ライブラリの発見から、三百年が経った。
もたらされた膨大な知識により、人類の文明は大いに進歩した。今では月面基地が発展し、更に火星基地建設のための事前調査も進んでいる。
地球環境もかなり安定化した。緑地面積が増加し、絶滅種の多くが自然界に戻った事で好循環が生まれつつある。まだまだ人の手による管理は必要だが、その管理量は少しずつ減っている。環境回復に伴い自然災害や気温の乱高下も減った。もう数百年もすれば管理は殆ど必要なくなり、かつての自然豊かで穏やかな地球が戻るだろう。
更にボディエクスチェンジ技術の普及により、老いで死ななくなった人類の人口は増加に転じた。肉体は常に若々しく、労働人口も失われていない。様々な法改革もあって、完璧ではないが、社会もまた衰退から繁栄に転じつつある。
人類の繁栄は予測から確定に変わり、未来は約束されたも同然だ。
――――同然なのだが、しかし文明の発展は、同時に己の限界を知る事でもある。質量保存の法則からエネルギーが無から沸かず、進化論から生物は自由に進化せず、ロケット開発から天上に神の国がない事を知るように。
「タイムマシンは不可能である、とライブラリの記録から判明しました」
この日、一人の研究者が発表した内容も、一つの夢が終わる事を世界に伝えた。
論文の書き手はユリ。日系フランス人である彼女は、若くしてライブラリ研究に携わる期待の研究者だ。今までにライブラリの発する電磁波に関する発見を幾つも成し遂げ、多くの知識を社会に提供している。
ただし今回の発表を伝えたのは、社会ではなく専業主夫の夫に対してだが。今は料理好きの夫が作った手料理の夕飯を食べている最中で、あたかも世間話のようにその話を伝えた。
夫は、ユリの発言に目をパチクリさせる。
「……そういうの、言っちゃ駄目なんじゃないの?」
「はい。政府が発表を許可したもの以外、機密情報になります。ですがこんなネタ、別に漏れても誰も困らないでしょう」
「僕、君の事は全体的に好きだけど、そういうルーズなところは直した方が良いと思うよ。一応研究チームのリーダーなんだし」
「珍しく妻から振った話題ですよ。聞いてください」
要約すれば、お話したいから話した。
そういう少し面倒臭い言い回しでも、彼女の夫は分かってくれる。優しく笑いながら、彼はそれ以上止めずに聞く意思を示すように少し身体を前のめりにした。
「で? なんだっけ、タイムマシンが無理だと分かった、という話だっけ?」
「はい。ライブラリからそう書かれた記録を、今日解読しました」
「へぇ。だけど、それは昔から言われていた事じゃないかい?」
タイムマシンは何故作れないのか。様々な説が、これまで言われてきている。
その最たる例が、タイムパラドックスだろう。過去に戻って自分の親を殺したら、現代の自分は生まれない。しかし自分が生まれなければ、親を殺す者がいないので自分が生まれる。そして自分が生まれると過去に戻って親を殺す……と、矛盾が繰り返されてしまう。この矛盾がある=解決不可能なため、タイムマシン開発は不可能だという理屈だ。
他にもエントロピーの問題(過去の方がよりエントロピーの高い状態である。故に過去に戻るにはそのエントロピーを全て戻すだけのエネルギーが必要だ)や、そもそも時間には『反』、マイナスという方向がないという説もある。これらは二十一世紀には提唱されていた考えで、今更否定されてもなんら驚きに値しない。
「そうです。ライブラリにもタイムパラドックスがある事、そもそも時間は状態変化を概念的に説明したものであって過去なんてものは存在しないものと記されていました。ですが、タイムマシンもどきなら作れるかも知れません」
「もどき?」
「時間軸と呼ばれる、別宇宙の存在です」
ライブラリには、ちょくちょく別宇宙の存在が記されている。平行宇宙やパラレルワールドなどが実在する事は、既に発見済みだ。実証には至っていないが、今までライブラリから得た知識は全てあっている。恐らく、宇宙に関する情報も例外ではあるまい。
そして今回見付かった知識は、時間軸と呼ばれる宇宙の存在を教えてくれた。
「創作で、よくあるではないですか。過去に行って未来を変えたのに、現代に戻ってもその現代は何も変わらない。ただ新しい並行世界が出来ただけ、というパターンです」
「あー……そういうの多いかもね」
「ライブラリが示す知識によれば、そういう宇宙は我々がタイムマシンなど作らずとも、元々あるらしいのです」
ライブラリ曰く、時間軸と呼ばれるものは無数に存在するという。
そもそも時間軸とは何か。ライブラリによれば、「時代だけが異なる宇宙」との事。ありとあらゆるものが変わらないのに、それが百年前や、一万年前の状態となっている。勿論一千年後や一億年後など未来の時間軸もあるらしい。
仮に、人類がこの時間軸の移動が自由に出来る技術を開発したとする。
そして三十年前の『時間軸』に移動したとする。時間軸は時代だけが異なる宇宙。ありとあらゆるものが三十年前の状態であり、あたかも三十年前にタイムスリップしたかのように見えるだろう。タイムマシン搭乗者の親も、当然存在している。過去を追体験する事は出来るのだ。
しかしこの親を殺しても、『現代』が変わる事はない。あくまでも時間軸は「特定の時代とそっくりな別宇宙」であり、その時間軸移動は別宇宙への移動でしかない。そこで親殺しをしようが人類を滅ぼそうが、単に別宇宙で暴れ回っただけ。元の宇宙である『現代』に戻ったところで、何一つ変わらない。
「厳密には過去ではないのですから、時間軸を移動する意味は全くないと言えます。そこに住んでいる人達は別宇宙の、ただのそっくりさんですしね」
「うーん。僕なんかは宇宙が複数あると言われても、いまいち現実を持てない人間だから不思議な感じがするなぁ」
「まぁ、仕方ないかと。私達は未だ、自分達の宇宙すら隅々まで知っているとは言えません。いきなりその外の話をされても、現実味などないでしょう」
私だってよく分かりませんし、とユリは話の最後に付け足しておく。
ライブラリの知識は、いずれも検証可能なものだ。すぐに出来るかは兎も角、検証のための技術は既に存在していたり、或いは開発中だったりする。恐らくライブラリは人類の技術発展も考慮して、与える知識を調整しているのだろう。
しかし時間軸や平行宇宙など、別宇宙関連だけは証明の目処すら立っていない。銀河の果てすら辿り着けない人類に、どうして宇宙の外へと飛び出す力があるというのか。
こればかりは検証出来るのは、何万年も後になるかも知れない。
「検証出来ない以上、別宇宙の存在は夢物語でしかありません。現実味もありませんし。だから漏洩しても、そんなに重要な事ではありませんよ」
「いや、その理屈はおかしくない? それに、今までライブラリにデタラメな知識はなかったんだろう? なら、別宇宙もあるんじゃないかな」
「科学の世界では、証明されて初めて意味を持つのです。勿論仮説や予言などもありますが、それらを誰もが調べるのは正しい事を証明するため。証明こそが科学の根幹です」
「そういうものなのか」
「そういうものです」
ぱくり、と話を打ち切るようにユリは料理を頬張る。自分好みに味付けされた料理は、仕事で疲れた心をじんわりと癒してくれた。
「ちなみに、他に不可能とされた技術は幾つもあります。例えば死者蘇生。生前情報の再構成と取りこぼしが一切なければ可能ですが、現実的には不可能との事です」
「へぇ、そういう理由なんだ。まぁ、いきなり魂が云々言われても、ちょっと信じ難いけど」
「それから超光速移動。質量ある物体を光速で動かす事は出来ません。相対性理論の時点で証明されていましたが、ライブラリからの情報もあって確定となりました」
「……そっか。ライブラリに書かれていたら、未知の物理法則で光速を超えられる、という可能性もなくなるのか」
「まぁ、本当にライブラリの記録が全て真実なのか、本当に全てが記されているのかは、まだ議論の余地があるでしょうが」
「その前提ひっくり返されると、今までの話はなんなのってなっちゃうよ?」
「全てを疑うのもまた、真実を見極めるには必要な事です。あとこれらの情報は全部機密ですよ。科学に不可能な領域があると断言した場合、科学を志す者が減るのではないかという悪影響が懸念されていますから」
「その前提だけは無視しないでほしいなぁ」
呆れたように、夫は非難する。尤も、ユリがこういう人間なのを知った上で彼は彼女と結婚した。今更、これで喧嘩にもならない。
他愛ない話で盛り上がりながら、ユリはふと思う。
――――人間は、ライブラリから得られた情報を選んで世間に公表している。
当たり前の話だ。もしもライブラリに「家庭で地球破壊爆弾を作る方法」なんて知識があって、それを考えなしに広めれば、何処かの自殺志願者やテロリストが作るかも知れない。ボディエクスチェンジ技術も世界各国の政府と連携し、社会体制を整えてから公表された。
知識というのは力だ。だからこそ、無闇矢鱈に広めるのは好ましくない。適切に、安全に管理すべきだ……というとなんだか独裁者的な発想だが。しかしライブラリからもたらされる知識はあまりに無節操で、扱いには注意が必要なのも事実。
そう考えると、一つの疑問が湧く。
ライブラリの『役割』は、なんなのか?
「……一つ、素人の意見を聞いてみたいのですが」
「うん? 構わないけど、また機密情報は漏らさないでよ?」
「今回は単なる考察ですから平気です。聞きたいのは、ライブラリの役割はなんだと思うか、という事です」
「ライブラリの役割?」
何故、ライブラリは地球にやってきたのか。
ライブラリの『正体』と共に、よく議論される疑問だ。様々な仮説が提唱されているが、どれも尤もらしく、だが問題も多い。
最有力なのは、人類文明を発展させるため。様々な知識を与える事で、効率的に人類を進歩させようとしているのではないか。
この説の根拠は、ライブラリから得られる知識が少しずつ高度化しており、基礎から順当に伝えられている事。より細かな周波数帯ほど高度な知識があり、それを観測するための技術は新しく解明した知識で入手出来ている……まるで小学校の子供に対して丁寧に教育するかの如く、或いはRPGで強いボスを倒すための技をレベルアップで覚えるかのように、きちんと道筋が整えられている。
ライブラリが単なる情報媒体であれば、こんな『並び方』にはならない。人間が使う情報媒体、例えば辞書であれば検索しやすさを考慮して名前順になっているものであり、その知識の複雑さや高度さは考慮されないからだ。
実際、人類文明がここまで急速に進歩したのは、ライブラリのもたらす知識が教科書のように徐々に高度化しているからである。いきなり訳の分からない理論を提供されても、混乱するだけで文明は一歩も進まなかっただろう。
……しかし、ライブラリの情報は全てが進歩に結び付く訳ではない。
時間軸や平行宇宙など別宇宙の話は、あまりに高度なため今の人類には関係ない知識の筈だ。光速以上の速さが実現出来ない事も、相対性理論から当の昔に分かっている。覆せない未来の個人情報など一体なんの役に立つというのか。そういった情報をわざわざ言ってくるのは、文明の進歩にとって無駄ではないだろうか。
他の説としては、人類文明の発展をコントロールしたいのではないか、というもの。知識を与えているように見せて、実際には文明の方向性を操作。思い通りに操る……というもの。
一見あり得そうな仮説である。光速以上の速さが存在しない、タイムマシンがあり得ないとするのも、人類にそれらの開発を諦めさせるためではないか。未来の個人情報さえ予測出来るライブラリの作り手ならば、人類がどの知識を与えればどう動くかも簡単に予想出来るだろう。
出来るだろうが……それは、ちょっとやり方が遠回り過ぎる。未来を予知出来るほどのコンピューターを作れる技術力なら、宇宙戦艦の一隻二隻ぐらい作れる筈だ。その圧倒的武力で人間を支配して、あーしろこーしろと命令する方が、制御するだけなら楽だし早いだろう。支配に伴う人間の反感や反乱なんてものは、未来を予知すればすぐに分かるのだからどうとでも対処可能な筈だ。それどころか優れたテクノロジーで娯楽や快楽を与えて、簡単にコントロールしてみせるだろう。
他には実験説や暇潰し説などもある。ライブラリを作れるような超文明、或いは超常的存在なら、星一つを使った実験も遊びも可能かも知れない。だがどの仮説も今のところ確たる証拠はない。
ユリにもこれと言った考えはなく、果たして一般人代表の夫はどんな答えを出すのか、少し気になった。
「うーん……神様の落とし物、とか?」
一般人でも、こういう発想は中々ないかも知れないが。
「……神の落とし物、ですか?」
「うん。ほら、メモ帳とかそういうのに色々書いていたけど、うっかり落としちゃったとか。神様じゃなくて宇宙人でも、異世界人でもいいけど」
つまり意図したものではなく、事故によってライブラリは地球に来たのではないか、というもの。
その可能性は、あるかも知れない。
『落とし物』と呼ぶにはあまりにも上等だが、しかし相手にとってそうとは限らない。現代人が通信端末を落としたら「あちゃー。通信会社に連絡しなきゃ」で終わりだが、石器時代の人類がそれを拾えば神の奇跡だなんだと囃し立てるだろう。神や上位存在からすれば、ライブラリなどその程度のものかも知れない。
それならライブラリの存在に、理路整然とした理屈が付かないのも当然だろう。人類に渡すつもりのない、単なる落とし物に『目的』なんてありはしない。
しかし、もし本当にそうなら――――
「その仮説を証明するのは、きっと不可能ね」
「確かなもの」を探し出す科学にとって、『偶然』ほど恐ろしいものはない。
研究者だからこそ考えたくない、だけど否定しきれない仮説に、ユリは身震いするのだった。