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―――それは、もはや別人だった。
『若村麓郎』は香取隊の
だが、広く知れ渡っていると言っても、残念ながらそれは決して良い意味などではなく、どちらかと言えば悪評に近いものだった。
彼は元A級4位であり現在B級1位の二宮隊の
不動のB級1位メンバーに師事を受けているのに、2年もの間、中位に甘んじている半端者―――それが、ボーダーの訓練生達における彼への評価だった。
正隊員にもなれていない奴等が何を、という文句には大した意味はない。なんせ実際その通りであり、『若村麓郎』本人にもその自覚が確かにあったのだから。
特徴が無く、突出した点も無く。ただひたすらに凡才という事実だけが、そこにはあった。
だが―――
「―――影浦先輩、今、大丈夫ですか?」
事故に巻き込まれ、生死の境を彷徨い、奇跡的に意識を取り戻してから半年の時間が経過した。
狂気、或いは執念にすら似たリハビリの成果が出たのか、それとも驚異的な精神力からの細胞の活性化なのか、『若村麓郎』は凄まじい早さで退院した。
大きな運動こそまだ出来ないが、日常生活に支障を来す様な障害はとくに残らず、今では学校とボーダーを両立させている程だ。
そんな彼は現在、ボーダー本部室内の大きな広場―――個人戦ブースにて、一人の男へ声を掛けていた。
ボサボサの黒い髪、鋭い目付き。全身を覆い隠す黒い隊服と砂色のズボンにコンバットブーツという、まさしく『隊員』と言う様な攻撃的な格好をした男だ。
「あぁ? てめぇは……」
「若村です。香取隊の
「…あぁ、最近退院したやつか。病み上がりだろ、もう復帰したのかよ」
「
「…そうかよ。で、何の用だ」
「―――俺と個人戦をしていただけませんか。スコーピオンだけで」
「はぁ?」
鋭い目付きと顔は呆気に取られた様に。影浦は、何を言ってんだコイツと言わんばかりの顔付きで、彼を睨んだ。
影浦には、『サイドエフェクト』と呼ばれる特殊能力がある。これは影浦に限ったものではなく、高いトリオン能力を持っている人間に稀に発現する、人間の能力の延長線にあるものを『サイドエフェクト』と呼称する。
彼が持つサイドエフェクト―――以降はSEと省略する―――は『感情受信体質』。自分とその周囲に対して向けられる感情が、影浦の肌に対して刺さる様な感覚で知覚する事が出来るというものだ。
乱戦や個人戦においても、このSEは有意に働く。敵の意思を肌で感じ取ることが出来るということは、ある程度の思考を把握する事が出来るということに繋がるのだ。
だが、日常生活ではそうもいかない。恐怖や嫌悪、憎悪に殺意といった、そんな余計な感情すらも彼には感じ取れてしまう。だからこそ、彼はここまで攻撃的な人格を形成してしまった。
……まぁ、
影浦が驚いたのは、無理もない。
『若村麓郎』は先程自分でこう断言した―――『自分は
さらには、『戦意』と『執念』という感情が深く突き刺さっていた。
「……お前、
一応、同じB級上位のチームだ。影浦隊と香取隊はランク戦で交戦経験がある。だからこそ、影浦にとって驚きなのは、もはや変貌と言って差し支えのない程の―――『若村麓郎』の変わり様だった。
戦闘中でも、香取隊は感情がよく刺さっていた。中でも隊長である香取と、その援護である若村は特にだ。
だが―――今の彼には、その時の様な感情は一切感じなかった。不安や自信の無さは欠片もなく、ただひたすらに戦意と向上心と貪欲さだけが、深々とあった。
「死にかけて、色々と気付く事があったというだけです。今は兎に角、強くなりたいという一心なだけですよ、俺は」
「はっ、そうかよ。……イイぜ、やってやる」
「―――ありがとうございます」
気味が悪い。だが、その戦意は本物だ。そこは悪くない。
(そういや、コイツ、
特に隠す様な事でもないが、影浦は犬飼澄晴という人間を心底毛嫌いしている。それはさして大きな理由があるという訳でも、喧嘩をしているという訳でもなく、影浦の一方的な嫌悪だ。
そのSE故に、影浦は言葉の裏腹にある感情が読み取れる。犬飼澄晴という人間は、言葉と感情が一致しないから気持ち悪いというのが、影浦の言である。
とは言え、同じB級上位チーム。ランク戦では必ず当たるチームだ。特段、遠征入りを目指している訳でもなければ、再びA級を目指しているという訳でもないが、嫌いな奴と戦って消せるのならば損はない。
『5本でやるぞ』
「勿論です」
【影浦: 】
【若村: 】
《個人ランク戦―――開始》
「遊ぼうぜ、メガネッ!」
「―――」
先手は取られたが、予想通り。
影浦雅人の最たる特徴は、その荒々しい攻撃性。狩りをする獣の如くしつこく噛みつき、その首をへし折るまで離さない獰猛さだ。
距離を置く、様子を見る、なんて器用な事はしないし、そもそも出来ない。彼はそういう性質なのだ。
「……獲る」
―――その動きは、あまりにも本来の彼から逸脱してしまっていた。
黒い獣の手から突き出た三日月の刃に対し、『若村麓郎』は中心に穴を開けたブレードを象り、真正面から肉薄する。
振る。突く。薙ぐ。その単純な一挙手一投足が、尽く読まれ、読まれ、読まれ、空を振って成果なく消え失せる。
だが、そうまでして尚、
「っ?」
両者には、傷が無かった。
戦闘の最中、影浦はふとして違和感を覚える。
手足に自在に刃を生やし、打撃と斬撃が組み合わさった攻防には、彼とて手応えを感じざるを得なかった。つい最近まで身体の一切を動かさなかった人間の動きとは、まるで別物だ。
その動きは、まさしく『効率的』。その狙いは常に喉、目、足首、股関節といった、人間にとっての急所となる部分に集中されている。
「―――」
「チィっ! ウゼェ攻撃ばっかしやがるな、テメェッ!」
冷めたコンクリートを穿つ様に蹴り、高く跳ねれば―――右腕が、乱れ始める。
スコーピオンには、『マンティス』という荒業がある。二つのスコーピオンを繋げる事で、その間合いを伸ばすことが出来るというものだ。
これは刀型のトリガーである『弧月』にある様なオプショントリガーである『旋空』や『幻踊』とは異なり、オプショントリガーとして設定されているものではない。
『マンティス』はあくまでもの技術によってなせるもの。というよりは、そもそもスコーピオンにはオプショントリガーと呼べるものが存在しない。
スコーピオンを繋げて鞭の様にしならせるマンティス、スコーピオンを足から地面や壁を貫通させるモールクローと言った様に、スコーピオンの技は全てが使用者の技術によって成される。
その中でも、マンティスは特に扱いが困難なものであり、それ故に対処も難しい。
うねる鞭がもたらすは斬撃。屋根を、壁を、地面を、そして人をズタズタに切り刻む嵐の様なそれは―――
「…実際に見れて良かった」
呆気なく、若村麓郎の身体を切り刻んでしまった。
【影浦・1:〇 】
【若村・0:× 】
《二戦目、開始》
「…こればっかりは感覚か」
「あ?」
「こっちの話です。…ここからは、実験も兼ねて相手してもらいます」
「俺を実験台扱いか? 良い度胸してるぜ、オマエッ!」
再び、疾走。
一見すれば、その様子には何の変化はない。ただひたすらに荒い攻撃に対抗する様に、徹底して効率を突き詰めた攻防一体の身のこなし。
ガヤにしてみれば、これだけで十分に騒ぐ理由だった。何の成果も出さなかった人間が、つい最近までほぼ寝たきりだった人間が、近接戦に出た途端、自分よりも遥かに格上の相手に食らいついているのだから。
だが―――影浦にとっては、驚くべき変化はそこにはなかった。
「テメェ…!」
「―――」
感情が突き刺さらない。目の前に居る相手の瞳には、影浦雅人という人間が一人写っているだけで、それ以上のモノなど欠片とて存在していなかった。
『若村麓郎』は、確かに身体はろくに動かせなかった。だが、だからと言って、ただ黙ったまま寝たきりになっていたなんて愚行に走ってはいない。
例え大した運動が出来ないとしても、自分に出来る事など幾つもあった。戦術の学習、対人戦の要点整理、格闘術や武術の鑑賞など、『観る』というその一点だけは、身体が動かせなくとも出来る事だった。
だから、やった。とことん、やり切った。
寝る間も惜しみ、リハビリの合間すら費やして、ただひたすらに、もはや我武者羅と言っても過言ではない程に、戦闘の知識という知識を頭に叩き込んだ。
物事を俯瞰して観る視点。生き抜く上で、敵との戦闘において不要な感情の排除。動かずとも実践する事が出来る全ては一通りやり尽くし、そして身に付けた結果がこれだ。
敵は敵。人であれなんであれ、敵というそれ以上の存在にはなり得ない―――そういう認識の区別が、彼には出来る様になっていた。
「―――」
まるで機械であるかの様な、極限にまで無駄と余裕を削ぎ落とした攻撃が爆発する。つい先程までは躱せていた動きも、感情に区分を入れ込み、抑え込み、目の前の存在を『敵』という一個体としてか認識していない今となっては、躱し切るのも困難になりつつある。
殺意が無いにも関わらず、的確且つ執拗に急所を狙ってくる。影浦は不快だと顔を歪ませ、
「またバラバラにしてやるよッ」
再び、右腕を荒々しく暴れさせた。
しなり、うねり、狂い、乱れ。もはや目視では捉えられようもないソレに対し、『若村麓郎』は再び静観を極めた。
―――緩やかに、遅れていく。
思考が澄んでいく。雑念が消えていく。それと共に、頭の中で何かがぷつりと途切れていった。
臨死の体験は、人の身に過剰な負荷を与えるものである。それが数秒、或いは数分という、長い人生に比べれば極わずかに収まる時間であろうとも、生命活動の停止とは、僅かな時間に起こればそれ以上も以下もない終局だ。
それ故に、臨死の体験は人の脳を活性化させる。今際の際に立った人間の脳は、それまでの人生の全てを振り返り、自らが生き残る方法を模索する。
その瞬間、人間の体感時間は限界にまで引き伸ばされ、目に映るもの全てがスローモーションに視えるという。
『若村麓郎』は一度死んだ。一度死んで、見ず知らずの誰かの魂が入り込んで蘇った。だが、脳は既に
言わば、今こうして生きている状態は一種のバグだ。そして、『若村麓郎』の肉体はそれ故に一部の機能が壊れ掛けてしまっていた。
火事場の馬鹿力、或いは走馬灯によって発生する時間感覚の低下。それが発生しやすくなってしまっている―――そう、医者から告げられた。
制限時間は数秒に収まる。この状態は決して長続きはしないが、ことこの個人戦においては、その数秒さえあれば隙が突ける。
一歩踏み出し、躱す。
二歩逸らして、躱す。
三歩駆け出し、躱す。
四歩後退って、躱す。
五歩突き進んで―――
「1点目」
さく、と。
呆気ない様に、刃を喉に突き刺した。
◆
【影浦・1:〇× 】
【若村・1:×〇 】
《三本目、開始》
【影浦・2:〇×〇 】
【若村・1:×〇× 】
《四本目、開始》
【影浦・2:〇×〇× 】
【若村・2:×〇×〇 】
《五本目、開始》
【影浦・3:〇×〇×〇】
【若村・2:×〇×〇×】
《六本目、開始》
【影浦・4:〇×〇×〇〇】
【若村・2:×〇×〇××】
《七本目、開始》
―――正直な話、この展開は想定外だった。
侮っていたつもりはない。二戦目辺りから、コイツは面白い奴だという確信が影浦にはあった。
ここまで強い近接戦闘能力を持っていながら、何故
だが―――まさか、こうも長引くとは思っていなかった。
(強ぇ……つーよりは、上手ぇ。攻撃が当たりにくい位置取り、攻撃を躱し易い体勢の維持、自分の隙で相手の隙を作って突く度胸、全部揃えてやがる。本当に
「あぁ?」
と、即座に動きを止めた。
―――それは、これまで見てきたどのスコーピオンよりも、あまりにも異質な形をしていた。
湾曲した刃と長い柄―――鎌だ。
「これで間合いは越しましたね」
「ハッ、ソレで勝ったと思ってんのか? 嘗めるのも大概にしろよ、メガネ」
右腕を振り翳す。その動作が始まった瞬間―――『若村麓郎』は、一歩踏み込んで構えを取って、
「影浦先輩は、『ミスディレクション』という言葉をご存知ですか?」
策を完成させた。
「あ?」
「相手の視線や意識を別のものに逸らす、マジックの常套手段です。―――今が、まさにそれです」
どす、と。
モールクロー―――地面や壁を伝ってスコーピオンを突き出すそれは、まさしく不意打ちにしか使う事の出来ない技である。
足から地面へと突き出したスコーピオンは、その地面が罅割れる音と様子によって感知される。
特に影浦は、そのSEがあるのだ。モールクローに引っ掛かる事は本来ならゼロに等しいだろう―――が、今回ばかりはそうもいかなかった。
感情が籠らない攻撃で注意は削がれた。大した凄技もない事に警戒がズレた。初めて見る長物のスコーピオンと会話に意識が持っていかれた。
全てが積み重なって、ようやく出来上がった状況に影浦は気付かなかった。その結果が、これだ。
「―――やるじゃねぇか」けどな、と。
言葉は続いて、
「分かりやす過ぎるぜ、オマエ。感情が刺さらなくてもな」
―――斬撃が伸びて、首がもげた。
【影浦・5:〇×〇×〇〇〇】
【若村・2:×〇×〇×××】
「……なんで」
ベイルアウトして戻ってきた現実の体は、錨に押し潰されているかの様に重かった。だが若村にとっては、そんな事は些細な事であった。
何故負けた。あの作戦は完全に決まっていた筈だ。自分のモールクローの方が先手を取って、確実にトリオン供給機関を穿いた筈なのに―――負けたのは、他ならぬ自分だった。
何が足りなかった? 何がダメだった? いつ油断した? 疑問に頭が埋め尽くされながら、若村は顔を歪めたままに体を起こし、ブースから退出する。
「中々やるじゃねぇか。面白かったぜ、若村」
「影浦先輩……」
影浦は、愉快だと凶暴な笑みを浮かべていた。
想定外の展開と予想外の作戦。退院して間もない人間の動きとは思えない身体動作と観察力。失敗を踏まえた上で決断する胆力と咄嗟の時間稼ぎ。どれを取っても、
フル装備ならいざ知らず、スコーピオン一つで影浦相手にここまでやれる相手は、
SEとしては最上位に位置する超感覚に区別される『未来視』を持ち、尚且つスコーピオン開発の提案者その人である実力派エリートであるS級ボーダー隊員、迅悠一。或いは『強化睡眠記憶』を持つ村上鋼くらいのものだろう。
まだスコーピオンを使い始めて間もないというのに、ここまでやり合える―――それはつまり、まだまだ伸び代があるという事だ。
「……何故、分かったんですか?」
「言ったろ、分かりやすいってよ。それまでブレードで
影浦は決して思考派ではない。彼はその真逆の感覚派に位置する類の者だが、それは決して戦闘に対する視点が軟という事には繋がらない。
かつてはA級部隊を率いていた上位
ついこの間まで病院通いだった男と、個人戦とチーム戦を幾度も経験している男。その実力差は歴然であり、こと個人戦においては技術と経験が物を言うのだから、この結果は当然としか言い様が無かった。
「…それで、スコーピオンを巻いて、わざと突き出た風に見せ掛けたんですか。咄嗟に」
「咄嗟にそれができるのが、スコーピオンの強みだろ。けどな、強かったぜ。これで
「……ありがとうございます」
「ちょっと、ちょっとー」
あっけらかんとした声が、ブースに響いた。
チッ、と影浦は分かり易く顔を歪め、不快を隠しもしなかった。
「面倒なのが来やがった。じゃあな、若村。またやろうぜ」
「それは、勿論。こちらこそ、またお願いします」
「おう。あぁ、暇がありゃ来い。スコーピオンの使い方、教えてやる」
「…! ありがとうございます、影浦先輩」
「先行投資ってやつだ。お前は面白ぇからな」
あばよと手を振って、影浦は歩いてくる人間を睨みながらブースを後にした。嬉しい土産を残して。
天運が巡ってきた。ボーダーでもトップクラスのスコーピオン使いから指導を受けられるというのは、『若村麓郎』にとっては願ってもない誤算だ。
香取隊の弱点を埋めるという名目の上で、『若村麓郎』は強さを手にする為に動き出している。完璧を超えた究極を目指すのだ、一つの技能で全てを埋めるだけでは足りない。
死なない為、命を無駄にしない為という目的は、人間が何かを目指す上で最もポテンシャルを発揮する理由と言えるだろう。尤も、それは生き急ぐ事であるというのも、その通りであるが。
まぁ、閑話休題。
「やっほー、ろっくん」
「犬飼先輩、お久しぶりです」
黒いスーツに身を包んだ、何処か気の抜けなさを感じさせる青年―――もとい、『若村麓郎』の師匠である犬飼澄晴は、馴れ馴れしく肩を組んできた。
「退院おめでとう。復帰早々にランク戦?」
「まぁ、はい。ついさっきまで、影浦先輩にスコーピオンのみで戦ってもらってました」
「へぇ? なになに、もしかして弟子入り?」
「違いますよ。俺の師匠は犬飼先輩ですし、ポジションを変えるつもりもありません。ただ、今の香取隊に足りない要素を考え直すと、俺は手を出さなければならない事が多かったという話です」
「ふーん……なんかアレだね、結構変わったね」
事故に遭ったという話は耳に入っていた。自分の弟子なのだし当然心配はしていたが、実際にこうして目にしてみると―――犬飼にとって、今の『若村麓郎』は異様に映るばかりだった。
緊張が欠片も無く、感情の抑揚が感じられない。もはや落ち着いているというよりは、何処か冷たさを感じさせる。
本当に自分の弟子かと疑いたくなってしまう程だ。
「そうですね……まぁ―――死にかけましたから。