何も無い。
光も、音も、重力もない、永遠の空白。
その中で、キョンの意識だけが、凍りついたまま漂っていた。
自分の手で、ハルヒを、仲間を、世界を殺したという、消えない「負債」だけを抱えて。
『……さあ、……満足か? ……貴様の望んだ「やり直し」だ。……次は、……もっとうまくやれよ。……クク……、ハハハハハ!!』
カオスヘッダーの嘲笑が遠ざかる。
キョンの魂は、再び激しい加速感に包まれた。
視界が白く、暴力的なまでに眩しく染まっていく。
「……っ!?」
気がつくと、俺は自分の机に突っ伏していた。
セミの鳴き声がうるさい。
生ぬるい風が、開け放たれた窓から入り込んでくる。
「キョン! あんた、いつまで寝ぼけてるのよ! 早く部室に行くわよ!」
聞き慣れた怒鳴り声。
目の前で腕を組み、鼻息荒く俺を睨みつけているのは、涼宮ハルヒだ。
ポニーテールが揺れ、眩しい太陽のような瞳が俺を射抜く。
だが。
俺の胸の奥には、今や一筋の亀裂どころか、底の見えない深淵が開いていた。
ハルヒの笑顔を見るたびに、彼女の身体が爆炎の中で散っていく光景が、網膜に焼き付いて離れない。
「……ああ、わかってるよ。……今、行く」
俺は立ち上がり、ポケットの中で手を握りしめた。
そこには、前回の記憶の残滓――血と塵にまみれた、あの**『団長の腕章』**が、幻影のように重なって見えた。
三度目の、地獄が始まる。
「キョン! あんた、いつまで寝ぼけてるのよ! 早く部室に行くわよ!」
セミの鳴き声。生ぬるい風。ポニーテールを揺らして怒鳴る少女。
……ああ、またこれだ。
俺(キョン)は、机に突っ伏したまま、自分の右手の震えを止めることができなかった。
記憶は鮮明だ。
一回目。カオスウルトラマンになったハルヒを見捨て、シェルターで40年かけて彼女が死ぬのを見届けた、あの絶望的な静寂。
二回目。自らカオスヘッダーを飲み込み、ハルヒを守ろうとして暴走し、その巨大な手で彼女を、仲間を、この世界を粉砕した、あの圧倒的な破壊の感触。
俺の脳内では、今もハルヒの断末魔と、シェルターのモニターが刻むビープ音が、不快な二重奏(デュエット)を奏でている。
「……キョン? ちょっと、どうしたのよ」
ハルヒが顔を覗き込んでくる。
その無垢な、何も知らない瞳。宇宙人や超能力者を求めて、キラキラと輝いている、アイタタなほどに純粋な瞳。
……数時間後、あるいは数日後。その瞳が、絶望に染まるか、光を失って濁ることを、俺だけが知っている。
(……やめてくれ。……そんな顔で、俺を見るな)
「……悪い、ハルヒ。……今日は、部室には行けない」
「……はぁ!? 何言ってんのよ! 今日は『西宮市内の未確認生物捜索作戦』の初日なのよ! 団長命令よ、強制参加に決まってるでしょ!」
ハルヒが俺の腕を掴もうと手を伸ばす。
俺は反射的に、弾かれたようにその手を振り払った。
「――触るなッ!!」
「……っ!」
教室の空気が、一瞬で凍りついた。
周囲の生徒たちが、驚愕した目で俺たちを見ている。
ハルヒは、振り払われた自分の手を見つめ、それから信じられないものを見るような目で俺を見た。
「……何よ、それ。……何なのよ、キョン」
ハルヒの声が震えている。
記憶はないはずだ。だが、彼女の「直感」が、目の前の俺が、昨日までの「やれやれと愚痴をこぼす凡人のキョン」ではないことを、鋭く察知していた。
(……そうだ。それでいい。……俺に近づくな。……SOS団なんて、作らせない)
俺は立ち上がり、ハルヒの横を通り過ぎた。
すれ違いざま、彼女の肩が小さく震えているのがわかった。
前回、俺が良かれと思って代わった結果、世界はもっとひどい終わり方をした。
なら、今度の俺にできることは、ただ一つだ。
『涼宮ハルヒを、徹底的に独りにすること』
彼女を非日常から遠ざけるのではない。彼女が非日常を願う「動機」そのものを、俺という存在を消すことで、別の形へ……「俺への憎しみ」や「拒絶」へとすり替える。
それが、二度の終末を経験し、40年を無為に過ごした俺が出した、最悪の『意志決定』だった。
廊下に出ると、そこには長門有希が立っていた。
彼女は何も言わず、ただ、その無機質な瞳で俺を見つめていた。
彼女に記憶はない。だが、その視線には、未知のバグ(記憶の残滓)に困惑するような、微かな揺らぎがあった。
「……長門。……悪いが、今回の俺は、お前の期待通りには動かないぞ」
俺は長門の横を通り過ぎ、非常階段へと向かった。
胸の奥が、チリリと焼けるように痛む。
二度のループを経て、俺の魂はもう、ボロボロに擦り切れていた。
だが、あの虹色の粒子が空から降ってくる前に、俺はハルヒとの「絆」という名の資産を、全て『減損処理』してしまわなければならない。