサイドテーブルの引き出しに入っていた一冊のメモ帳。写真立てにはセピア色の写真があり、若い男女が写っている。男の方が宏三なのだろうと真帆は思った。

 

 真帆はメモ帳を開いた。

 

 ほとんどのページは白紙だった。テルがここに入居してから使っていたものらしく、最初の数ページには日付と「きょうのてんき」という見出しで天気の記録が書かれていた。晴れ、曇り、雪。テルの手はまだ確かで、ひらがなの文字は丁寧だった。

 

 天気の記録は三年分つづられたあと途絶えていた。認知症が進行して書くことをやめたのだろう。

 

 だが最後のページだけ、メモ帳の裏表紙の見返しの部分に何かが書いてあった。

 

 鉛筆の文字。テルの筆跡。だが天気の記録とは違って、文字は震えていた。太い鉛筆の線が紙に食い込むほど強く押しつけられた跡が残っている。

 

 そこに書かれていたのは、たった四文字だった。

 

『もうすぐ』

 

 真帆はメモ帳を閉じた。窓の外では三月の雪が静かに降っていた。

 

 テルの部屋の窓からは国道40号が見える。除雪された黒いアスファルトの上を、時折トラックが通過していく。道の両側には残雪の壁がまだ高く積まれていて、その白い壁の向こうには枯れた牧草地と灰色の空が広がっている。

 

 真帆はしばらく窓の外を見つめていた。

 

 だが、何も起きなかった。

 

(了)

 




ばばばばばばえおうぃおい 皆知ってる?あれどうなったんでしょーね結局。

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