誰か妹から逃げる方法を教えてくれ   作:ヘルタ様万歳

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・・・---・・・

 

 

惑星ピアポイントの朝は乾いている。

 

白い塔群の間を輸送艇が滑り、軌道環が規則正しく光を反射する。祈りと利益が同じ空間に積み重なる都市。その中心にスターピースカンパニー本社棟はそびえている。

 

星神クリフォトの存護を掲げ壁を築くために始まった組織は今や宇宙経済を握る巨大企業だ。七大部署が星々を分担し、その上に七人取締役会が座す。利益と信仰は同じ帳簿の中で並立していた。

 

その末端、人材奨励部傘下の休暇申請部。ここは労働者の疲労を管理する場所だ。数値化された睡眠時間、累積ストレス、判断力低下率。どれも単なる数字に過ぎないが、その裏にあるのは生身の人間に他ならない。

 

シャオイェンは横髪を自らの耳へとかけながら端末を閉じると、改めて目の前の人物を見上げた。

 

三十代半ばの戦略投資部の男。整えたはずの髪は乱れ目の下に薄い隈が浮いている。上質なスーツの肩は僅かに落ち、立っているだけで疲労が滲んでいるようだった。

 

「貴方の未消化の休暇は既に規定上限を超えています」

 

黒髪は肩口で揺れ深い緑の瞳が淡く光る。彼女の声は柔らかいが、徹底的に逃げ場を奪うようにその薄い唇からは冷ややかで事務的な言葉が紡がれた。

 

「……忙しいんです」

 

苦し紛れに男の唇から紡がれた言葉は短く、その奥に詰め込まれた疲労は隠しきれてはいなかった。男は憮然として言い切ったものの、語尾が僅かに揺れた。喉の奥が乾いているのか一度小さく咳払いをし、彼の視線は真正面のシャオイェンを見ているようで実際には焦点が定まっていない。

 

窓の外では別の部署のシャトルが発着している。透明な強化ガラス越しに白い機体が滑るように降下し、再び宇宙へと上がっていく。規則正しい振動が床を通して伝わり、かすかに机の端を震わせる。

 

部屋の空気は徹底的に管理され塵一つない。無臭の筈の空間には、かえって人工的な冷たさが漂っている。その無機質さが男の焦燥を余計に浮き彫りにしていた。

 

シャオイェンは椅子に背を預けたまま彼を見上げる。深い緑の瞳は穏やかで、責める色を持たない。ただ観察する様に視線を投げる。相手の呼吸の速さ、瞼の重さ、スーツの襟元に浮いた僅かな汗の跡までを。

 

「それは理由になりません」

 

声音は静かで平坦だ。彼女は感情を削ぎ落とした口調をあえて選んだ。

 

「そうは言ってもね……」

 

男は力なく笑う。笑おうとした、と言った方がより正確かもしれない。口角は上がるが目は笑っていない。ついに彼は椅子に腰を下ろす。背もたれに身体を預ける瞬間、ほんの僅かに安堵の吐息が漏れたようだった。

 

両手を組む。指先がかすかに震えている。きっと自分では気付いていないのだろう。あるいは、見られていると分かっていても止められないのか。

 

「プロジェクトが山場なんです。今抜けるわけには……」

 

「仮に貴方が倒れれば、プロジェクトへ掛かる影響は予想より大きくなります」

 

「そんな事にはなりません」

 

ついに男の声に苛立ちが混じる。責められていると感じているのだろう。自分の責任感を否定されたような気がしている。

 

彼の脳裏にはきっと、山積みの報告書と未確定の投資案件、そして部下たちの顔が浮かんでいるのだろう。自分がいなければ回らないと信じてきた日々。その信念が彼をここまで追い込んだのかもしれない。

 

「貴方1人が抜けることで崩れるプロジェクトなど既に破綻しています」

 

シャオイェンは端末を操作し、彼の健康指標を映す。睡眠不足の波形が乱れている。

 

「72システム時間前、貴方はプロジェクトの会議中に数秒間ほど意識を失っています」

 

男の肩がぴくりと揺れる。心当たりでもあるのか、あるいは記憶が蘇ったのだろう。会議室の照明がやけに眩しかったこと。耳鳴りと、視界が一瞬白く飛んだこと。

 

「……それは、ただの立ちくらみです」

 

「いいえ。これはいずれ死に至る過労という名の病です。貴方の身体は、とっくに貴方の理想に着いていけていないのです」

 

狼狽える男へ、シャオイェンは淡々と告げた。だが彼女の内側には僅かな緊張が走っている。目の前の男は敵ではない。守るべき職員であり救うべき対象だ。望まない強制を強いなければならない事に心苦しさを感じていた。

 

男は窓の外へと逃げるように視線を逸らした。

 

「しかし私の代わりになる者など……」

 

その言葉には誇りと恐怖が混じっていた。自分が抜ければ崩れるという自負が見てとれる。

 

シャオイェンは僅かに息を吐き出す。

 

「貴方が優秀な人材である事は認めましょう。しかしこのスターピースカンパニーにおいて、代わりのない人材は存在しません。貴方が抜けた穴を埋める人員は多く在籍しています」

 

「……容赦なく言い切るのですね」

 

「貴方が倒れてしまうよりはマシでしょう」

 

シャオイェンの言葉に男は唇を噛む。その顔には悔しさが滲んでいた。間違いなく目の前の女の言う通りなのだから、と。

 

「せめて来月まで待ってください」

 

今度は懇願に近い声が絞り出される。男の肩から力が抜け、指先の震えが強くなる。自分でも限界が近いとどこかで分かっているのだ。

 

シャオイェンはその様子を見つめ、胸の奥に僅かな痛みが走るのを見て見ぬ振りをしながら告げる。

 

「そうやって来月にはまた別の言い訳を重ねるつもりですか?」

 

「そんなことは……」

 

「過去3年、同様の発言が5回あります」

 

そう言って過去の履歴を映し出す。似たようなやり取りが何度も繰り返されている形跡があった。男は今度こそ黙り込み、僅かな静寂が部屋を包み込む。

 

男の受け持ったプロジェクトは確かな利益が見込めるものだった。その為、誰か一人が倒れても代わりは補充されるというのは、誰よりもそのプロジェクトに心血を注いでいた男にとっては皮肉であろう。

 

「……十五日」

 

「三十日」

 

男の眉が寄る。怒りと諦めの入り混じった表情でシャオイェンを睨み付ける。

 

「それでは長すぎる」

 

「貴方の累積疲労に対する妥当な最低推奨値です」

 

彼女の言葉に嘘はない。だがそこには、個人的な感情も少しだけ混ざっているように男には感じられた。無理を続ける人間を見ることが彼女にはどうしても耐え難いようだ。

 

男は目を閉じる。しばらく沈黙し、ゆっくりと息を吐く。

 

「二十日」

 

「三十五日」

 

「増えているではないですか」

 

「交渉に時間を要する分、回復期間も増えますよ」

 

彼女の瞳は厳しくも何処か穏やかで、想定外の温度を感じ取った男は観念したように顔を覆う。しばらくして、低く笑った。

 

「あなたは本当に悪魔だ」

 

「ウォンリャンさん。休暇とは社会人として果たすべき約束なのです。奥さんに他人のように扱われたくなければ、休暇を小まめに申請すべきであると提案します」

 

その言葉に僅かな皮肉が滲む。男は今度こそ観念したように深く息を吐き、椅子にもたれかかった。

 

「……分かりました。三十日で」

 

承認印が静かに押される。その瞬間、男の表情に奇妙な安堵が浮かんだ。

 

「復帰後の配置は調整しますのでご安心ください」

 

「……ありがとうございます」

 

目の前の女に押し負けてしまったのに、男は何処か憑き物が落ちたかのように安堵の溜息を吐いた。男はそれらを自覚すると、また可笑しそうに笑った。

 

……敵わない。

 

そう思うのは、これが初めてではない。

 

部屋を出て廊下を歩きながら、彼はようやく自分の肩が軽くなっていることに気付く。あれほど守らねばならないと握り締めていた案件が今は何よりも遠く感じる。プロジェクトから外される事を何より恐れていた筈なのに、今はどこか救済のように思えた。

 

振り返ると、扉の向こうに居るであろう女の姿が脳裏に浮かぶ。

 

シャオイェン。

 

人材奨励部が傘下、休暇申請部の所属。

社内で知らぬ者は居ない。

 

「休暇の悪魔」

 

最初に聞いた時はなんだそれはと思った。だが実際に対峙してみれば分かる。怒鳴りもしない。多少の圧はあれど、数字と理屈を淡々と積み上げ、気付けば退路が消えており、最後は自分で決断させる。何処か逆らえないあの雰囲気に呑まれ、休暇を取らされた者が数多く居ると聞く。

 

戦略投資部では半ば都市伝説のように語られている。

 

「あの人に捕まったら、有無を言わさず南方リゾート送りだ」

 

「逃げ切れた奴はいない」

 

だが同時に、こんな声もある。

 

「家族と永らく会って居ない事に気付いた」

 

「不自然なくらい体が軽い」

 

不思議な女だと男は思う。敵に回すと恐ろしいが、そもそも敵ですらないのだと真摯で冷たい態度を以て教えてくれる。

 

そういえば恐ろしい呼び名とは対照的なあだ名もあったのを思い出す。

 

「カンパニーの初恋」

 

誰が言い出したのかは知らない。だが古参職員の間では半ば当たり前のように語り継がれている。噂というより、社内文化の一部のようだ。

 

整った顔立ち。落ち着いた声。誰に対しても公平で、感情に流されない理性的な判断。冷やかな口調と相反するように、その視線は不思議と冷たくない。むしろこちらの健康や生活を案じているように見えるから、その飴と鞭のような酷く優しい均衡に脳を焼かれた職員が多いのだろう。

 

今日の自分も、きっとそうだった。

 

散々押し問答をした挙句、最後に自分が承認ボタンを押した瞬間。彼女はほんの僅かに安堵したように笑った。

 

あの爽やかな笑顔にやられる職員が後を絶たないのだろう。今なら分かる。確かにあれは反則だと思った。最愛の妻と娘が居なければ自身も危うかったかもしれないと思えるほどだったのだから。

 

ふと、告白して玉砕した同期の姿が脳裏に浮かぶ。

 

酔った席で、顔を真っ赤にしてこう言っていた。

 

「彼女はとても優しいんだ。業務中は厳しいんだけど、休憩中に会った彼女はとても優しい目をしていて、この通り一発でノックアウトさ。……でも、その瞳が俺を見る事はないんだ……う、ぅ…シャオイェン…俺をみてくれ、ぇ…」

 

店の卓に突っ伏して泣き出した同期を男は呆れながらも肩を貸して連れ帰った。聞いてもいない恋愛談義を延々と聞かされ、二度と飲みに誘うまいと誓った夜だった。

 

だが今になって、少しだけ理解できる。

 

彼女は優しい。しかし当然ながらその優しさは誰か一人に向けられるものではない。当たり前だ。彼女はただ与えられた職務を全うしているに過ぎないのだから。

 

仕事が恋人、と言えば簡単だが。それとも何処か違う気がする。何か別の、もっと遠い場所を見つめているような漠然とした想像が膨らむ。

 

そこまで考えてふと、ある古参職員が冗談めかして言っていたのを思い出す。

 

「クリフォトの壁より堅いぞ、あの人は」

 

存護の壁。宇宙を守る防壁。越えられないと称した先輩は笑っていたが、その目はどこか乾いていた。今にして思えば挑んで砕けた者の目のように感じる。貴方もか。

 

男は小さく息を吐く。

まあ、いい。

 

自分は家へ帰るとしよう。

 

自分には妻と娘がいる。温かい食卓と、今日の出来事を話せる相手がいる。男にとってはそれで十分だった。

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

それは昼休憩の時だった。

 

休暇申請部の共有スペースは午前中の押し問答が嘘のように静まり返っていた。壁面に埋め込まれた自動販売機が規則的に低い駆動音を立てては、無機質な照明が白い机を均等に照らしている。淹れたての合成コーヒーの匂いが微かに漂い、窓の外ではシャトルが滑走路を離れていく。

 

シャオイェンはトレーを机に置き、何気なく積まれた新聞の束に手を伸ばした。

 

紙の端が指先に引っかかる。

ほんの小さな感触だったが、妙に気になったのだ。

 

ふと視線を落とす。そこに載っていたのはある天才学者の名だった。

 

ルアン・メェイ。

 

「……っ」

 

一瞬、呼吸が浅くなる。

紙面の文字がやけに鮮明に見えて、しばらくフリーズした後に、再び記事へと視線を向ける。内容は実に簡潔だった。

 

『彼女は現在、失われた“大切なもの”を探しているという。それが何であるかは未だ明かされていない』

 

たったそれだけだ。分析も推測もない。ただ淡々とした一文。しかしその僅かな文章がシャオイェンの背を冷や汗で濡らした。指先が紙を強く掴み、薄い紙面が僅かに歪む。

 

ついにこの時が来てしまったのだと理解する。

 

なぜなら彼女の言う“大切なもの”に心当たりがあったのだから。

 

胸の奥が静かに冷えていく。周囲の物音が遠のき、空気の重さだけが際立って仕方がない。

 

「……逃げないと」

 

やがてぽつりと酷く掠れた声が漏れる。彼女自身でも驚くほど切実な響きだった。

 

せっかくあのマッドな妹から逃げ出せたというのに。

 

7年。たった7年しか続かなかった安寧。世界は何故こうも残酷なのだろう。

 

視線が窓の外へ流れる。軌道環がゆっくりと回転していた。何も変わらない都市の風景がかえって彼女の内側の動揺を浮き彫りにした。

 

 

シャオイェンは、かつて妹である彼女の世話をしていた。

 

両親を亡くした日。広く感じる家の中に残ったのは冷えた静寂と、理解できないほど澄んだ妹の瞳。

 

父と母の名を自ら名乗るようになった妹は、もはや別人と言って差し支えないほど酷く純粋に歪んでいった。もしかしたら本質は何も変わっていないのかもしれないが、少なくともシャオイェンの知る妹とは確実にズレていた。

 

かつての実名を呼ぶと、僅かに眉を寄せて訂正するようになり、しかしそれでもシャオイェンは意地でも元の名で呼び続けた。目の前の度し難い存在が、未だ掛け替えのないたった一人の肉親であると信じたかったのかもしれない。

 

甘く、どろりとした瞳で見上げては「姉さま」と呼ぶあの、柔らかく丁寧で、何処か眠りを誘うような静かな声。焼き菓子の甘い香り。梅の刺繍を施す細い指。聞き惚れるような美しい琴の音色。

 

どれも穏やかな光景の筈なのにどうしても受け入れられなかった。何故ならその瞳の奥には、生命の根源を覗き込んだ者の狂気が常に消えぬ炎の様に揺れ動いていたから。

 

氷河の星、ノーマンズランドで蘇った巨大生物。凍てついた大地の上で目覚めたそれを前に、妹は恐怖ではなく恍惚を覚えたと語った。今にして思えば、彼女を直視することを避けるようになったのはその時からだ。

 

生命を生み、惑星を育て、其の真理にまで手を伸ばす。やがて天才クラブへと迎えられ、理解者たる仲間を得た妹は探求という孤独を誇らしげに抱きしめた。

 

それだけで満足していれば良かったのに、実の姉に向けるにはあまりに悍ましく、真水のように純粋で、息が詰まるほど質量のある感情を向け始めた。

 

「姉さまは私の全てです」

 

あの声が耳の奥に蘇る。

甘く、どろりとした瞳。

 

逃げ出した夜のことを、シャオイェンは今でも鮮明に覚えている。

 

突如として研究室の電力が落ちた瞬間、世界が赤く染まったような気がした。非常灯が点き廊下の床に細長い影が伸びる。無数の培養槽が静まり返り、循環装置の低い駆動音が止んだ。あれほど絶え間なく鳴っていた機械の鼓動が消えたことで、凪いでいた自身の心臓の音もうるさいほどに音を響かせたのだ。

 

裏口が僅かに開いていた。ほんの数センチの隙間。普段なら見過ごすほどの違和感。それがその夜は救いに見えた。

 

妹はその時に限って外出していた。研究成果の報告か、あるいは天才クラブの誰かとの会合か。理由は知らない。ただそこに居なかったという事実だけが重要だった。

 

一生に2度あるか分からない幸運。

それに縋って、ただ走った。

 

赤い非常灯の下を駆け抜ける。コートの裾が揺れる。久し振りに走ったからか、息が焼けるように熱い。背後から甘い焼き菓子の匂いが追ってくる気がした。振り返れば、あの甘くどろりとした瞳が立っているのではないかという錯覚に足が竦みそうで、頑として振りかえらなかった。

 

扉を押し開けた瞬間、外気が肺に流れ込んだ。冷たい空気がようやく現実を知らせる。

 

もう一度捕まれば、きっと二度と外へは出してくれない。

 

あの子は優しく笑うだろう。

「姉さま、お帰りなさい」と。

 

責めることなく、問い詰めることもなく。ただ穏やかに2人だけの世界へと逃げ場を閉じていくのだ。

 

それだけは確信している。

だから逃げなくてはいけなかった。

 

せっかく得た安寧が7年で終わるなど冗談ではない。シャオイェンは現在へと意識を戻す。端末を開くと、透明な画面が指先の動きに応じて展開される。

 

未消化休暇、3年分。

 

画面に並ぶ数値が妙に生々しい。他人に休暇を強制してきた自分が、今度はその制度に救われようとしている。皮肉なものだ。

 

思わず小さく笑みが溢れる。

笑ってはいるものの、喉の奥はひどく乾いていた。

 

存護の壁は揺るがない。都市はいつも通り運行してている。シャトルが発着した。広告塔が光り、カンパニーの通貨は宇宙を巡る。

 

世界は変わらない。だが彼女の内側では、確かに足音が響いていた。

 

遠くから、ゆっくりと近づく音。

甘い焼き菓子の香りと共に、静かに、確実に。

 

 

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