プロローグ:擦り切れた既視感
「キョン! あんた、いつまで寝ぼけてるのよ! 早く部室に行くわよ!」
聞き慣れた怒鳴り声。
目の前で腕を組み、鼻息荒く俺を睨みつけているのは、涼宮ハルヒだ。
ポニーテールが揺れ、眩しい太陽のような瞳が俺を射抜く。それは、どこにでもいる、少しばかり……いや、かなり個性的で「痛い」女子高生の姿だった。
「……ああ、わかってるよ。今行く」
俺は机から顔を上げ、深い溜息をついた。
いつもの日常だ。
北高の、退屈な授業。長門が本を読み、朝比奈さんがお茶を淹れ、古泉が胡散臭い笑顔を浮かべる文芸部室。ハルヒが突飛な命令を下し、俺がそれに愚痴をこぼす。
何も変わっていない。
……はずなのに。
「……っ」
ハルヒが俺の腕を掴んで引っ張った瞬間、胸の奥を鋭利な針で刺されたような激痛が走った。
一瞬だけ、視界が虹色のノイズに染まり、目の前の少女の姿が、血を流し、異形へと変貌し、宇宙の塵へと消えていく残像が重なる。
『――私を、思い出さないくらい、幸せになりなさい』
耳の奥で、誰かの……いや、ハルヒの、聞いたこともないほど悲しげな声が反響する。
だが、瞬きをすれば、そこには不満げに頬を膨らませた「いつものハルヒ」がいるだけだ。
「何よ、変な顔して。私の顔に何かついてる?」
「……いや。なんでもない」
嘘だ。
俺は、この光景を知っている。
この後に何が起きるのか。ハルヒが何を願ってしまうのか。
バカバカしい。そんなのは俺の妄想だ。中二病なのはハルヒだけで十分だろ。
そう自分に言い聞かせても、背筋を伝う冷たい汗は止まらなかった。
運命の加速:暴力的な日常
季節は、暴力的なまでの速度で過ぎ去っていった。
ハルヒの「退屈」は、日を追うごとにその濃度を増している。
不思議な探索、無意味なイベント、振り回される団員たち。
かつてなら「やれやれ」で済ませていた日常のすべてが、今の俺には「崩壊へのカウントダウン」の秒針の音に聞こえていた。
長門有希は、相変わらず無言で本を読んでいる。
だが、時折彼女が俺に向ける視線に、かつてのシェルターでの「共犯者」としての沈黙が混じっているような気がしてならない。
古泉一樹は、いつにも増して饒舌に「閉鎖空間」の話をしたがる。まるで、俺の中に眠る記憶を揺さぶり起こそうとしているかのように。
そして、朝比奈さんは、俺と目が合うたびに、今にも泣き出しそうな顔をして視線を逸らす。
「……キョン君、あ、あの……。……ごめんなさい……っ」
何に対しての謝罪なのか、彼女は決して口にしない。
そして、ついにその日が来た。
夕暮れ時、学校の屋上。
ハルヒは、燃えるような夕焼けを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、キョン。……世界って、どうしてこんなに『静か』なのかしら」
心臓が、早鐘を打つ。
このセリフ。この空気。この、大気が虹色に震え始める予兆。
「もっと、誰も見たことがないような……。私だけが、私であることを証明できるような……。そういう『特別な何か』が、今すぐ空から降ってきたりしないかな」
ハルヒが、ゆっくりと空へ手を伸ばす。
その指先の先、夕闇に染まりゆく大気の中に、俺は見つけてしまった。
意思を持って蠢く、虹色の粒子。カオスヘッダー。
俺の脳裏に、凄惨な記憶が洪水のように溢れ出した。
燃える街。砕け散るコスモス。宇宙で消えた彼女。そして、地下300メートルで40年を過ごした、あの腐敗した日常。
「……よせ、ハルヒ!! その手を下ろせ!!」
俺の叫びは、強風にかき消された。
ハルヒは驚いたように俺を振り返る。その瞳には、かつて見た「混沌」の兆しが、既に宿り始めていた。
「……キョン? どうしたのよ、そんな怖い顔して」
ここが、分岐点だ。
前回の俺は、ただ傍観していた。ハルヒが光を掴むのを、止められなかった。
だが、今の俺は、あの地獄を知っている。