シェルターの中には、もはや昼も夜もなかった。
あるのは、ハルヒのバイタルを示す緑色の波形と、彼女の呻き声、そして冷却システムの低い駆動音だけだ。
俺(キョン)は、手垢で汚れた日報にペンを走らせる。
202X年 某日
ハルヒの左腕から発生した硬質化組織を切除。麻酔はほぼ効かず。
カオス粒子の濃度が基準値を超えたため、長門が換気システムを最大稼働。
朝比奈さんから「地上での西宮復興イベント」の報告あり。……吐き気がした。
「……キョン君、代わるわ」
背後から声をかけてきたのは、長門有希だった。
彼女は、かつて部室の隅で本を読んでいた頃の、あの透明感のある美しさを失っていた。肌は不自然に白く、目の下には消えない隈が張り付いている。
彼女は宇宙人ではない。ただの、極めて優秀な頭脳を持つだけの少女だ。その頭脳を、今はハルヒの暴走を予測し、抑制剤の配合を計算するためだけに酷使している。
「……長門、少しは寝たのか?」
「……2時間。問題ない。……それより、ハルヒの排泄物の処理を。粒子汚染がひどい」
彼女の言葉には、もはや感情の抑揚すら残っていなかった。
俺たちは、ハルヒという「災害」を管理する歯車へと成り下がっていた。
そこに、かつての文芸部室で見せたような、淡い恋心や友情の欠片も存在しない。あるのは、この爆弾を1秒でも長く爆発させないという、義務感だけだ。
「……ふふ、お疲れ様です。二人とも」
古泉一樹が、シェルター内のモニター越しに話しかけてくる。
彼は地上で「機関」という名の政治組織を操り、この施設の莫大な予算と資材を確保する役割を担っていた。今は汚い利権と隠蔽工作にまみれた、若き独裁者のような顔をしている。
「今日、米軍からハルヒさんの『サンプル』を渡せと、また強い圧力を受けました。……もちろん、丁重にお断りしましたがね。その代わり、日本政府には数千億の『復興予算』を回すことで黙らせました」
「……金の話か、古泉」
「それ以外に、彼女を生かしておく論理的根拠(エビデンス)がどこにありますか? キョン君、僕たちは彼女という『負の資産』を、世界にとっての『共通の敵』という価値に変えて運用しているんです」
古泉の言葉は正論だった。
ハルヒを管理し続けることは、世界平和という名の利益を守るための、最もコストの高い『埋没原価(サンクコスト)』だ。俺たちがここで人生をドブに捨て続けることが、地上の何千万という人々の、偽りの日常を買い支えている。
「ひぅ……、あ、がぁぁぁぁ……ッ!!」
隔離壁の向こうで、ハルヒが絶叫した。
変異した肉体が自重で崩れ、再び再構成される際の激痛。
俺は反射的に、モニターに映るハルヒの姿を見た。かつての彼女の面影を残す右目が、狂気の色を湛えてこちらを見つめ、そして一瞬だけ、正気に戻ったように潤む。
「……キョン……、殺して……。お願い、……もう、……疲れちゃった……」
彼女は、1日に数回、そうやって俺に死を乞う。
だが、俺は彼女の望みを叶えることができない。彼女が死ねば、内包された混沌が解き放たれ、地上は再び地獄になる。
俺が彼女に捧げられる唯一の「愛」は、彼女がどれだけ望もうとも、彼女を死なせず、この地獄に繋ぎ止め続けるという**『監禁の継続』**だった。
週に一度、朝比奈さんが地上から「救援物資」を持ってやってくる。
彼女は、シェルターの入り口で必ず泣き崩れる。地上の太陽の匂いを纏った彼女は、この死臭漂う地下室ではあまりにも異質だ。彼女が持ってくる、何の罪もない高級な茶葉。それを淹れても、ハルヒはもう味を感じる舌を持っていない。
俺たちは、ハルヒを囲んで、黙ってお茶を飲む。
崩壊した日常の、あまりにも歪なパロディ。
誰も笑わない。誰も話さない。
ただ、ハルヒの肉体が軋む音と、モニターのビープ音だけが、俺たちの「絆」の証明だった。
「……ハルヒ。明日も、明後日も、俺はここにいる。……安心しろ。俺が死ぬまでは、お前を独りにはさせない」
俺は、虹色の熱線で焼け爛れた自分の腕をさすりながら、彼女に告げた。
これが、俺が選び、ハルヒが受け入れた、『因果応報』の果ての日常だった。