西暦20XX年。
西宮の地下300メートル、かつての「管理センター」は、重苦しい死の気配に包まれていた。
かつて最新鋭だった計器類は、絶え間ない虹色の電磁波に晒され続け、今や煤けて異臭を放っている。モニターの波形は弱々しく、部屋を維持するための電力は、予備のバッテリーさえも底を突きかけていた。
「……ハルヒ。……聞こえるか」
車椅子に深く沈み込んだキョンは、震える手で、ベッドに横たわる「異形」の指先に触れた。
ハルヒだったはずの身体は、今や虹色に透き通る結晶と、漆黒の装甲が混ざり合った、人間とは程遠い彫像のようになっていた。カオスヘッダーというウイルスは、依代である彼女の生命力を食いつぶし、ついにその芯まで到達しようとしていた。
「……キョン……? ……ああ、あんた……、本当に……老けたわね……」
結晶の奥から、掠れた声が響く。
それは、40年前と変わらない、生意気で、それでいてひどく孤独な、涼宮ハルヒの声だった。
キョンは自嘲気味に笑った。
「お互い様だ。……俺の『管理責任』も、どうやらここまでらしい。……さっき、長門が……いや、長門によく似た新しい『監視者』が、最後のアラートを出した。……システム全停止まで、あと5分だ」
「……そう。……やっと、……終わるのね」
ハルヒの目に、僅かな、しかし確かな「安らぎ」が宿った。
この数十年間、彼女を繋ぎ止めていたのは、キョンという「日常」への未練だけだった。キョンが自分を監視し、自分のために人生を浪費してくれる……その歪んだ愛こそが、彼女がカオスヘッダーの暴走を食い止めるための、唯一のエネルギー源だったのだ。
一人の少女を生かし、一つの災厄を封じ込めるために、SOS団という組織の全ての資源(リソース)――青春、将来、そして命そのもの――が投入され、使い果たされた。
因果関係に基づく配分ロジックで考えれば、このコストはあまりにも不条理で、非経済的だ。
だが。
「……ハルヒ。……お前を独りにはさせないと言っただろ」
キョンは、自身の心臓に繋がれた最後の延命装置のスイッチを切った。
ピー……という電子音が、静まり返った部屋に響く。
管理者の死は、そのままシステムの停止を意味する。それは、ハルヒという「災害」を世界に解き放つトリガーに他ならない。
だが、キョンには確信があった。
ハルヒはもう、世界を壊しはしない。
「……ねえ、キョン。……最後くらい、……団長命令を……聞いて、くれるかしら?」
「ああ。……何なりと」
「……私を、……抱きしめて。……あの、野球場で見上げた、……空へ……連れてって」
キョンは最後の力を振り絞り、車椅子から身を乗り出して、異形と化した少女をその腕に抱いた。
虹色の粒子がキョンの皮膚を焼き、細胞を破壊していく。だが、痛みは感じなかった。ただ、数十年ぶりに触れる彼女の魂の温度だけが、酷く懐かしかった。
ハルヒの身体から、漆黒の霧が溢れ出す。カオスヘッダーが、管理者の死を好機と見て、一気に外界へ飛び出そうとしたのだ。
しかし、キョンとハルヒの精神が重なり合った瞬間、かつて月面でキョンが纏った「コスモスの光」の残滓が、二人の魂を黄金の繭(まゆ)となって包み込んだ。
「……一緒に行こうぜ、ハルヒ」
「……ええ。……SOS団、……最後の、……遠足よ……!」
ドォォォォォン……。
地下シェルターが、内側から優しく崩壊していった。
それは爆発ではなく、全ての情報と質量が、一点に収束し、消滅していくような――完璧な「清算」だった。
虹色の光が、西宮の街の地下から地上へと、一筋の細い糸となって天へ昇っていった。
夜の街を歩く人々は、誰もその光に気づかなかった。
それが、かつてこの街を壊滅させた「悪魔」と、それを一生守り続けた「凡人」の、最後の挨拶だとは、誰も知る由もなかった。
翌朝、地下シェルターの跡地は、ただの空っぽの空洞となっていた。
そこには、虹色の粒子も、鉄の扉も、老人の骸(むくろ)も、何一つ残されていなかった。
ただ、古びた、泥だらけの**『団長』の腕章**だけが、塵となった二人の代わりに、静かにそこに置かれていた。
涼宮ハルヒの混沌。
それは、誰にも知られることなく、静寂の中に完結した。