誰か妹から逃げる方法を教えてくれ   作:ヘルタ様万歳

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アンケートの結果がまさかのヘルタ圧勝で、思わず笑ってしまいました。
というわけで、さっそくヘルタを登場させてみました。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。


親指を折り曲げる。残りの指を曲げ、親指を包む。

 

 

もはや航路など意味を持たない。

 

あの天才のことだ。どうせ全て把握しているのだろう。

 

いつか追いつかれることを想定し何度も描き直してきた軌道図。数多の寄り道と撹乱。予測から外れようとした軌跡さえ、結局は彼女の観測範囲の内側に過ぎなかった。遠回りを積み重ねてきた時間そのものが今になって途端に滑稽に思えてくる。

 

逃げるという行為そのものがデータとして吐き捨てられるのなら、隠蔽など最初から成立していない。軌道の撹乱も、滞在の不規則さも。ただ情報や傾向を示す指標に過ぎなかったのかもしれない。

 

ならばいっそ最初から想定していた場所へ行こう。

 

妹と同質の天才が存在する場所――宇宙ステーション「ヘルタ」。

 

 

 

白い通路に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が僅かに変わったように感じられた。

 

湿度も温度も均質に制御されており、遠くで稼働する設備の低い振動が金属骨格の内部を規則正しく伝っている。ピノコニーの光が感情を撹拌する舞台装置だとすれば、ここは思考を沈め沈殿させるための密閉容器のように思えた。

 

装飾の削ぎ落とされた空間に微かな既視感が胸を掠める。研究室。無機質な白。一定の周期で鳴る機械音。懐かしさに似た感覚と同時に身体が重くなっていく。

 

受付を通した後、アスター所長への取り次ぎは驚くほど滞りなく進んだ。それからとんとん拍子にミス・ヘルタへの面会が取りなされた。

 

 

 

 

 

 

 

「……ここが」

 

ふと、扉の前で立ち止まる。

 

その時になって初めて自分の呼吸が浅くなっている事に気付き、胸の奥が僅かに傷み始める、どこか覚えのある感覚と早鐘を打つ鼓動。緊張だけでは説明できない重さが静かに内側へ沈んでいくようだった。

 

思考が形を結ぶ前に扉が音もなく開いた。

 

僅かな駆動音がやけに大きく響く。その音に意識を切り替え、背筋を伸ばした。揺らぎを押し込めるように一度だけ咳払いをしながら、ようやく少し呼吸が楽になった。

 

両開きの扉は一定の距離まで近づくと自動で左右へと退いた。

 

室内は静まり返っている。白を基調とした空間に余計な装飾はない。研究設備も端末も、必要最小限の配置で整然と並んでいる。その中央、一際簡素な椅子に人形体の一つが腰掛けていた。

 

脚を組み、肘掛けに頬を預けるその姿はいかにも退屈そうだ。紫の瞳だけが生き物のように光を宿している。

 

天才クラブ♯83、ミス・ヘルタ。

 

この宇宙ステーション「ヘルタ」の所有主にして、幾多の理論と発明を世に送り出してきた存在。曰く、己を天才と断言しそれを疑わない傲慢さとそれに見合うだけの実績を持つ科学者。妹と同じ、天才である。

 

 

「へえ」

 

深いアメジストの瞳が、ゆっくりとこちらをなぞる。不思議と嫌な気分にはならず、促されるままに対面のソファへと腰を下ろした。

 

人形体の指先が肘掛けをトントンと軽く叩く。その律動は一定で、退屈を紛らわせるためというより観測結果を内部で整理するための癖のように思えた。

 

「珍しい顔だね。私に会いに来る人間は、もっと露骨に緊張するものだけど」

 

声音は軽い。だがその奥に潜む気配は刃物のように鋭かった。心拍の揺らぎ、瞳孔の収縮、呼吸の深度──その全てを何かと比較しているようだった。

 

白い室内は無音に近い。壁面に走る淡い光帯だけが宇宙ステーションが稼働している事を示しており、遠くで低く鳴る設備音が金属骨格を通じて微細な振動を伝えてくる。

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 

緊張を悟られまいと声は平静を保とうとするも、自分でも分かるほど喉が乾いていた。噂には聞いていたが、ミス・ヘルタがこんなにも可愛らしい少女だとは思わなかったのだ。

 

「謝辞はいらないよ」

 

ヘルタは脚を組み替える。アメジストの瞳が僅かに細まった。

 

「面白そうな案件だったから、話くらいは聞いてあげようと思っただけ。つまりただの気紛れ。この気紛れがいつまで続くかは保証しない。それで、本題は?」

 

無駄を削ぎ落とした声音。会話を飾る余白は与えられず、空気がほんの僅かに張り詰める。目の前にいるのは妹と同質の存在。理屈を愛し、未知を求める者。その在り方があまりにも重なってしまう。

 

白い壁に反射する光が微かに揺らいだように見えた。

それが錯覚なのか、自分の視界の歪みなのかは判断はつかない。

 

シャオイェンはアメジストの瞳から視線を逸らさず、背筋を伸ばし、呼吸を整える。

 

この扉をくぐった時点で引き返す余地はほとんど残っていないのだから。

 

静かな機械音の奥で星間航路を漂う微振動が続いている。この宇宙そのものが、巨大な観測装置のように思えた。

 

そして──

 

シャオイェンは口を開いた。

 

 

 

「ある一定の時間だけで構いません。私の保護をお願いしたいのです」

 

言葉を口にした瞬間、室内の空気がずん、と重くなる。

 

白く均質な光が二人の間に影を落としている。感情の揺らぎすら暴かれるような鋭い眼光から視線を逸らさず務める。

 

ヘルタの紫の瞳が、ゆっくりと細まった。

 

その変化は僅かだが、退屈そうにリズムを刻んでいた指先の動きが止まった。観測の焦点が一点に絞られたのが空気の張り詰め方で分かる。

 

「ふぅん? でも貴女を匿うのは反対かな。私には何の得もないし、むしろ貴女を匿ったりなんかしたらルアン・メェイと衝突してしまうかもしれない」

 

一瞬だけ感情が揺れる。断られた事への焦りではない。むしろ当然だという納得。自分は厄介事でしかないと何処かで分かっていた。それでも退く訳にはいかないのだ。

 

「私はスターピースカンパニーの研究予算審査を通しやすくできます。技術開発部とのパイプもある。資金と実装の両面で、貴女の研究の摩擦を確実に減らす事ができます」

 

条件を提示する声は意図的に平板に整えられていた。情に訴えるより、取引として成立させる方がまだ望みがある。

 

しかしヘルタは鼻で笑う。

 

「お金で私を動かすつもり? そんなの、貴女がいなくたって何とかなる話だよ」

 

これもあっさりと切り捨てられる。

 

予想していなかった訳ではない。むしろその反応は想定内だった。それでも紫の瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ“軽い失望”を、シャオイェンは見逃さなかった。

 

——つまらない、と言いたいのだろう。

 

もっと未知で。もっと危険で。もっと天才の好奇心を刺激する何かを期待していたのだろう。その気配が、欠伸を飲み込むような仕草の奥に滲んでいる。

 

凡庸なカードを切った自覚はある。

 

だが、それでいい。最初から、それが本命ではない。

 

シャオイェンは動じなかった。落胆も焦燥も表に出さない。呼吸を一定に保ち、肩の力を抜いた。ここで取り乱せば、それこそ彼女からの興味を失ってしまう。

 

白い室内に、短い沈黙が落ちる。

 

設備の低い振動音だけが空間を満たしている。人工重力の均衡がやけに強く足裏を意識させる。

 

シャオイェンは、紫の瞳を真正面から受け止めていた。

 

「そうでしょうね。こんなハリボテのカードで貴女の手を借りようなどとは思っていません」

 

沈黙の中で、彼女は次の一手を測っていた。観測される側でありながら、それでも選ぶのは自分だと証明するために。

 

「そんなに彼女から逃げたいの?」

 

ヘルタの質問に、シャオイェンは首を横に振った。

 

「いいえ」

 

逃げたいのではない。結果的にそうなってしまってはいるが、少なくともそれだけではない。

 

「私はただ、私という限定的な世界ではなく、もっと広い世界をあの子に見つめてほしいんです」

 

言葉が静かな室内に落ちる。発した直後、シャオイェンは僅かに目を伏せた。

 

——違う。

 

用意していた台詞はもっと取引として合理性のある言葉だった筈だ。互いの妥協点を定め、相手の利害に結びつく説明をするつもりだった。こんな風に感情をむき出しにする予定などなかった。

 

それなのに、口から出たのはあまりにも個人的で、あまりにも主観的な願いだった。胸の奥がじわりと熱を持つ。

 

恥ずかしい。

 

まるで正論を装うこともできずに本音を零してしまった子供のようだ。天才を相手にしているというのに、論理でもなく、証明もなく、ただの「願い」を提示してしまった。

 

視線を上げる勇気が、一瞬だけ鈍る。

 

ヘルタにどう映っただろうか。滑稽か。甘さか。あるいは非合理の典型か。心拍が、僅かに強まる。

 

シャオイェンはゆっくりと顔を上げた。

 

頬の内側がじんと熱いのを気付かない振りをしながら、それでも視線だけは逸らさなかった。己の未熟さを自覚しながら、シャオイェンは天才の紫の瞳をまっすぐに受け止め、ヘルタの方へ一歩距離を詰めた。

 

室内に微かな振動が走り、シャオイェンは通信遮断フィールドを展開した。

 

ヘルタは止めない。むしろ楽しそうに笑みを浮かべていた。

 

——ようやく本題か。

 

シャオイェンは身を屈め、耳元に極めて小さな声で何かを告げる。ヘルタの瞳が徐々に驚愕へと見開かれた。

 

それから、次の瞬間には純粋な研究者の興奮へと変わっていた。

 

「……貴女、よくそんな状態でここまで来れたね」

 

純粋な驚き。そして、ほんの僅かな敬意。人工皮膚の人形体が発するわずかな軋みが、静かな室内に溶ける。紫の瞳が細くなり、思考が高速で巡っているのが視線だけで分かる。

 

「いいよ。こちらの条件を呑むなら、貴女のその厄介な状態を“解決”してあげてもいい」

 

ヘルタの言葉に、シャオイェンはゆっくりと息を吐いた。

 

拒絶される覚悟はしていた。

観測対象として冷酷に扱われる覚悟も。

 

だが提示されたのは対等な取引だった。ミス・ヘルタは噂のように冷酷な人物ではないのかもしれない。

 

「誤解しないで。私は慈善事業をする趣味はないの。未知の症例は嫌いじゃないし、前例のない構造はとても興味深い。私の知的好奇心に見合うだけの価値があると判断したから受けるだけ」

 

紫の瞳が、ほんの僅かに揺れた。

 

「それに、貴女に興味があるの。あのルアン・メェイと同じ遺伝子を持って生まれておいて、凡人のまま彼女の隣に居られた貴女が」

 

シャオイェンの喉が微かに震える。

 

凡人。

 

その単語は、彼女自身が最もよく知っている事実だった。妹と比べれば理解の速度や、視野の広さ。思考の跳躍も遠く及ばない。並んで立っているつもりでも、いつの間にか置き去りにされている感覚は何度も味わってきた。

 

それでも隣に居た。

居続けた。

 

「天才は往々にして孤独なものだよ。理解されない。目線が交わらない。だって存在しているテクスチャーが違うんだから当たり前だよね」

 

紫の瞳が、どこか遠くを見る。その声には僅かな実感が伴っている気がした。

 

「ねぇ、ずるいと思わない?」

 

ふっと、笑う。

 

「彼女は貴女みたいな“貴重な普通の人”を独り占めしていたんだから」

 

その言葉にシャオイェンは一瞬だけ目を見開いた。

 

貴重な、普通。今までそう言われたことはない。

 

凡庸であることは劣っていることだとばかり思っていた。理解できないことは恥であり、置いていかれる最たる理由だと。

 

「私は、普通であることを、誇ったことはありません」

 

声が、少しだけ掠れる。

 

「でしょうね。でも彼女は違った筈だよ。ルアン・メェイは如何にも自分が理解できないものに執着するタイプだよね」

 

思い当たる節がないわけではない。

 

理屈で説明できない問いをぶつけられた夜。

感情の応答を求められた瞬間。

理解されないまま、見つめられ続けた視線。

 

 

「でも疑問もある。本来ならこれは彼女の分野の筈。どうして言わなかったの?」

 

シャオイェンは直ぐには答えなかった。どこから切り出せばいいのか分からなかったからだ。

 

「……ねぇ、もしかして貴女」

 

声の温度が、ほんの僅かに下がる。自嘲気味に微笑んだシャオイェンの顔に推測が核心へと近付いていく。

 

その瞬間、シャオイェンは顔を上げた。

 

「私はただ、人として生きて、人として死にたいだけです」

 

生きることも、終わることも、自分の輪郭のままであること。誰かの理論の中に組み込まれた最適解ではなく、ただ在るべき姿でそこに存在すること。

 

それは特別な願いではない。本来なら説明すら不要なあまりにも当然の願い。しかし彼女は知っている。

 

他でもない妹の手によって、それが叶わない可能性を。

 

ルアン・メェイは救うだろう。徹底的に、誠実に、完璧に。身体を解析し、構造を把握し、最適な処置を選択する。そこに悪意はない。むしろ純粋な愛情。

 

しかしあの澄んだ不理解の中で、自分の弱さや浅ましさまで透過してしまうことがただ恐ろしかった。

 

 

解析され、言語化され、整理される。

「姉」という曖昧で不完全な存在が、整然とした構造へと変換されていく。その時に果たして彼女の目にきちんと姉として映るだろうか?

 

「肉体が崩れることよりも、自分が跡形もなく溶かされてしまう事が何よりも恐ろしかった」

 

声は、わずかに掠れていた。

 

不要と判断された部分を削ぎ落とされ最適化されていく過程。その先に出来上がった存在は、果たして“自分”と言えるのだろうか。

 

白い室内は静まり返っている。機械の低い振動だけが宇宙ステーションの鼓動のように響く。

 

「生き方と死に方を選ぶ権利は、人が心を有する限り認められるべき原理だよ。効率よりも優先されるものがある。私はそれを否定しない」

 

紫の瞳が、再び開く。

 

「彼女がどれだけ優秀でも、貴女の終わりを設計する権利までは持っていない。少なくとも、貴女がそれを望まない限りはね」

 

奪われない領域がある、と断言する声音。まさか肯定されるとは思っていなかった。愚かだと笑われる覚悟も、非合理だと切り捨てられる可能性も想定していた。天才の前では、自分の願いなど感傷に過ぎないと。

 

だがヘルタは否定しなかった。

 

冷え切っていた内側に微かな火がともるように、胸の奥に僅かな温度が灯るようだった。

 

シャオイェンは、自分がほんの少しだけ救われたことを、自覚していた。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

その日の夜。

 

宇宙ステーション「ヘルタ」の窓の外には、輝く星々が広がっていた。

 

一色に塗り潰された黒の中に散る光はあまりにも整然としていて、あまりにも遠い。瞬きもせずに並ぶ星々はまるで感情というものを持たない観測点の集合のようだった。じっと眺めていると、自分だけがこの宇宙に取り残されたような錯覚に襲われてしまう。

 

音はない。

空気は一定。

温度も湿度もまるで揺らがない。

 

割り当てられた個室は実に簡素だった。白い壁、効率的に設計された家具。空調を管理する端末。過不足なく整えられた空間は安心を与える筈なのに、どこか既視感があって落ち着かなかった。

 

研究室の白。

無機質な光。

感情よりも機能を優先した空間。

 

――似ている。

胸の奥に、薄く痛みが走る。

 

端末が微かに震えた。その振動は小さいのに、やけに大きく感じられる。

画面に表示された名前を見た瞬間、ああ、やっぱり。という感情が首をもたげる。

 

 

――ルアン・メェイ。

 

もはや躊躇はない。通知を開く指は、迷いなく滑る。

 

 

『姉さま。宇宙ステーション「ヘルタ」に到着されたのですね』

 

挨拶も前置きもない。当たり前のように居場所を把握している事についてはもはや慣れてしまった。人間とは案外順応が早いのだろう。

 

 

『ヘルタとは接触した際、通信遮断フィールドを使ったのですね。彼女とは一体、どのような話していたのですか?』

 

『別に、ほんの世間話だよ』

 

嘘ではない。少なくとも全てを話す必要はないだろう。

 

『姉さまは、私から逃げるために彼女を選んだのですか?』

 

『姉さまを他でもない彼女に取られるのは、困ります』

 

 

 

「……ぷっ、……はは」

 

思わず、喉の奥から小さな笑いが零れた。なんて子供じみた言い回しだろうか。

 

取られる、なんて。あの天才が。宇宙の構造を分解し、生命の秘密を解き明かし、片手間に辿り着く理論で世界を塗り替える存在が、こんな風に感情をむき出しにするなんて。

 

口元が自然と緩む。

 

その一瞬だけ、在りし日に巻き戻ったかのようにどうしようもない懐かしさに胸が締め付けられる。

 

研究室で無言のまま紅茶を淹れていた夜。

 

湯気の向こうで難解な理論を解きほぐしながらこちらを見上げた瞬間。

 

お菓子を頬張り、頬の端にほんの僅かに朱が混じった顔。

 

あの時も、言葉の裏にある感情を隠しきれていなかった。

 

焦っている。あの冷静な存在が、まるで子供のように。彼女の中に人間性を垣間見た気がして胸の奥がじわりと温かくなる。

 

指先で、ゆっくりと文字を打つ。返信する事に躊躇はないが、慎重にはなってしまう。画面の向こうできっと真剣に待っている筈だから。

 

シャオイェンは、短く息を吐いてから、言葉を綴り始めた。

 

『取られる、なんて言い方はやめなさい。彼女とは少し話しただけだよ』

 

送信と同時に既読がつく。

返事は間を置かずに返ってきた。

 

『では、どう表現すれば適切ですか。ヘルタと姉さまを共有するなんて納得がいきません』

 

「……共有って」

 

冗談なのか、本気なのか。

 

だが、どちらにせよその言葉の裏にあるその感情は碌でもない。嫉妬、独占欲。排他性。可愛らしい響きなど一つもない。

 

『落ち着きなさい。そもそも私はあんたの物じゃない』

 

指先が、ほんの少しだけ強く画面を叩く。本当はもう少し柔らかく言うこともできた。冗談で受け流すことも、安心させる言葉を選ぶことも出来る。しかし優しさで曖昧にしてきた結果が今なのだ。

 

彼女の心に水をやり続け、自分の不安を無理やりに飲み込み“姉”という役割で包み込む振りをしてきた。それが正しかったのかどうか今となっては分からない。だが少なくとも、これ以上は優しい言葉だけを並べることはしないと決めたのだ。

 

たとえ嫌われたり、傷付けてしまうとしても。最後には決別の言葉を用意しなくてはならない。猶予もあまり残されていない。決して時間は待ってはくれないから。

 

画面の向こうで、沈黙が続く。

 

 

『今からそちらに向かいます』

 

『だからやめなさいってば。ミス・ヘルタと衝突するのは合理的じゃないって分かってるでしょ?』

 

聞く耳を持たない妹に叱るような口調。焦ってはいるものの、なんだかこの空気が嫌いにはなれなかった。

 

『今、合理性の話はしていません』

 

間髪入れずに返ってくる。思わず笑ってしまいそうになる。科学者然とした彼女が合理性を切り捨てるなんて。

 

『姉さまがそこにいるなら、私もそちらへ向かいます』

 

 

『だからどうしてそういう話に――』

 

途中まで打った指がふいに止まる。

 

突然、胸の中央が鈍く痛み始めた。まるで内側から掴まれ、心臓を直接握り潰されるような圧迫感。

 

「……っ」

 

端末が手から滑りそうになる。その場に崩れ落ち、胸元を押さえても痛みは続く。

 

内部で何かが軋み、決定的な何かがほどけていくような感覚。繋ぎ止めていた糸が一本ずつバラバラに千切れていくような喪失感で嫌な汗が体中から噴き出しては、視界の端がブラックアウトするかのように徐々に暗くなっていく。瞼が落ちかけているのだと数秒してから気付き、自嘲気味に笑いがこみ上げてきた。

 

慣れ親しんだ症状なのに、今でもやはり恐怖で頬が引き攣ってしまう。こんなにボロボロになってまで、まだ生きたいと願うのは彼女とまだ過ごしていたいと思っているからだろうか。

 

指先が震える。

 

たどたどしい手付きで鞄を探り、薬瓶を掴む。

 

蓋が、うまく回らない。

焦りが指の動きを狂わせる。

 

ようやく開け、3粒ほど口に放り、水で流し込む。

 

喉を通る感覚が、やけに遅い。錠剤が喉の途中で引っかかっているような違和感が消えない。

端末はベッドの端に転がり、ポコポコと通知が増えていく。

 

『姉さま?』

 

『どうしたのですか』

 

『返事をしてください』

 

 

視界が歪む。白い壁が水面のようにゆらゆらと揺れる。ベッドへ辿り着くまでの距離が異様に長い。なんとかして身体を横たえる。

 

天井が、遠い。

呼吸を整える、整えなければ。

 

胸の痛みが少しずつ鈍くなっていく。

ようやく薬が効いてきたようだった。

 

 

端末が再び震える。

 

『今すぐそちらへ向かいます』

 

その文字をぼんやりと眺める。来させる訳にはいかない。それでも身体が動かない。指一本すら思うようにならない。もう限界だ。薄く目を閉じる。

 

痛みや恐怖よりも、彼女をここへ呼び寄せてしまうことの方がよほど耐え難いのに。

 

――こんな、弱い姿を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは妹が両親の名前を名乗り始めて間もない頃だった。

 

夜の研究室は薄暗く、白い照明だけが無機質に机を照らしていた。実験台の上には未整理の資料が広がり、甘い焼き菓子の匂いがインクと薬品の匂いに混ざり合い辺りに独特な雰囲気を漂わせていた。

 

声を荒らげたのはその日が初めてだった。

 

本当は怒鳴るつもりなどなかった。目的の為なら自分自身をも捨ててしまえる行動がただ悲しくて、止めたかった。けれど頑として譲らない妹に、次第に言葉は鋭くなってしまった。驚いて目を見開いた妹の表情が今でも脳裏に焼き付いて離れない。

 

あの日、互いに支え合って生きると誓ってからこんな衝突は一度もなかった。両親の名を継ぐ覚悟までは理解できた。だが同意もなしに、食事に薬を混ぜ、記憶から元の名を奪い去るという行為だけはどうしても受け入れられなかった。たった一人の妹の名すらもう呼べないという事実がシャオイェンを惨めにさせた。白く無機質な部屋が妹の本質を語っているようで落ち着かない。

 

 

「姉さま」

 

呼ばれて振り向いた瞬間、思っていたよりもずっと近くに妹がいることに気付く。

 

「しばらく1人にしてって言ったで…っ、!?」

 

しかし距離を認識するより早く自身の背中が机へと押さえ付けられた。書類が床に散る音がやけに遠く聞こえ、視界の端に白い天井が映る。その向こうから澄みきった瞳がこちらを静かに見下ろしていた。

 

感情をほとんど映さないその瞳だけが異様に鮮明だった。

 

「……なに、」

 

問いかけようとした瞬間、顔の両側を手のひらで包むように掴まれた。視線を逸らそうとしたシャオイェンを咎める様に指先が顎を掬い上げ、嬉しそうに笑った。逃げ道を塞ぐにはそれで十分だった。何が起きたのか理解が追いつかない。思考が追従する前に視線を絡め取られる。

 

そのまま、唇が重なった。

 

澄んだ瞳は全く微動だにせず、限界まで見開かれたシャオイェンの瞳をただ観察している。驚愕も羞恥も、そこでは生命の反射反応に過ぎないとでもいうように。

 

甘い焼き菓子の匂いが息と共に流れ込み、意識の奥にまで染み込んでくる。やけに鼓動がうるさくて、ただ時間だけが不自然に引き延ばされる。

 

逃げる余地はあった筈なのに、それでも身体は動かなかった。抗うより先に妙な諦念が胸を掠める。ここで抵抗しても何も変わらないのではないかという感覚。生まれて初めての喧嘩をしたという事実が、その罪悪感が足を掴んだのだろう。

 

触れているのは唇だけなのに、支配されているのは呼吸と視線だった。

 

それから数秒。それが永遠にも近い長さを伴って、沈黙の中で続いていく。ルアンは驚くほど落ち着いていた。観測対象の反応を観察する研究者のような視線でこちらの表情を見つめている。

 

 

 

「……やめて」

 

掠れた声が、静まり返った研究室に落ちた。

 

これがルアンにとっての仲直りのつもりなのか。乱れているのは自分の呼吸だけだった。ルアンの吐息は殆ど揺れていない。その差が言葉にならない悔しさとなって胸の奥に滲む。

 

肩を掴み押し返そうとしたが、その手に込められた力は自分でも驚くほど弱い。拒絶の意思を示すには十分だと信じたかった。あるいは怒鳴りつけてしまった過去が全身の力を失わせていたのかもしれない。

 

けれど彼女は動かない。むしろさらに距離を詰めてきた。呼吸が触れ合うほど近い位置から、静かにじっと見下ろしてくる。その視線が身体ではなく思考の退路を塞ぐように熱を帯びていた。

 

また、あの瞳だった。

甘くどろりとした瞳。

 

透明で澄んでいるのにまるで底が見えず、感情を湛えているのに波立たないその顔。

 

一瞬、目を逸らすことすら許されないような錯覚に囚われる。拒絶や迷いも、揺らぎも。すべて徒労に終わるような強制的な支配。

 

 

「姉さまは、私の全てです」

 

静かに、しかし確かな熱を帯びて告げられる。真水のように澄んだ宣言。その純度が何よりも恐ろしく、いっそ憎悪や欲望であれば、拒絶もできただろうに。あまりに真っ直ぐで混じり気がない。

 

この腕の中では自分の選択など何一つ無意味なのか。姉であるという、僅かに残った塵のような自尊心すらこうして溶かされてしまう。

 

つい視線を逸らしてしまう。両親が死んだあの日、もう二度と目を背けないと誓ったのに。

 

 

「もうこれ以上、私から何も奪わないで」

 

言葉は思った通りに並ばない。喉の奥で引っ掛かり、形を失いながら慟哭のように零れ落ちる。

 

室内で響いた僅かな抵抗に、ルアンは不思議そうに首を傾げた。

 

「……姉さまは、私を受け入れてくださいますよね?」

 

本気で理解していない顔だった。強く掴まれているわけではない腕が傷んだ気がして触れられた唇がじんわりと熱を帯び、その熱が罪悪感へと変わる。

 

嫌だったわけではない。それが何よりも厄介で。拒絶しきれない、突き放しきれないこの感情で溺れてしまいそうだった。

 

 

「……限度ってものがあるでしょ」

 

喉の奥が焼けるようだった。

 

「私には、あんたが何をしたいのかも、何が言いたいのかも全然分からない。けれどそれは能力の差なんかじゃない。難しい言葉でもいいから、ちゃんと説明して。私はあんたの姉なんだから」

 

ルアンは数回、瞬きをしてふっと笑みを浮かべた。

 

そこには怒りも困惑もない。ただ観測対象の発言を整理する研究者のように僅かに視線を細めたようだった。

 

研究室の白色光が彼女の頬の輪郭を淡く縁取り、床に散らばった書類の上に静かな影を落としている。外では冷却装置の低い振動音が一定の周期で鳴っていた。

 

「姉さまはいつも“私はあなたの姉である”と仰いますね」

 

声は穏やかで、てんで抑揚がない。

 

「それは血縁関係という不可逆的な事実を基盤と、役割に則った故の発言なのでしょう」

 

ゆっくりと言葉を選びながら、シャオイェンの緩くカールした髪の毛先を弄ぶ。

 

「姉さまは私を保護対象として定義し自身をその責任の主体としました。それは一方的な感情ではなく、構造的な関係の再定義なのでしょう。私と姉さまは元は交わらない別々の糸に過ぎませんでしたから」

 

視線は逸らさず、僅かに首を傾ける。

 

「では、逆に問います。私は姉さまの何に分類される存在なのでしょうか」

 

パチッと明滅し始めた白い光が、彼女の瞳に静かな反射を宿す。

 

「私の認識体系において、姉さまは単なる血縁者ではありません。思考の基準点、行動選択の参照軸、感情による反応の振れ幅に最も強く影響を与える存在です」

 

淡々と告げてくる。

 

 

「両親が亡くなった時、私と姉さまの関係は再定義されました。貴女(・・)が“姉”という役割を主張されるのは構いません。しかし私に与えられるべき役割もまた、再定義されるべきではありませんか?」

 

声は穏やかで語調も変わらない。だが瞳だけは一切逸れることなく真っすぐ見下ろしてくる。問いを投げながらも答えを急かさない。選ぶのはそちらだと言外に告げておきながら、選択肢の外へ出る道だけを塞いでいる。

 

甘く、どろりとした光を湛えたその視線が静かに、確実に、思考の余白を奪っていった。

 

 

「私は姉さまの何ですか。保護対象ですか。観測対象ですか。それとも、排除すべき異常値ですか?」

 

ただ静かに見つめている。その瞳は揺れない。まるで、こちらの感情が実験結果の一部であるかのように。もう言葉は届かないのか。胸の奥が酷く冷えていく。

 

 

「……嫌い、……大嫌いよ。あんたなんか…っ」

 

喉の奥で引き裂かれるように零れた言葉は、憎悪というよりは何処か拙かった。

 

悔しかった。たった一人の妹の心すら理解してやれない自分の至らなさが。こちらを見ているようで、実際には遥か遠い座標を観測しているその異質さに、納得も理解も示せないまま、ただ茫然と立ち尽くしている己の凡庸さが。

 

同じ血を分けているのにどうしてこんなにも遠いのか。この子は、もうとっくに自分の手の届く範囲から出てしまったのに。

 

 

 

「姉さま…」

 

その声は、僅かに震えていた。

 

初めて聞く揺らぎだった。理論で整えられた声音ではなく、どこか拠り所を探すような縋るような響き。その震えを聞いた瞬間、胸の奥が不意に温かくなる。

 

嬉しい、と感じてしまった。

ああ、この子も揺れるのだ、と。

 

完璧に思えた思考も、冷静に見えた視線も。崩れる瞬間があるのだと知れた事がどうしようもなく嬉しかった。

 

理解できない天才ではなく、泣きそうな妹でいてくれたことへの安堵。自分がまだこの子の感情に影響を与えられるのだという細やかな証明。

 

なんて浅はかで、醜悪な心だろうか。

 

ちゃんと愛してあげられなくてごめんなさい。

 

それは妹に向けた謝罪であると同時に、自らが掲げてきた原則を踏み砕く行為だった。

 

姉であると宣言し、親代わりになると決めたあの日。たとえ理解できなくても逃げずに向き合うと決めた筈だった。その誓約を、自分の口で否定している。

 

子供じみている。あまりに幼稚な結論。それでも心の奥底にある本音は一つだった。

 

 

 

――妹の前で死にたくない。

 

 

解析されるように理解され、解体されるように終わりたくはない。衰えも、恐怖も、みっともなさも。すべて因果に還元されて淡々と説明されるのは耐えられない。人間はそんなに単純ではないと教えてあげたかった。

 

それは姉としての矜持なのか。それともただの恐怖なのか。もう自分でも判別がつかない。

 

いや、違う。きっとどちらでもない。

 

本当はもっと卑小で、何処までも浅ましい。そんな醜い本音を暴かれるのが怖いのだ。

 

理屈ではなく弱さから滲み出た選択だと見抜かれることが、立派な姉であろうとした自分が。結局は殻に巣篭ったか弱い姿を隠し騙していたと知られる事こそが。

 

失望されるのが、ただただ怖かったのだ。

 

あの澄んだ瞳に僅かでも軽蔑や失望が宿る瞬間を想像するだけで、肺の奥が締めつけられる様に痛い。自分の弱さが冷静に分類され、静かに理解される未来が何よりも耐え難い。

 

既に奪われたものの大半が取り戻せないのなら、せめて最後に残ったものだけは守りたかった。それが卑怯でも幼稚でも構わない。

 

惨めでもいい。相応しくなくとも構わない。せめて最後まで、姉で居たい。

 

胸の奥で波立つ感情に身を委ねるような感覚。理性は冷えているのに内側だけが熱を帯びている。これは正しい選択ではない。甘い言葉で正当化もできない。それでも自分の意思で決めたのだ。

 

例えこの選択が徒労に終わったとしても。全てが予測の内側で、あの子の掌の上に過ぎなかったとしても。最後の反抗くらいはしなければまったく気が収まらない。

 

 

それが無意味だと分かっていても尚、選ぶ事こそが今の自分に残された唯一の自由だったから。

 

 

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