誰か妹から逃げる方法を教えてくれ   作:ヘルタ様万歳

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ルアン・メェイは、姉の逃走経路を正確に把握していた。

 

長期休暇の承認。

分散された移動経路。

意図的に曲げられた軌道。

 

彼女は端末に映る航路データを閉じ、静かに刺繍枠へ視線を落としながら細い針先で布を貫き、丁寧に糸を引き締める。

 

描かれているのは梅の木に泊まった燕だった。枝先に身を寄せ、小さな翼を広げて今にも飛び立とうとする瞬間を切り取ったものだ。

 

今頃はヤリーロ-Ⅵに到着した頃だろうか。寒さは苦手な筈なのに何故そこを選んだのか。合理性か。偶然か。それとも無意識の反発か。興味は尽きない。

 

針が布の裏で僅かに手が止まり、そこでふと思考が過去へと滑り落ちていった。

 

両親が亡くなった直後の夜の事だ。

 

家は異様な静寂に包まれていた。家具の配置や書斎の本棚も変わらないのに、中心だけが抜け落ち、換気される様に開け放たれた窓から入り込む空気だけがどこか冷たかった。

 

ルアン・メェイは泣かなかった。

 

きっと理由がないと判断したからだ。生命はいずれ循環し、消失は必然に過ぎないなのだと。

 

「私は大丈夫です」

 

そう言った時、彼女自身もそれを信じていた。しかし姉であるシャオイェンは違ったようだった。

 

「私は母さんとは折り合い悪かったし、だから思ったよりも衝撃が少ない。実の娘ながらその事実を残念にも思う。だから、あんたくらいはちゃんと悲しんであげなさい」

 

少し荒く不器用で、それでも迷いのない温かい声。慣れない感情に苦心しながら真正面からぶつけてきた姉。4つほど離れた彼女の顔を、ルアン・メェイは生まれて初めて直視した。

 

彼女にとって自身の姉は、別の軌道を進む存在だった。

 

父の側にいて、よく母と衝突し、理屈を好まない人間。血を分けた他人のように、全く異なる方向を向いていると思っていた。

 

だがあの夜、シャオイェンは無理をしてまで踏み込んできた。

 

「私はあんたの姉だからね。死んでしまった父さんと母さんの代わりに、私があんたを育てる義務がある」

 

当然のように言い切るその姿は成熟した大人とは程遠かった。まだあどけなさの残る顔で覚悟だけを抱えて立っている姉に、優しく抱きしめられながら頭を撫でられた。そこでようやく涙が流れたのだ。

 

理屈では語り尽くせない濁流のような感情が暴れ出す。その瞬間、内部の重心が少しずつズレはじめていくようだった。どんなことがあってもこの人は側にいてくれる。そんな確信が幼きルアン・メェイの深層心理へと深く沈んでいった。

 

それからの日々は静かに形を変えていった。

 

まずシャオイェンは朝早く起きるようになった。食事を用意し、母の代わりに手続きを進めた。工房の整理、書斎の書類、慣れない家事。全てが手探りだった筈だが、それでも一度として弱音は吐かなかった。

 

「私がやるって言ったんだから」

 

ぶっきらぼうに言いながら確実に役目を果たす姉のその背中を、気付けばじっと観察するようになった。

 

ある夜、食卓で唐突に問いを投げる。

 

「時間とは物理量でしょうか。それとも観測者依存の概念でしょうか」

 

シャオイェンの箸が止まる。

 

「……いきなり何」

 

困惑と本音が混じる声。

 

「母さまは観測によって世界は定義されると仰っていました」

 

真剣な視線を向けられ、シャオイェンは天井を見上げる。

 

「あんたの納得できる答えは言えない。私にとって時間は、待ってくれない日々でしかないから」

 

何処か遠い場所を見つめる様な目にちくりとした痛みを感じた。それ以降、ルアン・メェイは難解な問いを投げ続けた。

 

生命の起源。

宇宙の始まり。

因果と確率。

 

その度にシャオイェンは頭を抱える。

 

「ちょっと待って。私も勉強しないとダメ?」

 

半ば本気で途方に暮れるシャオイェンだったが、数日後には本を開いていた。母の残した論文を難しい顔で読み進める彼女に、不確かだった欲求が満たされていくようだった。

 

「保護者である私が、あんたの話分かんないっていうのもね」

 

眉間に皺を寄せながらそう言い放ったシャオイェンにべったり着くようになったのはこの頃からだった。

 

姉がどの本を読み、どこで躓き、どの瞬間に眉をしかめるのか。それらは単なる家族の記憶というよりは研究記録のように詳細に刻まれていく。

 

 

そして今。

 

シャオイェンは自由を求めてルアン・メェイから逃げている。箱の外へ出たくて堪らないのだろう。

 

出口だと思っていた扉の先が最初の入り口に繋がっていると知った時。壁際まで追い詰め、逃げられないよう指を絡め無理矢理に押さえ付け、尊ぶべきその尊厳を犯し尽くした時、あの顔にはいったいどのような色が浮かぶのか。

 

刺繍枠の中で燕の翼が完成する。糸を引き締めながら、1人の天才は静かに思う。

 

あの夜、理屈を超えて向き合おうとした瞬間から、姉は彼女の世界の中心となった。

 

水をやり過ぎた植物がどろどろの土に根を深く張るように。与えられた温度と存在はやがて理屈では整理できない感情へと変質していく。

 

失いたくないから手に入れるのだ。これは極めて単純な事実と、静かな増殖に過ぎないのだから。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

休暇申請が承認された瞬間、シャオイェンは奇妙な静けさに包まれた。

 

端末に表示された「承認済」の文字は、あまりにもあっけない。数秒前まで自分の中で渦巻いていた焦燥や計算や逡巡が、その二文字の前で急に輪郭を失う。逃げる準備は整ったはずなのに、胸の奥は少しも軽くならない。むしろ、何かが決定的に動き出したという感覚が、静かに内側を震わせていた。

 

もう戻れない。

 

そう理解した瞬間から、空気の密度が変わった気がした。

 

出来るだけ直ぐに動けるよう、荷物は最小限に抑えた。

 

衣類数着。

簡易端末。

分散した身分証。

 

それだけで十分だと、自分に言い聞かせる。

 

私物らしい私物は持たない。写真も、細かな記録も、置いていく。思い出は温度を持っている。温度は足を止める。後になって足枷になるかもしれないと考えたからだ。

 

部屋の中央に小さなケースを置き、内容物を一つずつ確認する。指先は落ち着いているのに、心拍だけが妙に早い。整然とした室内を見渡す。七年分の生活の痕跡が、あまりにも整然としている。

 

逃げるのは、自分の方だ。

 

移動経路は複数に分ける。直線的な軌道は出来るだけ避ける。中継を挟み、滞在時間も不規則にする。意図を読まれないように、あえて遠回りを選ぶ。予想を撹乱させるための、いくつもの偽装。

 

端末の画面上で星図が幾重にも重なる。光る軌道線を引き、消し、また引き直す。その作業を、まだ片付けきれていない自室で繰り返す。窓際に置いた観葉植物の影が、壁に細く揺れている。

 

追跡されないよう、念のためメッセージアプリを削除する。アイコンが消えた瞬間、胸の奥がひやりとする。これで、連絡は途絶える。

 

後ろ髪を引かれる思いを無理やり振り払い、シャトルへ乗り込む。

 

金属の通路を歩く足音が、妙に大きく響く。搭乗席に腰を下ろし、シートベルトを締める。円形の小さな窓から、ピアポイントの夜景が見えた。

 

「……観測点は、どこに置くんだろう」

 

無意識に呟いていた。

 

在りし日のあの言葉が、頭から離れない。

 

――逃げ場を与えます。

 

白い研究室の光景が浮かぶ。椅子もない殺風景な部屋。透明な実験箱を抱えた妹の横顔。あのときの彼女は、静かで、確信に満ちていた。

 

「選択肢という枠組みを与えられると、個体は自律的判断を行っていると錯覚しつつ、実際には定義済みの行動空間内で最適化を試みます。それがあらかじめ構築された刺激配列であると気づかないまま。非常に示唆的であり、そしてどうしようもなく愛らしいのです」

 

当時のシャオイェンはてんで理解できなかった。

 

しかし今なら少しだけ分かる気がした。シャオイェンからすれば酷く受け入れがたいもの。逃げているつもりで、実は選択させられているのではないか。

 

シャオイェンは一瞬、指を止める。

 

あの美しくもミリとして理解できない最愛の妹の掌の上で蝶を観察されるの如く弄ばれているのかもしれない。或いは自分は外側にいると思い込んでいるだけでその実、まだ箱の内側に居るのではないかと。

 

思わず喉がひりつく。

 

だが立ち止まることはできない。逃げなければいけないのだから。

 

あの美しい指に絡め取られる前に。優しく、穏やかに、二度とは通れない逃げ場を閉じられる前に。

 

シャトルがわずかに震え、軌道環がゆっくりと回転を始める。重力の感覚が変わり身体が座席に押し付けられる。7年間過ごしてきた都市の光が過去へと遠ざかっていく。お世話になった先輩や仲の良かった同僚に一言も告げぬまま、もしかしたら二度とは帰れないかもしれない果てしない逃走の旅立に溜息が漏れる。

 

本来ならカンパニーの中に篭ってさえいれば、今まで通り安寧を享受出来たかもしれない。存護の壁は揺るがない。それは事実として知っている。

 

だがシャオイェンの知る妹は、壁の外側からでも静かに、確実に手を伸ばしてくるだろう。

 

「……私にとって7年でも、あの子にとっては取るに足らない短い日々だったのかな」

 

苦笑が漏れる。

 

恐怖よりも悔しさが強い。自分の安寧があまりに短かったことへの悔しさ。ようやく手に入れた普通が、7年で終わるかもしれないという理不尽さに静かに怒りを発露させていく。ケースの蓋を閉じる音が、やけに大きく響く。

 

次の駅の到着は84システム時間後。

 

その数字が猶予なのか、カウントダウンなのかは分からない。

 

ただ確かなのは、ここまでノンストップで準備してきた事への、酷い眠気だけ。

 

 

 

 

 

 

 

■ ベロブルグ

 

最初に降り立ったのは、つい最近まで観測すらできなかった遠い、凍てついた星。

 

ヤリーロ-Ⅵ ベロブルグ。

 

灰色の空が低く垂れ込め雪は街路の音を吸い込んでいる。金属製の建物の外壁には霜が張り付き、人々は厚い外套に身を包んで足早に歩いている。冷たい空気が肺を刺す。喉を過ぎる痛みが、僅かに思考を沈ませる。ここなら追跡も難しい筈だと、必死に自分に言い聞かせながら予め予約していたホテルへと歩を進める。

 

 

その日の夜、宿の窓から見える白銀の街並みを眺めながらふと記憶が蘇る。

 

——あれは、まだ妹が今ほど遠くへ行く前のことだった。

 

研究室の隅に置かれた透明な実験箱。見た事もない小さな哺乳類の潤んだ黒い瞳が光を反射していた。

 

妹は静かに説明する。

 

「逃げ場を与えます」

 

箱には二つの出口。一方は明るく、もう一方は暗い通路へと続く。

 

最初、個体は光へ向かおうとするもその足元が濡れている事に気付くと、微弱な刺激を嫌がり、個体はやがて暗い道の方を進んでいった。妹は観察窓越しに、静かに微笑んだ。

 

「選択肢という枠組みを与えられると、個体は自律的判断を行っていると錯覚しつつ、実際には定義済みの行動空間内で最適化を試みます。それがあらかじめ構築された刺激配列であると気づかないまま。非常に示唆的であり、そしてどうしようもなく愛らしいのです」

 

白い研究室の空気は乾いていた。消毒液の匂いが薄く漂い、透明な実験箱の中では小さな生き物が右へ左へと落ち着きなく動いている。

 

その瞬間、シャオイェンは視線を感じた。

 

ぞわりと、皮膚の上を何かが這うような感覚。顔を上げると、妹の視線はいつの間にか小動物ではなくこちらへ向けられていた。穏やかな微笑を浮かべたまま、瞳だけが静かに光を帯びている。

 

まるで今の説明を、そのまま自分に適用して見せつけているかのような。

 

枠組みを与えられた個体。

自律的だと錯覚する存在。

 

その理論の延長線上に自分が置かれている気がして、喉の奥がひりつく。

 

「……なに」

 

思わず低く問う。

妹は瞬きを一つするだけで、表情を変えない。

 

「姉さまはどう思われますか」

 

柔らかな声音。しかし問いの奥にあるものは少しも柔らかくない。自分もまた、刺激配列の中にいるのだと示唆されているようで胸の奥に苦い拒否感が広がる。

 

学習するように。

反応を測定するように。

 

シャオイェンは無意識に一歩下がる。

 

小動物が走る音が、やけに大きく響いた。

 

「……私は、あんたの実験動物じゃない」

 

口に出した瞬間、空気が張り詰める。

妹は、僅かに首を傾げた。

 

「そのような意図はございません」

 

穏やかな否定。だがその視線は何処か異質で、認めがたいものだった。

 

拒否感が胸を満たしていく。理論の対象として並べられる事への生理的な反発。理解しようとする視線ではなく、何かに定義しようとする科学者特有の視線が嫌で堪らなかった。

 

研究室の白い光がやけに眩しく感じられる。小動物は枠の中で選択を繰り返している。出口が用意されていると知らずに。

 

はたして自分は違うと言い切れるだろうか?

 

そう思った瞬間、その日を境にルアン・メェイを名乗るようになった妹の口元が微かに笑った気がして、背筋に冷たいものが走った。

 

 

 

「……っ」

 

雪の降るベロブルグの街で、シャオイェンは思わず両腕を抱きしめた。

 

吐息が白く空へ溶ける。街灯に照らされた雪片がゆっくりと舞い落ち石畳を淡く覆っていく。わざわざ新しく防寒具を用意した筈なのに。それでも骨の奥まで冷えるような薄ら寒さが身体の芯にまで入り込んでくるようだった。

 

あの実験は比喩ではなかったのだと、今なら分かる。

 

妹は小動物を見ていた。だが同時に、別の何かも見ていた。

 

枠組みを与えられた存在。

選択していると信じる存在。

 

その延長線上に自分が置かれていたのだと気付いた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。

 

街を歩く人々の足音。遠くで響く機械音と振動。寒冷地特有の重たい空気。それら全てが静まり返った観測空間のように感じられる。

 

視線。

 

振り返っても誰もいない。それでも確かに、何処かから見られているような気がしてしまう。

 

「……考えすぎだってば」

 

自分に言い聞かせる。

だが、否定すればするほど、あの穏やかな声が蘇るのだ。

 

――選択肢という枠組みを与えられると、自立した個であると錯覚する。

 

ここを選んだのは自分だ。

寒さを理由に滞在期間を短く設定したのも自分。

 

だがそれすら、妹の言う予測可能な傾向だったとしたら……。もはや厚い雲に覆われた灰色の空が閉ざされた天蓋のように思えてならない。

 

 

結局、予定よりも3日早く街を離れた。

 

寒さよりも見えない視線の方が耐え難かった。シャトルへ向かう途中、足跡が雪に刻まれる。振り返ればそこに自分の軌跡がはっきり残っている。

 

雪が降り積もるまで暫くは消えないだろう。

その事実が胸の奥をじわりと締め付けた。

 

 

 

 

■ 仙舟「羅浮」

 

 

次に向かったのは、長命種の住むと言われる巨大な船。

 

仙舟・羅浮。

 

朱塗りの柱が規則正しく並び、空に浮かぶ回廊が幾重にも交差している。風鈴の音が澄んだ空気を震わせ、どこか時間の流れが緩やかに溶けていくような心地があった。ヤリーロⅥの凍てつく寒さとは違い、ここには柔らかな湿り気と人の体温がある。

 

シャオイェンは市場を歩く。

 

香草の匂いが鼻をくすぐり、湯気の立つ料理が並ぶ屋台の前をゆっくりと通り過ぎる。人々の声は穏やかで、どこか余裕を帯びている。長命種の時間感覚がそうさせるのか、街全体の時間が酷く緩徐的だった。

 

その温度が胸の奥を僅かに締め付ける。

懐かしい、という感覚。

 

もし妹が研究に取り憑かれなければ。

あるいは両親が死ななければ。

 

そんな仮定は意味がないと頭では理解している。それでもこうして穏やかな日常の中に身を置くと、どうしても思考は勝手に過去へと滑っていってしまう。

 

 

4日目。

 

特別なことは何もしていない。朝は遅く起き、適当に食べ、回廊を歩き、夜は宿に戻る。自堕落とも言える羅浮の生活に、少しずつ身体が馴染み始めていた。

 

ここなら全てを忘れられるかもしれない。

そう思いかけていた矢先だった。

 

街角の大型端末が光りなんて事のないニュース速報を流し始める。通り過ぎようとしていた足がとある言葉に引き止められた。

 

淡々とした声。

抑揚のない、理知的な語り口。

聞き覚えがある、その美しい声に。

 

「対象個体が回避行動を選択した場合、追跡点を外部環境に設定するのは適切ではありません。制御変数を個体内部の動機系に配置することで、行動軌道は自律的に基準状態へと回帰します」

 

世界の音が遠のいた。乾いた喉に空気を取り込んだ所為で激しく咳き込んでしまう。周囲の視線が一瞬向けられるが、そんなことはどうでもいい。

 

鼓動が急速に速まる。

 

観測点はどこにあるのか。何気なく呟いたあの言葉への返答のように、その文章が深く胸に突き刺さる。偶然だと否定するにはあまりに直接的だった。

 

内側。

内側とは、どこだ。

 

嫌な汗が背中を伝う。羅浮の柔らかな空気が急に薄く感じられた。映像は既に次の話題へ移っている。それでも耳鳴りのように言葉が残り続ける。

 

他にはなんと言っていた? ほんの数秒前の出来事の筈なのにまったく思い出せない。この凡人の脳は理解できない情報として、恐怖という感情だけを残して、後は綺麗さっぱり消してしまったらしい。

 

宿に戻る足取りは早かった。回廊の朱色がやけに鮮やかで風鈴の音が遠く感じる。部屋に入り、扉を閉め、背を預ける。

 

静寂。

 

その夜、夢を見た。

 

目の前には出口がいくつもあり、自分は透明な箱の中に立っている。

 

一つを選ぶ、開く。

だがその先は最初の位置へと繋がっていた。

 

また別の出口を選ぶ。

これも同じだ。

 

選び続ける。

選び続ける。

選び続ける。

選び続ける。

 

疲れて眠った。

 

選び続ける。

また選ぶ。

 

選び続ける。

選び続ける。

選び続ける。

 

選び続けて、ようやく気付く。

きっともう外へは出られない。

 

そこでふと、上から静かな視線が降りてくる。

甘い焼き菓子の匂いを漂わせた、どろどろとした恐怖を煮詰めた美しい瞳が――

 

 

 

 

 

目が覚めた瞬間激しく息を吸い込む。

 

額に汗が滲んでいる。部屋は暗く、外では羅浮の夜が静かに流れている。

 

心臓がうるさいほどに脈打つ。夢だと理解しても胸の奥の冷たさは消えない。

 

 

観測点は、どこにあるのか。

その問いだけが、暗闇の中で繰り返し響いていた。

 

結局、夜明けを待たずして羅浮を出立した。

 

 

 

 

 

■ ピノコニー

 

次に辿り着いたのは、夢の星とも呼ばれるピノコニーだった。

 

ネオンと眩い光が揺れ、軽快な音楽が絶え間なく流れている。街は常に祝祭の色を帯び、誰もが仮面を被るように役割を演じ、甘い現実が柔らかく溶け合っている。ここでは素顔でいる方が異物なのだろうか。

 

夢境ホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、甘い菓子の香りが鼻先を掠めた。

 

心臓が一瞬、強く跳ねる。

 

反射的に首を振る。彼女がここに居る筈はない。

 

思い出すのは、研究室の片隅に置かれた小さなオーブン。無機質な実験台の横で、刺繍枠を膝に乗せながら焼き上がりを待つ妹の姿。冷たい蛍光灯の下で、あの空間だけが僅かに温度を一定に保っていた。

 

「姉さま、温かいものは温かいうちに」

 

柔らかな声が夢と現実の境界を越えて蘇る。

その記憶を振り払うように、シャオイェンは自分の部屋へと向かった。

 

その夜。

 

窓辺に立ち、色とりどりに輝くネオンを見下ろす。塔の光が明滅し、遠くの観覧車がゆっくりと回転していた。街全体が夢の膜に包まれているように穏やかで、支払った途方もない値段に値する夢の様な絶景であるように思える。

 

箱の中の小動物と自分とでは何が違うのだろう。

胸の奥がじわじわと締めつけられる答えのない課題に頭を悩ませる。呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥で響く。

 

その瞬間、端末が短く震えた。

 

登録した覚えのない送信元。

さぁ、と血の気が引いていく。

 

冷えた指で端末のロックを外し、本文を確認する。

 

 

姉さま。夢は神経系を一時的に活性化させる糖質のようなものです。しかし個体を構築するのは、現実という持続的な栄養源が必要です。

 

 

 

その一文を読んだ瞬間、視界が僅かに揺れた気がした。喉の奥がひりつき、指先が温度を失ったかのように冷たい。端末を持つ手に力が入らない。

 

震える指で添付画像を開いた。

そこに映っていたのは、数日前に滞在していた羅浮で食べた豆腐料理だった。

 

白く柔らかな表面に刻まれた香草。湯気が立ち上り、琥珀色の餡がとろりと掛かっている。器の縁に入った細かな模様まではっきりと写っている。あの市場の奥、柱の影にあった小さな店。

 

4日目の昼。香草の匂いに何処か家の記憶を重ねながら自分は一人でそこに座り、何を考えるでもなく箸を動かしていたのだ。

 

 

喉が乾いて仕方がない。指先が震える。

 

追伸。

 

 

次の分岐点において、どの経路を選択なさいますか?

 

 

 

甘く、どろりとした瞳が脳裏に浮かぶ。

 

温度を帯びた視線。責めるでもなく、急かすでもなくただ穏やかにこちら側を見つめる視線。

 

シャオイェンは窓から視線を外せなくなった。ネオンが瞬き、塔の光が規則的に明滅している。遠くで笑い声が上がり、音楽が低く響く。祝祭の星は眠らない。

 

それなのに背後から誰かに見られているような錯覚が皮膚の上を這う。振り向けば何もないと分かっている。それでも振り向けない。

 

出口。

 

この星にも、いくつものシャトル発着場がある。いくつもの航路。無数に存在する次の目的地。

 

選べる。選べる筈だ。だがその選択肢が既に提示された枠組みの中にあるのだとしたら……。

 

夢の星は眩しい。

光は甘く、柔らかく全てを包み込む。

 

だがその光は逃げ場を照らす為のものではないのかもしれない。むしろ影を消し、足取りを明確にする為の照明。

 

目に見えない煙のような何かにいつ絡め取られてもおかしくない気がした。

 

今度は1日と経たずにピノコニーを後にした。




自分で書いておいて徐々にルアン・メェイが怖くなってきました。当初ここまでホラーテイストにするつもりはなかったというのに……。

次回からは積極的に色んな人物と関わっていただこうかと思います。
感想などもいただけると嬉しいです。

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