蝉の声が街を包む7月、俺——篠島宏樹は、自室の机で頭を抱えていた。
「くっ……」
時間とともに大きくなっていく焦燥感が俺を机に縛り付ける。
どうすればいい、なにをすればいい。
思考がぐるぐると巡り——破裂する。
「なんでこんなに範囲広いんだよ! この前試験やったばかりじゃねぇか!」
気付けば俺は叫んでいた。
街中の蝉が一瞬静かになったかと錯覚するほどの声で。
くしゃり、と俺をここまで追い込んだ元凶である期末試験の範囲を知らせる紙を握りつぶす。
——もう、諦めてしまおうか。
準備ができていないのだから仕方ない。
ふと、そんな悪魔のささやきが頭をよぎる。
だが、それは許されない。そんな甘い誘いは聞き入れない。
準備不足とはいえ、期末試験を捨て去るなんてしてはならない。
それに、範囲がどれだけ広かろうと、アイツは満点近くをもぎ取ってくるはず。
挑む側の俺がそんな心持ちじゃ、いつまでたってもアイツに——祐奈に勝てない。
東川祐奈。
俺の幼馴染で、中間テストでは1位を取った女だ。
散々な結果に終わった俺とは格が違う。
祐奈は小さい時から俺の一歩先を歩いていた。
それは勉強だけでなく、ゲームなど俺の得意な分野でも同じだ。
どの分野でも、全てお見通しかのように圧倒してくる。
何度挑んでも敵わない、そういう相手だ。
でも、そんな過去は関係ない。
俺はいつか彼女に勝ってみせる。
勝って、いつもしてくるドヤ顔をし返してやるのだ。
——トンッ、トンッ、トンッ。
強大すぎるライバルのことを考えていると、不意に階段を上がる音が聞こえた。
……おかしい。
両親ともこの時間は仕事中だし、妹は部活の練習で遅くなる。
この家には誰もいないはずだ。
祐奈はよく遊びに来るが、合鍵は持っていないはず。
……まさかな。
ガチャ……
ドアノブに手がかかる。
もしもの時を考え、シャーペンを手に取って警戒していると、ついに扉が開かれる。
その侵入者は——女子用の制服姿を着ていた。
……ん?
「祐奈様の、おなーりー!」
侵入者が女子高生というおかしな状況に混乱する俺をよそに、彼女は高らかに名乗る。
聞きなじみのある谷の湧き水のように澄んだ声は、もはや安心感すら感じさせる。
美しい艶やかな黒髪のショートボブ。
溢れんばかり自信が伝わる瞳。
そして、女優顔負けの整った顔と無邪気な笑み。
間違えようもない。
彼女こそが俺のライバルで、幼馴染。
東川祐奈だ。
しかし、「祐奈様の、おなーりー!」か。
大奥に来た将軍様のつもりなのかもしれない。
たまに祐奈はこういうことをする。
それも俺の前でだけ。
特別感があって、ちょっと嬉しくもある。
「ちょっとちょっと、せっかく将軍様が来たんだから、ちゃんと平伏して挨拶しないと」
……なんか面倒なこと言いだした。
ってか、やっぱり将軍様かよ。
「なんで勝手に人の部屋入ってきた奴に平伏しなきゃいけないんだよ」
「でも将軍様だよ?」
「幕府の時代は終わったし、そもそも祐奈は将軍様じゃないだろ」
「ま、それもそっか」
少しでもやりたいことをやれて満足したのか、将軍様ごり押しモードを解除して祐奈が部屋に入ってくる。
……誰も入っていいなんて言ってないのだが……仕方ない、許してあげよう。
「それで、今日は何の用?」
「何の用って、ただ来ただけだけど」
「あのな、いくら幼馴染とはいえ人の家だぞ。用もないのに上がり込んでいいわけないだろ」
「それがそうでもないんだよねー」
祐奈のスカートのポケットから取り出されたのは一本の鍵。
何か見たことある形だな。
この家の鍵と似ているような……
いや、同じか?
ということは……
「ふっふっふ、この鍵が目に入らぬかーってね」
鍵を高々と掲げて見せつける祐奈。
さっきの将軍様ごり押しモードの理由はこれか。
「ついに鍵を貰ったよ! これでいつでも来放題だね」
「……誰に貰ったんだよ」
「真由美さんから。今日遅くなるし、期末試験も近いみたいだからちゃんと勉強しているかみてあげてって」
真由美というのは、俺の母親の名前だ。
なんてことをしてくれたんだ、あの母は。
どうして合鍵を渡してしまったのか。
合鍵がなかったこれまでもたくさん来ていたのだ、これはもう俺の部屋が祐奈に占拠される日も近いかもしれん。
この勉強をみる、という行為はその序章かもな。
安寧の地を奪われるわけにはいかない。
……よし、ここは帰ってもらおう。
「いやいや、でも俺1人で何とかなるって! 信頼してないのか?」
「信頼も何もないよ。ひろくん、このままじゃみんなに置いて行かれちゃうよ?」
何も言い返せない。だって、祐奈のその言葉は正しいのだから。
俺たちは県内有数の進学校、月ケ丘高校に通っている。
だが、本来この高校は俺が入れるレベルではない。
中学時代、祐奈が手作りの模擬入試問題をくれたことがある。
そこに載っていた問題と似た問題が大量に出たおかげで、俺は今ここにいるのだ。
あの時は頭が良いとここまで予測できるのかと驚いたものだ。
……ただ、置いて行かれる、か。
それは祐奈も例外じゃないのかもしれんな。
それは、それだけは……嫌だな。
「……頑張ってみるよ」
「その言葉、待っていました」
急に元気になった祐奈の声に少しびっくりして再び祐奈の方を見ると、先ほどまでの真剣さはどこへやら。
それはもうニコニコと笑っていた。
この太陽のような笑みにやられる男子は少なくない。
昔から笑顔1つで何人の男子の初恋を奪ったのだろうか。
だが、俺は耐える。
当たり前だ。俺たちは幼馴染。笑顔なんて何度も見てきたのだ。
今更そこでやられることはない。
なんてことを思っていると、祐奈が俺に近づき、手を握ってくる。
(ちっか!)
女の子特有の柔らかなにおいが鼻先をくすぐる。
だが、俺は動じないぞ。
高威力の笑顔を近距離で受けたからと言って、俺は幼馴染。
そう簡単にやられはしない。
……やられないったら、やられないのだ。
「ひろくんを合格に導いたこの私が! 期末試験対策をしてあげましょう! だから、一緒に頑張ろうね!」
祐奈が大声で宣言する。
(いや、なんでだよ)
確かに俺は頑張るといったが、それは俺自身で頑張るということ。
なのに、いつの間にか祐奈と頑張るというようにすり替えられている。
そもそも、なんで負けたくない相手から教わらなければならないのか。
受験という緊急時ならまだしも、今回は1年生1学期の期末試験。
そこまでして好成績を取りたいというわけではない。
ここは、適当に話をそらすのが吉か。
「あと、一応だけど……それ無駄だよ?」
「……何が?」
「今、話をそらそうとしてるでしょ? そんなことしても——私との期末試験対策はなくならないから、絶対に」
全てを見透かしたような目で俺を見てくる。
冗談を言っている様子ではない。
なぜバレてる? まだ何も言っていないのに。
心を読めるエスパーかよ。
だが、もし祐奈が、「私、実はエスパーなんだ」と言っても驚かない自信がある。
だって、彼女は——
「さぁ、未来からやってきたタイムリーパー。祐奈ちゃんにお任せあれ!」
——自称・未来人の幼馴染だからだ。