冬の冷たい風が吹く、二月の夜。
仕事を終え、スーパーの袋を抱えたハルヒが、都内のマンションの一室に帰宅した。
彼女の足取りは、かつての団長時代のような猛進さは鳴りを潜めているが、その瞳に宿る意志の強さと輝きは、あの頃と微塵も変わっていない。
ガチャリ、と鍵を開ける音。
「ただいまー」
ハルヒが少し疲れた声で、しかしどこか弾んだトーンで呼ぶ。
玄関の向こうには、暖かなオレンジ色の光が溢れていた。
「……おう、お帰り」
ソファから顔を出し、新聞……ではなく、畳みかけの洗濯物を置いて俺が返す。
それは、かつてシェルターで40年間、一度も口にすることができなかった、そして四度の終末の果てにようやく手に入れた、世界で最も贅沢な『ありきたりの日常』だった。
「キョン! 今日の特売、凄かったのよ! これで明日はあんたの好きなすき焼きを作ってあげるわ!」
ハルヒがコートを脱ぎ捨て、俺の隣にどかっと座り込む。
彼女の髪から、外の冷たい空気の匂いと、微かなシャンプーの香りがした。
「そいつはありがたい。……だがハルヒ、掃除当番は忘れるなよ。団長命令だろ?」
「何言ってんのよ。今の私は団長じゃなくて、この家の『最高経営責任者(CEO)』よ! あんたは私の専属雑用係なんだから、黙って従いなさい!」
そう言ってハルヒは、いたずらっぽく笑った。
俺はその笑顔を見つめながら、ふと、脳裏の片隅に眠る「灰色の記憶」に触れる。
4度の終末。コスモスの敗北。
それらは今や、この幸せな日常の価値を正しく評価するための、『過去の評価損(ネガティブ・フィードバック)』として、俺の魂の奥深くに資産計上されている。それで充分だ。
そして俺たちの人生は今、爆発的な利益を上げている。もはや測定不可能なほどに膨れ上がっている。
ハルヒが、ふと真面目な顔をして、ベランダ越しに冬の星空を見上げた。
「私、時々、凄く懐かしい夢を見るの。……あんたと一緒に、空を飛んだり、誰か青い巨人と握手をしたり……。……不思議よね。そんなの、あるわけないのに」
「……そうか。……ただの夢だろ。寝不足じゃないのか?」
「かもね! ……でも、もし本当にそんなことがあったとしても……。私は、今のこの『退屈な日々』が一番好きよ」
ハルヒは俺の肩に頭を乗せ、穏やかな顔でくつろぎはじめた。
俺は、彼女の温もりを感じながら、独り静かに、宇宙のどこかで今も戦っているであろう青い勇者に、心の中で感謝を告げた。
俺が手に入れたかったのは、宇宙を救う力でも、神のような全能感でもなかった。
ただ、冬の夜に冷えた身体を温め合い、明日の献立を語り合い、そして「おやすみ」と言って眠りにつく。
そんな、かつては当たり前だと思っていた、『最高に非日常な日常』だ。
俺は、ハルヒの額にそっと触れ、呟いた。
「……ああ。……俺もだ、ハルヒ」
二月の夜。
西宮の空は、今日も明日も、変わらずに静まり返っている。
物語は終わり、そして、俺たちの「本当の今日」が、ここから永遠に続いていく。