バレンタイン当日、世界中のチョコレートが突然鮫に変わり、人を襲い始めた。菓子メーカー勤務の菅沼詩織は、三年越しの本命チョコを鞄に抱えたままビルの屋上に逃げ延びる。空をチョコ鮫が飛び交い、街は阿鼻叫喚。自衛隊も歯が立たない未曾有の災厄のさなか、ひとつの奇妙な法則が浮かび上がる。「本気の想いで作ったチョコは、鮫にならない」。世界が崩壊するかもしれない未曽有の大災害──それでもチョコを渡す意味はあるのか。

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ハッピーバレンタイン!

 ◆

 

 二月十四日の午前八時三十五分、菅沼詩織の人生は完全に予定通りだった。

 

 鏡の前で三度目のリップを塗り直し、鞄の中に忍ばせた紙袋の存在をもう一度たしかめる。中身は手作りのトリュフチョコレート五粒。深夜三時まで台所に立って仕上げた自信作で、ガナッシュの配合は製菓学校時代のレシピを改良したオリジナルだ。ヴァローナのグアナラ70%をベースに、ラム酒を数滴。まるみのある苦味のあとから甘さが追いかけてくる設計になっている。

 

 渡す相手は営業部の沢渡一真。入社四年目の二十八歳。穏やかで腰が低くて少し鈍い。詩織がこの三年間ずっと好きな男だ。毎年バレンタインのたびに義理チョコに紛れさせて本命を渡そうとしては失敗し、今年こそは、と腹を括った。

 

 勤め先は菓子メーカー「カカオファクトリー」。従業員三百名。本社は東京都中央区。バレンタイン商戦の最前線にいる会社だけに、二月十四日は一年で最も忙しい日にあたる。詩織の所属する企画部は朝から全員出社で、銀座四越の特設コーナーの売上データをリアルタイムで追いかけながら、来年の商品開発の種を拾うのが仕事だった。

 

「おはようございまーす!」

 

 オフィスに入ると後輩の真辺亜矢が机の上にチョコレートの小山を築いていた。二十四歳。ショートカットに丸い眼鏡をかけた小柄な女で、チョコ好きが高じてこの会社に入ったと公言してはばからない。机の上には義理チョコ用の小分け袋が三十個近く並んでいる。

 

「亜矢ちゃん、多くない?」

 

「部署の全員と、あと取引先の……数えたら二十七人でした」

 

「手作り?」

 

「はい! ガトーショコラのミニカップです」

 

 亜矢は得意げに小袋のひとつを詩織に見せた。直径三センチほどの焼き菓子が一個ずつ透明のラッピングに包まれている。焼き色は均一で表面にうっすらと粉糖がかかっていた。

 

「すごいじゃん、プロみたい」

 

「ふふ、今年は気合い入れました」

 

 詩織は自分の鞄の中の紙袋をちらりと見下ろした。他人の手作りチョコを褒める余裕はある。問題は自分のそれを、あの男に渡せるかどうかだ。

 

 ◆

 

 午前十一時四十分。

 

 銀座四越の地下一階にあるカカオファクトリーの特設コーナーから、売上速報のメールが届いた。前年比百十二パーセント。好調だ。詩織はデータをスプレッドシートに入力しながら、昼休みに沢渡先輩を呼び出すタイミングを計っていた。

 

 そのとき、詩織のスマートフォンが振動した。

 

 ニュースアプリのプッシュ通知だった。

 

 ──【速報】銀座・四越地下一階で異常事態 ショーケースのチョコレートが「動いている」との通報

 

 詩織は眉をひそめた。何かのプロモーション映像の誤報だろうか。バレンタイン企画で動くチョコレートのインスタレーションを設置したブランドがあったような気もする。

 

 隣の席の亜矢が同じ通知を見ていた。

 

「先輩、これ……」

 

「たぶん宣伝じゃない?」

 

「でもうちのコーナーがある四越ですよね」

 

 詩織は営業部に内線をかけた。四越の常駐スタッフに確認を取ろうとしたのだが、電話は繋がらなかった。コール音が五回鳴ったあとに切れる。もう一度かけても同じだった。

 

 三度目にかけたとき、ワンコールで繋がった。

 

 受話器の向こうから聞こえたのは、人間の叫び声だった。

 

 一人ではない。複数の人間が同時に叫んでいる。甲高い悲鳴と低い怒号が混ざり合って、その隙間から硬い何かが砕ける音、ガラスが割れる音、そして──。

 

 水の中で何かが暴れるような、ばちゃばちゃという湿った音。

 

「もしもし! カカオファクトリー企画部の菅沼ですが!」

 

 返事はなかった。受話器は床に落ちたのだろう。遠くなった音声の奥で、男の声が叫んだ。

 

「チョコが──チョコが噛んでる!」

 

 通話が切れた。

 

 ◆

 

 正午。

 

 テレビの臨時ニュースがオフィスの全員を凍りつかせた。

 

 銀座四越の地下食品売り場で、ショーケースに並べられていたチョコレートが突然変形し、客と店員を襲っている。同様の報告が東京都内の複数のデパートとコンビニエンスストアから寄せられており、警視庁は現場に警察官を派遣した。

 

 画面に映し出された映像は、誰かがスマートフォンで撮影した横長の動画だった。ゴディバのショーケースの前に立っていた女性客が、購入したばかりの箱入りチョコレートを抱えて悲鳴を上げている。箱が内側から弾け飛び、中から現れたのは──。

 

 チョコレートだった。

 

 チョコレートの色をした、体長十五センチほどの鮫だった。

 

 流線型の体はつやつやとしたダークチョコレートの光沢を帯びており、背びれと胸びれがある。尾びれを振って空中を泳いでいる。目はない。目があるべき場所にカカオニブのような粒が二つ埋まっているだけだ。だが口はある。割れたチョコレートの断面のような口が横一文字に開いており、その中に小さな三角形の歯がびっしりと並んでいた。歯もチョコレート色をしている。

 

 女性客の手首に噛みついた。

 

 血が噴いた。チョコ色の歯が皮膚を食い破り、肉に達し、唇のない口が左右に首を振って肉を引きちぎる。サメの摂食行動そのものだった。ただし体長十五センチの、チョコレートでできた鮫が行っているという点を除けば。

 

 オフィスが騒然となった。企画部の部長が受話器を手に怒鳴っている。総務部の人間が非常階段の確認に走っていく。隣のフロアから叫び声が聞こえた。

 

「先輩!」

 

 亜矢が詩織の腕を掴んだ。亜矢の顔は蒼白で、丸い眼鏡の奥の目が見開かれている。

 

「倉庫! うちの倉庫にバレンタイン用の在庫が──」

 

 詩織の血の気が引いた。

 

 カカオファクトリー本社ビルの地下一階には、バレンタインフェア用の出荷待ち在庫が保管されている。板チョコ、トリュフ、ボンボンショコラ、生チョコ、チョコレートケーキ。出荷量のピークを迎える二月十四日に合わせて集積されたその量は、段ボール箱にしておよそ八百箱。チョコレートの総重量は数トンに及ぶ。

 

 数トンのチョコレートが鮫になったら。

 

 地下から鈍い振動が伝わってきた。コンクリートの床を通じて足の裏に響く、低く持続的な震え。何か巨大なものが地下で暴れている。

 

「逃げるわよ!」

 

 詩織は亜矢の手を引いて走った。オフィスのドアを蹴り開けて廊下に飛び出す。非常階段はビルの東端にある。エレベーターは使えない。使いたくない。エレベーターの中にチョコレートの自動販売機があったはずだ。

 

 階段を駆け下りようとした瞬間、下の階から悲鳴が聞こえた。三階の休憩室にはスタッフ用のチョコレートの試食コーナーがある。皿に盛られた新商品の試食チョコが、たった今、十数匹のチョコ鮫に変わったのだ。

 

 駆け上がる。上へ。

 

 屋上に出た。二月の冷気が肌を刺す。息が白い。詩織と亜矢は屋上の端まで走り、フェンスに背中をつけて下を見下ろした。

 

 中央区の街並みが広がっている。ビルとビルの間の道路に人が溢れていた。走っている。逃げている。コンビニの自動ドアが割れ、店内から茶色い塊が噴き出している。ローソンの棚にあったチョコレートのすべてが鮫になって飛び出してきたのだ。体長十センチから二十センチのチョコ鮫が空中を泳ぎ、逃げ惑う人々に群がっている。

 

 まるで水面に撒かれた餌に群がるピラニアのようだった。ただし水はない。チョコ鮫は空中を泳ぐ。重力を無視しているのか、あるいはチョコレートの物理法則が人間のそれとは違うのか、理由は分からないが彼らは自由に三次元を移動する。そして噛む。噛んで、引きちぎって、飲み込む。飲み込んだ肉片がどこへ消えるのかは分からない。チョコ鮫の体は中身まで均一なチョコレートであるはずなのに、胃袋のようなものがあるのかもしれない。

 

 亜矢が泣いていた。

 

「何なのこれ……何なの……」

 

「分からない」

 

 詩織は亜矢の肩を抱いた。自分の手も震えていることに気づいた。鞄の紐を握りしめている。鞄の中には本命チョコの紙袋がある。手作りのトリュフ。五粒。

 

 一瞬、鞄を放り投げようかと思った。

 

 だがやめた。なぜかは分からない。いや、分かっている。三年かけた想いが詰まった五粒を、チョコが鮫に変わったくらいの理由で手放すのが嫌だったのだ。「チョコが鮫に変わったくらい」──自分の思考がどう考えてもおかしいことは自覚していたが。

 

 ◆

 

 午後一時。ニュースは世界規模の異変を伝えていた。

 

 日本だけではなかった。ベルギー、スイス、フランス、アメリカ、ガーナ。世界中のチョコレートが同時に鮫への変態を起こしていた。ゴディバの工場ではチョコレートの原液プールが巨大なホオジロザメ型のチョコ鮫を産み出し、工場の壁を食い破って外に出た。リンツの本社があるスイスのキルヒベルクでは市街地がチョコ鮫に占拠され、住民が山へ避難した。ガーナのカカオ農園ではカカオ豆が変態したのか、豆サイズの極小チョコ鮫が数百万匹の群れとなって農地を覆い尽くした。

 

 日本国内では自衛隊が出動した。しかしチョコ鮫は銃弾で砕けても破片から再生する性質を持つことが判明し、物理的な攻撃は逆効果だった。砕かれたチョコ鮫は五秒後に二匹のチョコ鮫に分裂した。撃てば撃つほど増える。

 

「ねえ先輩」

 

 屋上で風に吹かれながら、亜矢がスマートフォンの画面を見つめて呟いた。

 

「全部のチョコが変化してるわけじゃないみたいです」

 

「え?」

 

「ネットに書いてる人がいます。うちのチョコは変化してない、って。何人も」

 

 詩織はスマートフォンでSNSを開いた。阿鼻叫喚のタイムラインの中に、確かにそういう投稿が散見される。

 

 「うちの娘が作ったチョコはぜんぜん動かない」「手作りトリュフは無事」「溶かして固めただけの市販のやつが変化した。てんかで作ったのは大丈夫」。

 

 法則が見えた。

 

 大量生産された工業製品のチョコレートが鮫になる。手作りのチョコレートは変化しない。

 

 ただし例外がある。「友達が手作りしたっていうやつが鮫になった」という投稿もある。「お母さんが手作りしたチョコもだめだった」という報告も。手作りであれば安全というわけではない。

 

 では何が違うのか。

 

 詩織は鞄の中の紙袋を見た。手作りのトリュフ。沢渡先輩のために、三年分の想いを込めて作った五粒。紙袋を開けて中を確認した。

 

 チョコレートはチョコレートのままだった。丸いトリュフがココアパウダーの中に五つ並んでいる。動く気配はない。表面にひび割れもない。甘い香りがふんわりと周囲に漂った。

 

「先輩のチョコ、変化してない……」

 

 亜矢が覗き込んで言った。だが次の瞬間、亜矢は自分の机に置いてきた義理チョコの小山のことを思い出して顔を歪めた。

 

「あたしのガトーショコラ……」

 

「亜矢ちゃんのは手作りでしょ? 大丈夫なんじゃ……」

 

「でも義理ですよ。二十七人に同じものを配る義理チョコですよ。気持ちなんてこもってないですよ」

 

 気持ち。

 

 もしかしたらそれが分岐点なのかもしれない。工業製品か手作りかではなく、気持ちが入っているかどうか。本当に相手のことを想って作ったチョコレートは鮫にならない。義務感や惰性で用意した義理チョコは、工場のラインで生産された商品と同じ扱いを受ける。

 

 馬鹿げた仮説だった。感情にチョコレートの物性を変える力があるはずがない。だが今日という日に「はずがない」は通用しない。チョコレートが鮫に変態すること自体がすでに物理法則を踏み越えているのだから。

 

 ◆

 

 午後二時。状況は悪化の一途を辿っていた。

 

 銃撃による分裂を学習した自衛隊が戦術を変更し、チョコ鮫を加熱して溶かす作戦に出た。火炎放射器の投入が検討されたが、市街地での使用は危険すぎるとして却下された。代わりにヒートガンとドライヤーの大量動員が行われたが、チョコ鮫は溶かされる前に逃げる知能を持っていた。しかもチョコ鮫は時間の経過とともに大型化しており、初期の体長十五センチから三十センチ、五十センチ、一メートルと成長を続けている。

 

 東京湾に体長十メートルのホワイトチョコレート製のジンベエザメが出現したとの報告もあった。こちらは人を襲わないものの、隅田川を遡上して浅草方面に向かっているらしい。ホワイトチョコだけおとなしいのは何故かについてSNS上では激論が交わされていたが、結論は出なかった。

 

 詩織と亜矢は屋上から動けずにいた。ビルの中はチョコ鮫が跋扈しており、階段を降りることは自殺行為だった。地下の倉庫から這い上がってきた大量のチョコ鮫がフロアを埋め尽くしている。総務部の佐々木さんがチョコ鮫に足を噛まれて倒れるのを屋上のドアの隙間から見た。三匹のチョコ鮫が佐々木さんの脹脛に群がり、スーツの生地ごと肉を食いちぎっていく。佐々木さんは叫びながら廊下を這って逃げたが、その先に更に五匹のチョコ鮫が待っていた。

 

 詩織はドアを閉めた。

 

「沢渡先輩……」

 

 営業部は隣のビルだ。チョコ鮫の被害がどうなっているか分からない。電話は繋がらない。回線がパンクしている。

 

「先輩、あの人のこと好きなんですね」

 

 亜矢が言った。泣いたあとの赤い目で詩織を見ている。

 

「何を今さら」

 

「だって今もそのチョコ握りしめてるじゃないですか」

 

 詩織は自分の手を見た。確かに紙袋を握りしめている。指が白くなるほど強く。

 

「渡しに行きたい?」

 

「……無理でしょ」

 

「無理ですね」

 

 二人は黙った。屋上の上には冬の青空が広がっている。ビルの間から東京タワーの先端が見えた。その横を体長二メートルほどのミルクチョコレート製のシュモクザメが三匹、編隊を組んで飛んでいった。頭部のハンマー型の突起が午後の日差しを受けてテラテラと光っている。

 

「世界終わりそうですね」

 

「バレンタインに世界が終わるとか、ロマンチックの欠片もないわ」

 

「でもチョコですよ」

 

「チョコだね」

 

 亜矢が笑った。こんな状況で笑えるこの後輩のことが、詩織は少し好きだった。

 

 ◆

 

 午後三時。

 

 屋上のドアが開いた。

 

 詩織と亜矢が身構えた。チョコ鮫がついに屋上まで来たかと思ったが、ドアから現れたのは人間だった。

 

 沢渡一真だった。

 

 スーツの左袖が肘の上で破れていて、破れた部分からガーゼを巻いた前腕が覗いている。額にも絆創膏が貼ってあった。右手にハンディ掃除機を持っている。

 

「菅沼さん、無事だったか」

 

「沢渡先輩! なんで……隣のビルから……」

 

「非常階段の五階で渡り廊下がある。そこからこっちのビルに入って、チョコ鮫を避けながら屋上まで来た」

 

「掃除機は?」

 

「吸い込むと動けなくなるんだ、こいつら。歯はあるけどフィルターは噛み破れないみたいだね」

 

 沢渡は掃除機のダストカップを見せた。中に体長十センチほどのチョコ鮫が三匹、ぎゅうぎゅうに詰まってもがいている。カカオニブの目が恨めしそうにこちらを見ていた。

 

「菅沼さんたちを探しに来た。屋上にいるんじゃないかと思って」

 

「探しに? このなかを?」

 

「まあ、掃除機があるから」

 

 沢渡は笑った。右頬にチョコレートの跡がついている。噛まれたのか、それとも返り血ならぬ返りチョコか。穏やかで少し鈍い笑い方はいつも通りだった。チョコレートが鮫になって社員を食い散らかしているビルの中を掃除機一本で登ってくるような真似をしておいて、あの笑い方ができる男だ。

 

 詩織は唇を噛んだ。

 

 好きだ。

 

 こんな男を好きにならないわけがないだろう。

 

 ◆

 

 午後四時。

 

 三人は屋上にとどまった。沢渡が持ってきた情報によれば、自衛隊が「冷凍作戦」を開始したらしい。チョコ鮫はチョコレートである以上、極低温で固まる。液体窒素を散布して動きを止め、固まったチョコ鮫を回収する計画だ。市街地への液体窒素散布は前代未聞だが、火炎放射器よりは安全だという判断だった。

 

 だが被害はすでに甚大だった。

 

 東京都内だけで死者は二百人を超え、負傷者は数千人規模に達していた。全国の死者は集計不能。世界規模では想像もつかない。チョコレートの消費量が多いベルギーとスイスでは国家非常事態宣言が出ていた。

 

 ニュースのアナウンサーが伝える声が、スマートフォンの小さなスピーカーから流れている。

 

「繰り返します。チョコレート製品を所持している方は直ちにその場で廃棄してください。水に沈めるか、密閉容器に入れてください。自衛隊による回収作業が順次行われます。繰り返します──」

 

 詩織は鞄の中の紙袋を見つめていた。

 

 手作りのトリュフ。五粒。まだ変化していない。ずっと変化していない。朝から八時間以上が経過しているのに、ココアパウダーをまとった五つの球体は静かに横たわったまま、甘い香りを漂わせている。

 

「先輩」

 

 亜矢が詩織の視線の先を追って言った。

 

「それ、渡したら?」

 

「は?」

 

「だってこの世界がこのまま終わったら渡せないじゃないですか」

 

 亜矢は正気だった。正気の目をしてとんでもないことを言っている。

 

「チョコだよ? チョコが今まさに人類を虐殺してんだよ? この状況でチョコを渡すとか頭おかしいでしょ」

 

「おかしいですよ。でも先輩、あたし思うんですけど」

 

 亜矢は膝を抱えて空を見上げた。二メートル級のチョコシュモクザメがビルの間を悠然と泳いでいる。尾びれの切っ先が午後の光を反射してきらめいている。

 

「今日バレンタインじゃないですか」

 

「見りゃ分かるわ」

 

「チョコレートがぜんぶ敵になって、世界中の人が逃げてて、もうバレンタインどころじゃないわけですよ。誰もチョコなんて渡さない。渡したくても渡せない。義理も本命も全部鮫になって食い殺しに来てる。こんなバレンタインは人類初ですよ」

 

「だから何」

 

「だからこそ渡す意味があるんじゃないですか」

 

 亜矢の声が少しだけ強くなった。

 

「世界中のチョコが鮫になって、もうバレンタインなんて成立しない日に、それでもチョコを渡すんですよ。それってもう、チョコレートっていう物質を超えてません? 好きだって気持ちを、鮫が飛び交う空の下で伝えるんですよ? そんなの……そんなの、めちゃくちゃかっこいいじゃないですか」

 

 詩織はしばらく亜矢を見つめていた。

 

 二十四歳の後輩の、ぐしゃぐしゃに泣いた顔と赤い鼻と曇った眼鏡が、午後の陽に照らされている。その向こうで体長一メートルのダークチョコ鮫がビルの壁に激突して砕け散り、五秒後に二匹に分裂して飛び去っていく。世紀末の光景だ。とても告白をしている場合ではない。

 

 だが詩織は立ち上がった。

 

「沢渡先輩」

 

 沢渡はフェンスに寄りかかってスマートフォンを見ていた。顔を上げた。

 

「ん?」

 

「あの」

 

「うん」

 

「これ、ちょっと変な話なんですけど」

 

「うん」

 

「変っていうか、タイミングが完全に狂ってるんですけど」

 

「大丈夫だよ、今日そのものが狂っちゃってるから、少しくらいタイミングが狂ってても平気だよ」

 

 詩織は鞄から紙袋を取り出した。チョコ鮫が飛び交う東京のビルの屋上で、ココアパウダーをまとった五粒のトリュフを差し出した。

 

「バレンタインのチョコです。本命です。三年越しです」

 

 沢渡は紙袋を受け取った。中を覗いた。五つの丸いトリュフが並んでいるのを見て、それから詩織の顔を見た。

 

「鮫にならないね、これ」

 

「ならないです」

 

「どうして」

 

「分かりません。たぶん、本気で誰かのことを想って作ったからじゃないかと、そういう説がネットにあります」

 

「そっか」

 

 沢渡はトリュフを一粒つまみ上げた。ちょっと困ったような顔でチョコレートを見つめている。チョコ鮫が人を殺して回っている日にチョコレートを食べるのは気が引けるのかもしれない。

 

「食べないんですか」

 

「食べるよ」

 

 沢渡はトリュフを口に入れた。

 

 噛んだ。

 

 ガナッシュのやわらかい層が歯に当たって潰れ、ヴァローナのグアナラ70%の苦みが口の中に広がり、追いかけてくるラム酒の甘さが鼻に抜ける。はずだ。詩織にはそう見えた。沢渡の表情が少しだけ変わったからだ。

 

「うまい」

 

「ありがとうございます」

 

「すごくうまい。苦くて……あとから甘い」

 

「そうなるように作りました」

 

 沢渡はもう一粒食べた。それから詩織を見た。穏やかで少し鈍い目が、今はまっすぐに詩織を捉えていた。

 

「ありがとう、菅沼さん。嬉しい」

 

 詩織は泣きそうになった。あるいはもう泣いていたかもしれない。目の端が熱くて、鼻の奥がつんとする。三年間ずっとこの言葉が欲しかった。世界が壊れた日に聞くことになるとは思わなかったけれど。

 

「返事はまた今度でいいですか」

 

「今度って、世界にまだ今度があるんですかね」

 

「あるでしょ。たぶん」

 

 沢渡は笑った。右頬のチョコ汚れがそのままだ。

 

 フェンスの向こうで、夕陽がビルの隙間に沈みかけている。赤い光がチョコ鮫の群れを照らして、茶色い体が橙色に輝いた。地上では自衛隊の液体窒素散布車が白い煙を上げながら走っている。凍りついたチョコ鮫がコンクリートの上にぼとぼと落ちていく音が遠くから連続して聞こえた。

 

 亜矢がフェンスの隅で体育座りをしたまま、スマートフォンを操作している。よく見ると泣き笑いの顔をしていた。

 

「亜矢ちゃん、何してんの」

 

「義理チョコの二十七人にLINEしてます。ごめんなさい今年のチョコは鮫になりましたって」

 

「律儀か」

 

「三人から既読つきました。生きてます」

 

 三人で笑った。

 

 世界は壊れつつある。チョコレートは鮫になった。義理チョコも本命チョコも等しく人類の脅威になり、バレンタインデーは虐殺の日として人類の歴史に刻まれるだろう。今夜のうちに事態が収束するかどうかも分からない。液体窒素作戦が効いたとしても世界規模の被害は想像を絶する。来年から二月十四日は慰霊の日になるかもしれない。

 

 それでも。

 

 屋上の三人は生きていた。風が冷たくて、空が赤くて、遠くで何かが砕ける音がする。詩織の手のひらはまだ温かくて、チョコレートの匂いが指先に残っている。沢渡先輩がもう一粒トリュフを食べた。残り二粒になった。

 

「残り二粒は取っておくよ」

 

「いつまで?」

 

「返事のときに」

 

 詩織は笑った。笑いながら泣いた。

 

 屋上の向こうの空をホワイトチョコレートのジンベエザメが横切っていった。十メートルの巨体が夕陽の中をゆっくりと泳いでいく。あのジンベエザメだけ人を襲わないのは、ホワイトチョコのなかにカカオマスが入っていないからだという説がSNSで広まっていたが、本当のところは誰にも分からない。ただその姿は不思議と美しくて、壊れた世界の上をたゆたう白い影が夕焼けに溶けていくさまを、三人はしばらく黙って見ていた。

 

 世界がどうなるかは分からない。明日が来るかも分からない。だが残り二粒のトリュフが沢渡先輩のスーツのポケットの中に入っていて、そのチョコレートは鮫にならない。ならないと詩織は信じている。

 

 菅沼詩織の二〇二六年のバレンタインデーは、こうして暮れていった。

 

 (了)

 


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