「よせ、ハルヒ!! その手を下ろせ!!」
俺(キョン)の叫びと共に、身体が勝手に動いていた。
脳が考えるより先に、かつてシェルターでハルヒを抱きしめ、彼女の苦悶を40年間見守り続けたあの「記憶の重み」が、俺の背中を突き飛ばした。
「……え?」
ハルヒが、呆然とした声を漏らす。
俺は彼女の細い肩を力一杯突き飛ばし、彼女の指先が触れようとしていた「それ」――虹色に脈動するカオスヘッダーの粒子へと、自らの右手を突っ込んだ。
「グ、ギャァァァァァァァァァァァッ!!!!!」
その瞬間、脳漿が沸騰し、全神経を100万ボルトの電流が駆け抜けるような激痛が俺を襲った。
かつてハルヒがシェルターで味わっていた「痛み」の、10分の1も理解していなかったことを思い知る。これは情報ウイルスなんて生ぬるいものじゃない。俺という存在を構成する全てのデータが、無理やり別の「何か」へと書き換えられていく、魂の解体作業だ。
『……孤独……、絶望……、40年間の……暗闇……』
俺の脳内に、カオスヘッダーの冷徹な声が響く。
だが、奴はすぐに驚愕したようなノイズを上げた。
こいつは、ハルヒの「中二病の妄想」を期待して侵入してきたはずだ。だが、俺の中にあったのは、妄想なんかじゃない。
冷たいコンクリートの壁、止まらないアラート音、そしてハルヒが死んでいくのをただ見守るしかなかった、**「確定した絶望の記憶」**だ。
『……なんだ、この……莫大な……負の情報量は……!? ……適合、……想定以上の……親和性……ッ!』
「……ハ、ハルヒ……逃げろ……っ!」
俺は、崩れ落ちる膝を必死に支え、背後の彼女を振り返った。
ハルヒの瞳には、恐怖と困惑が浮かんでいる。俺の右腕は、既に虹色の粒子に侵食され、ドロドロとした黒い液体のように変質し始めていた。
「キョン……? あんた、何それ……。その腕、何なのよ……!?」
「いいから行けッ!! 長門を……古泉を呼んでこい!!」
俺の声は、既に俺のものではなくなっていた。
重金属が軋むような、地を這うような怪獣の唸り。
俺の背中から、禍々しい骨のような突起が突き抜け、制服を引き裂いていく。
ハルヒを救うという意思決定。その「機会原価」は、俺という人間の人生そのものだ。
俺が怪物になれば、ハルヒは死なずに済む。だが、俺がハルヒ以上に凶暴な、地獄の記憶を持つ「カオスウルトラマン」になれば、この世界は前回以上の速度で崩壊するだろう。
ド、ドォォォォォォォンッ!!!!!
屋上の床が、俺の体内から溢れ出すエネルギーに耐えきれず、クレーターのように陥没した。
俺の視界は、どす黒い赤に染まり、ハルヒの姿が遠ざかっていく。
(……これで、いいんだな)
俺は、意識が闇に飲み込まれる寸前、そう確信した。
ハルヒにあの苦しみを味合わせるくらいなら、俺がこのウイルスを全部飲み干して、地獄の底まで持っていく。
だが、カオスヘッダーは甘くはなかった。
俺の中にある「ハルヒを守りたい」という執着を、奴は最悪の形で利用した。
『……守りたい……、支配したい……、永遠に……閉じ込めておきたい……』
「……やめろ……。そんなことは……願ってない……っ!」
『……否。……これこそが、貴様の……本能だ。……さあ、始めよう。……愛する者を……瓦礫の中に……閉じ込めるための……破壊を』
俺の身体が、膨張していく。
北高の校舎を、夕闇の街を、そして呆然と立ち尽くす少女を見下ろす、50メートルの異形へと。
涼宮ハルヒの憂鬱。
それは今、「キョンの狂気」という名の、最悪の第二章へと突入した。