06 箱根、雲霧早暁 1
翌朝の、広間にて。
朝餉を済ませた黒江は、姿勢を正すと氏政に話しかけた。
「爺様。今日これからの私の予定についてご報告したいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
「ひょ? なんぢゃ、改まってからに」
傍らに控えた小太郎が注いだ茶を受け取りながら視線を向けた氏政に、黒江は躊躇いを見せつつも口を開いた。
「本日、松永久秀さんという御仁と会うことになりました」
「……なんぢゃと?」
茶を啜るのを止めた氏政が、膳の上にことりと湯呑みを置いた。
表情と気配が強張っている。その反応から、松永久秀という男の悪行ぶりが窺えるのがこれまた気が重い。
とんでもない人物と出会ってしまったんだなと思いながら、黒江は話を続けた。
「ええと、昨日ちょっとばかり色々なことがありまして。その件に関しての報告は、こたか誰かに報告を受けていると嬉しいんですが──」
ここで黒江は、氏政の隣にいる忍に視線を送る。
「(……)」
小太郎がこくんと頷いたので、話を続けた。
「──それで、悪食だかなんだか分からないんですけど、どうも興味を持たれてしまったようで、じっくり話がしたいと言われました」
「それで……会いに行く、と言うのか? あの者に?」
「はい。拒否したらとんでもないことを引き起こしそうだったので……っていうか、あの類は『何かやらかす』人種だ爺様。飴を見せとかないと、引き下がらない」
鞭どころか、こう、ドカーンと爆発させて高笑いしそうな人だったから! と握り拳を作って黒江が軽く茶化す言葉を述べれば、室内の空気がビキリと凍りついた気がした。
「……え」
黒江は固まり、言葉を止める。
(あれー。爆発って言った瞬間、爺様が青褪めちゃったんだけど。小太郎に至っては殺気すら滲ませてるんだけど!?)
どうした、と小太郎に問いかける前に、黒江は思い出した。茶器に火薬を詰めて爆死したという男の情報を。
もしや、あの男の左手の不穏な気配の正体は火薬系か。
鱗粉に視えたのは、粉塵だったのか。
小太郎が酷く警戒していたのはそのせいかと、今更ながらに黒江は己の不用心さを反省する。場の雰囲気を取り繕うように、黒江は言葉を繋げた。
「えー……っと。そういうわけで、ですね。松永さんに付き合って、箱根に行ってきます」
「ぢゃが黒江、一人で松永殿と会うのは」
「あ、そこは小太郎が同行してくれるみたいで」
「なんぢゃ、そうか……ならば、少しは安心かの?」と、氏政が小太郎を見る。
「(……)」
伝説の忍が胸の前で両腕を組み、任せろというように頷いた。氏政が安堵した表情を見せ、黒江に視線を戻す。
「本当はあまり行かせたくはないんぢゃが、お主の言う通りにしておいた方が危険も少ないのぢゃろう。……人身御供のようなことを任せるようですまんな、黒江」
「ああ、爺様が謝ることなんてないですよ。私一人なんかで小田原に何事もなく済むなら、幾らでもお供えになりますから!」
黒江はあえて道化を演じるように、そんなことを言って笑い返したのだが……氏政と小太郎は笑わず、それどころか渋い顔をし黒江を見つめてきた。
あれ? と黒江が首を傾げる。
「どうしました、爺様。こたも。あ、御供って表現が身の程知らずか。ええと、贄……そう、生贄で──ムグッ」
「(……)」
軽口は、途中で封じられた。一瞬で隣に来た小太郎が、その大きな手で黒江の口を塞いだのだ。
心なしか、手のひらに込められた力が少し強い。その気配の色も深海を思わせる暗い青で、すっと冷たく尖っている。
「ん……んむ?」
黒江は戸惑いの表情を浮かべて、小太郎を見上げる。
小太郎の眉間には、微かな皺が寄っていた。何やら怒っているようだが、黒江には心当たりがない。それを補足するように口を挟んだのは、対面に居る氏政だった。
「お主があまりにも己を蔑ろにするので、風魔が怒ったんぢゃ。……ワシも同じ気持ちぢゃぞ、黒江」
「む?」
「お主のことは、大切な家族だと思うておる。生贄、などというものではない」
「……」黒江が目を伏せ、それから小さく頷いた。落ち込んでいるように見えるが、仮面の下から覗く頬の微かに赤みが示すのは、気恥ずかしさか。──照れくさがっているのかもしれないが。
そんな黒江をみて、氏政が笑う。
「あまり己が身を軽んじてくれるな。ワシらは黒江が好きなんぢゃからな。──のう、風魔や」
「(……)」
小太郎が口元を引き上げ、項垂れる黒江の頭を撫でた。
黒江は少しばかり身を小さく丸め、頷く。それから「分かりましたからこの羞恥プレイは勘弁して下さい」と心の中で呟くのだった。
※
「そうぢゃ。箱根に行くのぢゃったら、湯に浸かってくるとええ」
話が纏まった後、氏政が黒江に何やら書状のようなものを手渡してきた。
これは? と聞けば、氏政は胸を張って答えた。
「北条の直轄湯の、入湯許可証ぢゃ。場所は風魔が知っておるから、好きなところに案内してもらうがええぞ」
つまりは温泉クーポンだ。
「……っ、爺様、大好き!」粋な計らいに、感極まった黒江は氏政に抱き着いた。
「ひょほっ。黒江はほんに大きな子供ぢゃなあ」
大胆に、けれど小柄な老人に気遣いつつ控えめな力で懐に飛び込んできた男の背を撫でて、氏政が笑う。
「気を付けて、無事に帰ってくるんぢゃぞ」
「はい。こたと一緒に、ちゃんと帰ってきます。あと、お土産も買って帰りますから!」
共に笑顔で見送り、見送られて、黒江は小太郎と共に箱根へ向かうことにした。
※ ※ ※
「お、おおぅ……」
それぞれに支度があるので一旦別れ、栄光門の前で待ちあわせることにした黒江は、音もなく現れた大柄の忍をポカンとした顔で見上げる。
影に身を沈めたような漆黒の男がそこにいた。
黒い羽根を模した衣装は、初めて見るものだった。けれど仮面越しに視える、馴染みの気配。黒の中に映える、銀朱の髪。珍しい姿を興味深く眺めていれば、相手が首を傾げて黒江の顔を覗き込んできた。
「(……)」
微かに動く唇。
どうした? とでも訊いたのだろう。黒江は苦笑交じりに答えた。
「小太郎……だよな? 風魔、小太郎さん?」
「(……)」不思議そうに首を捻りつつも小太郎が頷けば、黒江は「そうか」と呟いて。
「人違いじゃないな、よし。──じゃあ、ちょっとモフらせろ小太郎……っ!」
「(……!)」
仮面で隠していても露わになっていたのは、子供のような歓喜。
わっと飛びついてきた黒江を、戸惑いながらも両手でしっかり抱き留めた小太郎は、流石伝説の忍というべきか、それとも親鳥だというべきか。
黒江は黒江で、初めて目にする小太郎の衣装にすっかり夢中になっている。胸に飛び込んで抱き着いた状態から、チラチラ覗いている黒い翼へと手を伸ばした。
「ふわ……お、おおお。何だコレ……」
造花ならぬ、造羽? だと予想していた黒江は、手に触れた繊細な感触に驚く。羽は思ってた以上に滑らかで柔らかく、全体的に厚みがあった。
「もしかして、この素材って本物?」
最初は羽根の一枚をおずおずと触り、強度を確かめた次からは大胆に触れていく。ビロードのような手触りがこれまた絶妙で癖になる。
「ふっ、ふふ──はは……っ!」
そうして羽根を触っていた黒江が、軽く噴き出したと思ったら、かくっと項垂れた。
「(……?)」
突然に俯いた黒江を見て、小太郎が「大丈夫か?」というように背中を撫でる。
しかし黒江は直ぐには答えず、長い沈黙の後で言った。
「小太郎くん……今から見聞きするものは、忘れてください。ちょっと醜態晒します」
「(……?)」
不意に馬鹿丁寧な口調で不思議なことを言われ、小太郎は黒江の背中から手を離す。それを合図にしたかのように黒江は小太郎の背後に回り込むと、今度はそこへ飛びついて──。
「あああああーもう何だコレちくしょう! 可愛いしもっふもふだし、ああもうなんかすごい全部凄い!」
「(……)」
「カッコいいのに可愛いとかもう何だコレ悶え死ぬ!」
「(……)」
「サイコー伝説サイコーっていうか小太郎ほんとカッコ可愛い。もう惚れる。これは惚れるしかないだろチクショウあはははは!」
「(……)」
「拝啓爺様。こたが可愛いです。あああもう何だコレ駄目本っ当に可愛いー!」
「(……)」
「癒しだ。癒しがここにいた。伝説の癒し……はっ。伝説のセラピストとかなにソレ凄い!」
「(……)」
端に寄ったとはいえ、栄光門の側には黒江や小太郎以外にも人が居た。
困ったのは警備に当たっていた門番たち。
ある者は口元に手を当てて俯いていた。震える肩。必死になって笑いを堪えているのだ。
またある者は、眉をハの字に下げて微笑ましい顔をして眺めている。小田原の城主とよく似た眼差しで。……孫を見るような顔をして、伝説の忍に恐れも無く抱き着いている仮面をつけた男を見つめていた。
そんな衆目を浴びていることにも気づかずに──今は目の前の忍装束に夢中で──小太郎の背中一面を覆う漆黒の羽に顔を埋て、黒江は嬉々とした声を上げ続ける。
「ふわふわで! もふもふで! 可愛い! 爺様ありがとうとにかく伝説の忍が可愛いですありがとう!」
「(……)」
支離滅裂に近い言葉を吐いて背中にしがみつく男を前にして、小太郎はさてどうしたものかと所在無げに佇んでいる。
「駄目だコレ癖になるー。というか癒されすぎて溶けるー」
あまり自覚は無かったのだが、どうもストレスが溜まっていたらしい。
とにかくこの状態が心地よく感じてしまってしょうがない。黒江は小太郎に擦り寄り、うっとりと目を閉じている。
「あー、もう溶けたい。このモフモフに骨を埋める勢いで溶けたい、ってか蕩けそう……」
「(……)」
小太郎の背中に抱き着いて甘さの混じる吐息を零していれば、もぞりと何かが動く感じがした。
「ん……?」
トントンと二の腕を叩かれたところで黒江が目を開ければ、肩越しに見下ろしている小太郎と目が合う。
「どうした、こた──ぁああああっ!」
そこで黒江は思い出す。
小太郎がこの衣装に着替えた理由を。
本日の予定を。
……面会しなければならない厄介な相手を、待たせているかもしれないことを。
「忘れてた──松永さん!」
叫ぶなり勢いよく小太郎から離れた黒江は、次に周囲を見回して狼狽える。
「そうだ小太郎。馬、馬は? 遅刻とかしたら絶対にマズ──ッ、い!?」
黒江の言葉は、そこで唐突に途切れる。
体が浮いたと感じる間も無く羽ばたく音がして──空を飛んでいた。小太郎に横抱きにされて。
「わ、あぁ……!?」
小太郎の首にしがみつき悲鳴を上げかけた黒江は、しかしすぐに落ち着きを取り戻す。凄い速さで流れていく周囲の光景を歓喜の表情で眺め、口元を綻ばせた。
「そうか、今回はこたが私を運んで──って、早っ! いつもより早い! 人間ツイスター!? 怖いけど楽しいーあはははは!」
小太郎に抱き上げられて移動することが多い黒江はすっかり順応し、風を切る音を聞きながら子供のように笑い出す。
「うわ何だコレ時速何キロだ、あはははやっぱり忍者凄いー!」
時折小太郎には分からない言葉を口にするものの、仮面越しに見える黒瞳は嬉しげに細められていて、出立前にあった陰鬱な気配は微塵も無い。
小太郎は口元を緩め、微かな笑みを刻むが……ふと、気になることがあった。
武術の心得が無く、今も自らを「いっぱんじん」だと言い続けている黒江。己の足で出掛けられる範囲が小田原城郭内のみという、相変わらず弱い脚力をした男。その割に、各地の武将や忍の名を知っていたりするので、どこでそういう情報を得たのかと小太郎は不思議に思う。
黒江が元々いたのは、人里から遠く離れた山奥の小屋だ。ところどころ世間知らずな節も窺えるのはその辺で納得できるが、こうした情報の収集方法がどうにも不明なままで、また黒江が歌う調も、そこに混じる南蛮語らしきものも、どうして知り得ているのか分からない。
「(……)」
小太郎は、風に流れて過ぎ行く景色に目を奪われている黒江の横顔をそっと見る。
顔の上部を覆う仮面。隠されたままの素顔。
明かされる日が来るのか、それとも永遠にそのままなのか。
──このままなのだろうか、黒江の距離は。
「あ。なあ、こた。あれが関所じゃないか──んぐっ!?」
不意に小太郎が高度を落としたので、話している途中だった黒江は軽く舌を噛んでしまう。
「~~っ、こた、ろう、くん……急降下する、なら、事前予告が欲しかった、な!」
「(……!)」
顔を顰めて口元を押さえる黒江に、小太郎は慌ててその頭を撫でる仕草で謝罪の意を示すのだった。
***
小太郎のもふもふ衣装は、原作で出てきた「別衣装」のあれ。
結構可愛い。