誰が何と言おうとミステリーなので、粗があっても怒んないでください
まずい、やってしまった。
最初に思ったことは、何としても隠し通さなければならないということだった。
濡れた部分は、思っていたよりも広がっていた。
手のひらで触れると、布地の奥にほのかな温かさとともに液体が冷えていく感覚がした。慌てて指を離したが、その感触だけで喉の奥が詰まった。
私は手早く濡れてしまったシーツをまとめる。
シーツの下に敷いてあった敷き布団を見るに、まだ汚れは染み込んではいないようだ。
ひとまず一安心はしたが、まだ気は抜けない。
今抱え込んでいるシーツをどうにかするのが当面の課題だ。
私はその部屋にいた痕跡を無くすべく、行動を始める。
着ていた服の袖を伸ばして、触った箇所を拭う。
ドアノブから引き出しの取っ手。置いてあったスマホに至るまで満足がいくまで拭く。
そうして目立った汚れを落とした後は、床に取り掛かった。
私は服が汚れないように上着を脱いだ後、床に這いつくばって落ちた髪を探した。
数本私と同じ髪色をした抜け毛があったので、拾ってポケットに入れる。
これで私がいたと特定はされないはずだ。
だが、まだ足りない。
布団は、起きた後にそのままめくった形になったように整える。シーツは無いが、これで多少は誤魔化せる筈だ。
そしてカーテンはほんの少しだけ開けて、部屋の中が仄かに明るくなるようにした。
そう、あえてだ。
痕跡を無くすために綺麗にしてしまったりしたら、逆に違和感を感じてしまうかもしれない。
私はそんなボロを出すほど愚かではない。
軽く部屋を眺めて結果に満足した私は、髪と服を整えた後に目深に帽子を被った。
何としてもバレてはいけない。
そう、特に"あの人"には。
そう決意し、シーツを丸めて上着で覆い隠して持った後に、物音を立てないように部屋を出た。
さりげなく周りを観察し、誰もいないことを確認した私は足早にその場を離れた。
私がそこにいたという証拠を作るわけにもいかないし、逆に私がそこにいなかったというアリバイを作る必要もある。
この後、どのようにして場を取り繕うか──と考えていた瞬間、後ろから声をかけられる。
「あら、ナノカちゃん。おはよう」
宝生マーゴだ。
この子は嘘を吐き慣れているというのもあってか、中々鋭いところがある。ここでボロを出したらすぐにバレてしまうかもしれない。
「んっんん"──おはよう、宝生マーゴ」
私は小さく咳払いし、挨拶を返す。
そうしてさり気なくその場を立ち去ろうとしたが、マーゴは言葉を続けた。
「こんな所に一人で歩いてるなんて珍しいわね」
いつもの様に艶やかかつ優雅な所作で頬に手を当てながら、こちらに疑問を投げかける。
動作はいつも通りではあったが、よりにもよってやましいことがある私にはその所作が詰問をするかのように見えてしまう。
いや、そんなはずはない。
流石に今の段階で嘘は見抜けないはずだ。
今にも飛び出しそうなほど音を鳴らしている鼓動が表に出ないよう必死に抑えながら、返事をする。
「……別に珍しくはないと思うけど。今日はお姉ちゃんもどこかに出かけてるみたいだし」
そう言い訳をした。
「…………確かにそうだったわね。じゃあ、今日はのんびり過ごすといったところかしら? ──ところで……ナノカちゃんはさっきまでは何してたの?」
誤魔化せたと思ったのも束の間、更なる質問が襲いかかる。
さっきまでは何をしていたか……?
それはマーゴがどこまでを察しているのかで話が変わってくる。
もし、さっき部屋を出た私を見ていたのであれば、ここで変に誤魔化してしまったら嘘をついていることが分かってしまう。
そうなれば、終わりだ。
であれば、部屋にいた事を白状すればいいのだが、それだと"その部屋で何をしていたか"を新しく考えて取り繕う必要がある。
さらに、そこで部屋に入る流れになり、状況と私が今持っているものの正体がバレてしまえば、本末転倒だ。
いらぬ恥をかいてしまうことになってしまう。
思考を巡らせること、数秒。
マーゴを見ると、頭に疑問符を浮かべた表情のままこちらを見つめ返している。
これは──バレているのか?
私が必死に隠しているもののことを。
何も言葉を返すことが出来ない私は顔を俯かせ、持っているものを軽く握り込んだ。
何かを隠すように。何かにすがるように。
「まあ、あの裁判じゃあるまいし、追求する必要も無いかしら。ごめんなさいね、詮索しちゃって」
その様子を見たマーゴはその何かを察してくれたのか、それ以上言葉を続けることはなかった。
「それじゃあ、お姉ちゃんにもよろしくね。ナノカちゃん♡」
微かに笑みを浮かべながら踵を返したマーゴは、そのまま来た道を引き返していく。
私はマーゴの背中が曲がり角の先に消えたことを確認してから、小さくため息を吐いた。
──危なかった。
いや、あの表情や口ぶりから察するに、今の私の状況を理解した上で見逃してくれたのかもしれない。
私はマーゴに対して軽く感謝しつつも、先程のことを思い返すと、隠し事が明るみに出る寸前であったことに変わりなかったことに肝を冷やし、これからはより一層気を引き締めることにした。
端から見てもおかしくないよう普段通りのペースで歩きつつも、少しの音も聞き逃さないように耳に全神経を傾ける。
向かう先は水場のあるランドリールームだ。
辿り着くまであと曲がり角がふたつ──と思った所で、道の先から物音が聞こえた気がした。
耳を澄ませると、鼻歌と一緒に何かを洗っている音が聞こえる。あの声は──城ケ崎ノアだろう。
水道を流しながら絶え間なくジャバジャバと音がしているので、筆か何かを洗っているのだろうか。
こっそりと扉の近くまで近づき、ノアの作業が終わるまで数分ほど待ってみたが一向に物音が止む気配がない。
このまま視界の開けた場所で待っていると誰かに出くわす可能性もあるので、諦めてノアのいる部屋に入ることにする。
「あー。ナノカちゃんおはよ〜」
「……おはよう」
私はそそくさとノアの後ろを通り、洗濯機の中にシーツを放り込んでボタンを押し、洗濯機を起動させた。
これで蓋にロックが掛かる。何で汚れているかを見られる心配はないはずだ。
私は額の汗を拭きつつ、シーツを隠していた上着を羽織る。
一瞬、シーツを汚した原因の液体の匂いがした気がしたが、すぐに絵の具の匂いで掻き消された。これならば違和感をもった者がいても、気のせいで済ませられるだろう。
洗濯が終わるまで数十分。その間に替わりのシーツを用意して布団を敷き直せば任務完了だ。シーツの保管場所はリネン室だ。ここからそう遠くはない。今すぐ部屋を出て──
「あっ、そういえばナノカちゃん」
「………………何かしら」
なんとなく予想はしていたが、ノアから声をかけられた。一体何なんだろうか。
「この前お願いしてた、ナノカちゃんに絵のモデルになってもらうやつなんだけど」
「……そんなこと…………されてたかしら」
お願いなんかされていただろうか。
少なくとも私の記憶にはないが────約束していたのか? いや、されたされていないは関係ない。何かを頼まれたのならそれに応えるべきだ。隠し事がないときに限るが。
「まあ別に構わないけど……。ちょっと用事があるから、それが終わったあとならいいわよ」
「やったー!! あっ、そうだ。ナノカちゃんのお姉ちゃんも一緒に描きたいから、呼んできてくれたら助かるな〜」
「えっ」
お姉ちゃんも一緒に描きたい?
「な、なぜかしら」
「えー? ナノカちゃんとナノカちゃんのお姉ちゃんって顔が似てるでしょ? でも髪の色は違うから絵にしたら映えるかなって思ったんだ〜」
「……なるほど」
長時間、姉妹ふたりで肩を並べる。普段通りであれば垂涎ものの状況だ。だが、今は──色々な意味で時期が悪い。
「姉は……今出かけているみたいだから、また今度じゃ駄目かしら」
「え〜……そっかぁ……。ならしょうがないかも。今日はナノカちゃんだけにお願いしようかなあ」
「そうしてくれると助かるわ。このままアトリエに行けばいいかしら?」
「うん! ありがとう、ナノカちゃん!」
「それじゃあ、また後で」
私はランドリールームを出て、そのままリネン室へと向かう。
その後は特に問題も起こることなく、シーツを敷き直すことができた。これで一安心。後はアトリエに行って絵のモデルになれば今日の用事は終わるが──とあることに気づいた。
絵を描いてもらうということは、それが形に残るということ。つまり、証拠が残ってしまうということだ。それはマズい。
だが、約束を破ってしまうというのも良くない。
ノアを何とかして言いくるめて、絵を表に出さないようにしてもらうことに他無い。
私はノアとの約束を守るために。また、新たな約束を取り付けるためにアトリエへと向かうことにした。
❉
「絵のモデルってこんなに時間がかかるものなのね……」
「あとちょっとで終わるよ〜」
「1時間前にも同じセリフを聞いた気がするのだけれど」
「そうだっけ?」
アトリエで椅子に座ること数時間。痺れを切らして聞いてみたが、まだまだ時間がかかりそうだ。
正直なところ、時間的に色々なリミットが近づいてきているのを肌で感じる。沽券に関わることなので声を大にしては言えないが、大小で言葉の意味が変わるアレとかコレのことだ。私の隠し事のこともある。
隠し事のことを思うとどうにも汗が止まらず、帽子の内側に熱がこもる。
私は帽子のつばを少しだけ持ち上げ、額に溜まった汗をハンカチで押さえるが、中々不快感がやまない。
額からこめかみへ落ちた汗が背中へと流れるのを感じる。
懐にしまっておいたハンカチで汗を抑えながらノアに目をやると、何やら首を傾げているのが見えた。
「うーん、なんか違うなあ……」
「それ、今言うことかしら」
ここ数時間の私の苦労は何だったのだろうか。
というか、あまり絵については詳しくないが、完成間近になっても納得がいかないというのはあり得るのか?
疑問に思ってノアの下へと向かい、描かれた絵を見てみると、そこには見事な写実絵が描かれていた。素人目に見ても納得がいかない出来とは思えない。というか、上手すぎて言葉をなくすほどだ。
「なんか、前描いたときと比べて印象が違うっていうか……ナノカちゃんのこと、うまく描けないんだよね」
独り言のように言葉を続けたノアは、腕を組みながら唸っている。
そんなノアを尻目に、私は肝を冷やしていた。お世辞にも上手いとは言えなかったノアの絵が、ここまで成長しているとは。明らかに誰が描かれているか分かるほど詳細な絵が出来上がるとは思ってもいなかった。
「……良い絵じゃない。これで完成じゃないの?」
「完成ではあるんだけど……ナノカちゃんのよさが出てないっていうか……」
「私は良いと思うわよ」
「そうかなあ」
明らかに納得がいっていない様子のノアは、眉間にシワを寄せながら頬を膨らませている。普段ならアドバイスなりをして手助けをするのだが、今のこの状況は私にとって都合が良いので便乗させてもらうことにした。
「ねえ、この絵頂いちゃっても良いかしら?」
「えっ……べつにいいけど、この絵でいいの?」
「この絵が良いのよ」
私はイーゼルからキャンバスを外し、絵を眺める。
私情があるのもそうだが、この絵が見事であることも事実だ。これは是非とも私の部屋に飾っておきたい。
「んへへ。そっかぁ」
頬を盛大にゆるませたノアは身体をくねくねと揺らしている。
「それじゃあ、頂いていくわね。次は……お姉ちゃんと一緒の絵も描いてほしいわ」
「うん! わかった。今日はありがとね、ナノカちゃん」
「またね」
両手が絵で塞がれているので手を振ることが出来ないが、精一杯の笑顔をノアに返す。ノアはいつも通りの弾かれんばかりの笑顔をこちらに見せている。
ノアのアトリエを出た私は、自身の部屋へと向かい、絵を壁に立てかけた。
「ふぅ……」
何とかなった。
初めはただの悪ふざけでやったことがここまで大事になってくるとは思わなかった。
これ以上は隠し事も出来なそうなので、そろそろ最後の証拠を消す必要があるが、背中の悪寒を感じたことで尿意の限界も近づいてきていたことを思い出した。
「着替えるのはトイレに行ってからかしらね……」
私は部屋の入口に向かい、扉を開ける。
すると、そこには黒部ナノカが立っていた。
ばったりと顔を合わせた私たちだが、ナノカは目を丸くさせた後に段々と冷ややかな目に変貌させていった。
「おはよう。黒部ナノカさん?」
ナノカは笑顔ではあるが、目が笑っていない。その冷たい目を見て、限界だったはずの尿意が消し飛んだ。
「なんで私がふたりもいるのかしら。お姉ちゃんの変身の魔法ももう無くなったはずなのに、おかしいわね?」
「あー……その……ごめんね? なのちゃん」
証拠を誤魔化すための言い訳が頭をよぎったが、どうあがいても詰みの状況であることを察し、素直に謝ることにした。
私は帽子をとり、頭につけていたウィッグを外す。汗で蒸れていた髪の毛に涼しげな風が通り、解放された気持ちになった。変装するために使っていた上着もナノカへと返却する。
「それで? なんで私に変装なんかしてたの?」
「大好きな妹になりたいって願望を抑えるのも変じゃないかしら?」
「普通に変だよ……お姉ちゃん」
ガックリと肩を落としたナノカは、呆れ顔で私の顔を見つめている。初めは部屋に入った証拠を隠滅しようとしたが、ここまで見事にバレてしまっては隠しようがないので、すべて打ち明けることにする。
「いや〜、初めはなのちゃんのお部屋で変装してはしゃいでたんだけどね……。はしゃぎすぎて飲み物を零しちゃったのよ。そのせいで散々な目にあったわ」
「何をはしゃいでたかは聞かないことにするわ……。というか、私の姿で変なことしてないわよね?」
「してないわよ? マーゴちゃんとちょっとお話したり、ノアちゃんに絵を描いてもらったりしただけよ?」
私の言葉を聞いたナノカは、額に手を当てて頭痛を我慢するような表情になった。
「まあ、マーゴから『あなたのお姉ちゃんが変なことをしてるみたいよ?』って教えてもらったから宝生マーゴに関してはそれで良いとするわ。城ケ崎ノアにはバレなかったの?」
「あー……やっぱりマーゴちゃんにはバレてたのね……。ノアちゃんには私が変装してたことはバレてないかもしれないけど、何か違うなあとは思ったかもしれないわよ?」
「……? どういうこと?」
「そうね、この絵を見てちょうだい」
私は壁に立てかけておいた絵をナノカに見せる。絵を見たナノカは合点がいったように頷いた。
「なるほどね。髪の色は違うけど、確かにお姉ちゃんだわ」
「そうよね? これを見たときビックリしちゃったわ」
絵が上手い人ほど描く対象を良く見るというが、ここまで精巧に描かれるとは思ってもいなかった。
「ふふ♡ 次はなのちゃんもお姉ちゃんに変装してみない? ノアちゃんにバレるかどうか確かめてみましょうよ」
「嫌よ」
「あら残念。なら、私がなのちゃんに変装してふたりで描いてもらいましょうか。ノアちゃんの困惑した顔が目に浮かぶわね〜」
「奇行もほどほどにしないと身を滅ぼすわよ。ああ……頭が痛いわ……」
眉間にシワを寄せて頭を押さえたナノカは、憂鬱そうに深くため息を吐いた。
きっと、今日のことだけではない。
これまで積み重ねてきた私の偏愛じみた言動、その全部を思い返しているのだろう。
そしてこれから先も、似たような騒動に振り回され続ける未来を想像してしまったのかもしれない。
ナノカは疲れ切った目でこちらを見つめながら、未来を憂うように、また小さく息を吐いた。