誰か妹から逃げる方法を教えてくれ   作:ヘルタ様万歳

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白色灯の光が瞼の裏を淡く透かしていた。

 

意識が深い水底から浮かび上がるように、ゆっくりと現実へ引き戻される。消毒液の匂いが鼻腔を満たし、規則正しい電子音が鼓動の代わりのように耳の奥で鳴っている。モニターの淡い光が視界の端で明滅し、時間の流れだけを機械的に告げていた。

 

ここは、恐らく医療区画だろうか。

 

理解が追いつくまでに僅かな空白があった。身体は鉛のように重く、四肢の感覚が鈍い。自分の手足がまるで他人のもののように遠く感じられる。肺は空気を求めて浅く喘ぎ、喉は乾ききってひりついていた。視界は霞み、天井の白が溶けるように滲んでいる。

 

焦点が徐々に結ばれていく。

その瞬間、視界の端に二つの影が映り込んだ。

 

1人は椅子に腰掛け腕を組む小柄な人形体。紫の瞳が冷静に、だが鋭くこちらを観察している。

 

もう一人はベッドの傍らに立っていた。長い髪が静かに肩へ流れ落ち、白い照明を背に澄んだ瞳が揺らぎなくこちらを見下ろしている。

 

ぼんやりとした意識の中で、その姿だけが異様にはっきりと浮かび上がる。

 

何かを言おうとした。声を出そうと、乾いた喉に力を込める。けれど唇は僅かに震えただけで音にはならなかった。

 

視界が再び歪む。頭の奥が鈍く軋み、身体の芯から力が抜けていく。覚醒しかけた意識が再び深い水底へと引きずり込まれていく感覚。

 

駄目だ……、と微かに思う。まだ目を閉じてはいけないと。

それでも抗えない。

 

白い天井が滲み、光が細く遠のく。二つの影も輪郭を失い、淡い光の中へ溶けていく。

 

最後に見えたのは、こちらへ身を乗り出す妹の姿だった。

その名を呼ぶことも叶わぬまま、シャオイェンの意識は静かに途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「予想より進行が早いね」

 

ヘルタの声音は低く、感情の揺らぎを排した観測者のようだった。

 

「……外的要因は?」

 

ルアン・メェイの声は静かだが、張り詰めた緊張が微かに滲む。冷静を装いながらも、奥底では焦燥が渦巻いているのが伝わってきた。

 

「断定は難しいかな。長期的な負荷と急性ストレス……環境変化も影響してるかもしれない」

 

ヘルタは淡々と分析を続ける。紫の瞳が、意識のないシャオイェンの身体へと向けられた。

 

「とはいえ、この段階で崩壊するのは少し想定外かな」

 

ヘルタのその言葉にルアン・メェイの指先が僅かに動いた。白衣の袖が微かに震える。

 

「……安定化処置は」

 

それは掠れた問い。縋るようでありながら、必死に感情を抑え込もうとしているような響きがあった。

 

「私を誰だと思ってるの? とっくに処置済だよ。今は眠ってるだけ。命に別状はない」

 

あくまで平静な返答。すると紫の瞳が一瞬何かに気付いたように揺れた。

 

「彼女が目覚めたみたい。それじゃ、後は任せるね。家族問題に部外者が口出すと碌な結果にならないし」

 

そう言ってヘルタは立ち上がる。紫の瞳が細まり、僅かに皮肉げな笑みが浮かんだ。ルアンは何も答えない。ただ視線を落とし、静かに佇んでいる。ヘルタはそれを気に留めることもなく踵を返した。自動扉が音もなく開き、外光が一瞬だけ室内に流れ込む。

 

やがて再び静寂が訪れる。

医療装置の機械音だけが、淡々と時を刻み続けていた。

 

ふと、ルアンの視線が揺れた。彼女はシャオイェンの瞼が僅かに震え、ゆっくりと開かれたのを見逃さなかった。

 

「……姉さま」

 

呼びかけは静かだった。だがそこに込められた感情は重く隠しきれない。安堵、緊張。押し殺してきた感情が、決壊寸前でせき止められている。

 

ルアン・メェイは一歩、ベッドへ近付く。

 

視界がまだ揺らぐ中、シャオイェンはその輪郭を認識する。逆光に縁取られた妹の姿。かつては遠く感じていたはずの存在が、今はすぐ手の届く距離にある。

 

揺れる瞳。そこにあるのは観測者の様な冷静さの対極にある姿。実に7年振り再会。表情を一目見ただけで心配と、どうしようもない不安が伝わってくる様な気がした。

 

ルアン・メェイはゆっくりと身を屈めた。

 

逃げ場のない視線が重なる。かつて恐れた、どろりと淀んだ執着の光はそこにはない。代わりにあったのは、潤んだ瞳で姉を見つめる、ただの妹の顔だった。

 

「……そんなに」

 

やがてルアン・メェイが小さく息を吸う。

言葉を紡ぐことすら躊躇うように。

 

「そんなに私から逃げたかったのですか」

 

そこに責める響きはない。理解できない痛みと、失うことへの純粋な恐怖。澄んだ瞳の奥に隠しきれない不安が揺れていた。

 

 

「…………」

 

見下ろすその姿は、いつか自分の背後を小さな足音で追いかけてきた少女の面影を残していた。

 

何かを言おうとして、喉が詰まる。

言葉が絡まり、うまく出てこない。

ただ、機械音だけが無機質に時を刻み続けていた。

 

白色灯の眩しさに目を細めながら、シャオイェンはただじっと妹の顔を見上げていた。

 

焦点の定まりきらない視界の中でも、その瞳に宿る感情だけははっきりと分かる。冷静沈着で、理論を優先してきた筈の妹が、今は痛ましいほどの不安を隠せずにいる。その事実が、胸の奥に静かな波紋を広げた。自分は思っていた以上に、彼女の中で大きな存在だったのだと気付かされ、居た堪れなくなる。

 

単なる家族というだけでなく、彼女の世界の重心に近い場所へいつの間にか置かれてしまっていたのだ。

それは誇らしくもあり、どうしようもなく恐ろしかった。

 

終わりへ向かう時間が確実に縮まっている現実を知られてしまえば、きっと妹は迷わないだろう。

 

病理を解析し、必要とあらば肉体の定義すら書き換えるだろう。生体である必要がないと判断すれば、機械や情報、概念的な保存すら選択肢に入れるに違いなかった。結果が伴うならば、その過程など些細なデータの切り端に過ぎないと。

 

しかし、それは救済であると同時にシャオイェンにとっての死でもあった。最適な存在へと均されていく過程の果てに残るものは、果たして自分と呼べるのだろうか、と。

 

人として笑い、迷い、悔やみ、不完全なまま終わる権利すら奪われてしまうのは我慢ならなかった。解析、理解、再構築。そんな風に自分という輪郭が溶解していくのが何よりも恐ろしかった。

 

肉体が崩れる事よりも“姉である自分”が、どこにも残らなくなり、ルアン・メェイの理論の中に吸収され最適化された結果として存在する何かに置き換えられてしまう未来。

 

それは静かな侵食と何が違うというのか。

 

シャオイェンは僅かに目を伏せる。

胸の奥に残る熱が、苦く軋んだ。

 

誰かの設計した結末ではなく。

誰かに保存される存在でもなく。

 

不完全で、愚かで、矛盾だらけのまま。それでも確かに“自分”だったと胸を張れる形で終わりたかった。

 

それは傲慢なのだろうか。

非合理で、非効率で、天才から見れば取るに足らない感傷に過ぎないのかもしれない。

 

それでもこの願いだけはどうしても譲ろうとは思えなかった。

目の前で心配そうに揺れる瞳を見る程に、その決意は強くなる。

 

 

「今でもね」

 

シャオイェンは掠れた息を吐いた。モニターの電子音が静かな室内に規則的に響く。

妹の影が、視界の端で揺れている。

 

選ばなければならない別れの形が、鋭く胸を刺していた。

 

「私はあんたを愛している。どんなに憎もうとしたって無駄だった」

 

胸の奥に沈殿していた感情が、ようやく形を得て外へ零れ落ちる。シャオイェンにとって愛情と憎しみは、綺麗に切り分けられるものではなかった。

 

守りたいと願う気持ちと、壊されてしまいそうな恐怖。理解できない存在への苛立ちと、それでも目を逸らせない愛おしさ。それらは絡み合い、解けず、時間を重ねるほどに複雑な結び目になっていった。

 

憎めば楽になれると思った。

冷たく突き放せば、拒絶してしまえば、姉という役割ごと手放してしまえば。

 

そうすればきっと、この苦しさから自由になれる筈だった。

 

けれど憎しみは愛情を塗り潰してはくれない。覆い隠すことすらできない。どれほど拒もうとしても、胸の奥底に沈んだ温度だけは決して消えなかった。

 

嫌いになれない。

突き放せない。

見捨てられない。

それが何よりも苦しくて、安心した。

 

「お願い」

 

呼吸が浅く震える。指先に残る力を振り絞るように、シャオイェンはルアン・メェイの衣服を掴んだ。

 

「人間のまま死なせて」

 

それは祈りのような声だった。解析される対象としてではなく、最適化される素材としてでもなく。不完全で、愚かで、それでも確かに生きてきた一人の人間としての叫び。喜びも後悔も矛盾も抱えたまま、誰かの理論の中で保管される永遠ではなく、限りある時間の果てにある自然な終わりを願う心。それがどれほど身勝手でも、どれほど非合理でも。彼女にとっては唯一、譲れない願いだった。

 

自然と涙が頬を伝う。

 

それは恐怖故の涙ではない。

愛しているからこそ、差し伸べられた救いを拒まなければならない苦しみの証だった。

 

妹の瞳を、真っ直ぐ見つめる。

 

逃げずに。

逸らさずに。

 

「お願い」

 

「……っ」

 

ルアン・メェイの呼吸が、僅かに乱れた。ほんの微細な変化。普段の彼女を知る者でなければ気付けないほどの誤差。常に一定だったはずの思考速度が揺らぎ、最適解へ至るまでの過程に微かな遅延が生じる。

 

視線が、定まらない。いつもなら観測対象を正確に捉え無駄のない演算で状況を整理する瞳が、今はただ目の前の姉を映したまま答えを導き出せずにいた。胸の奥で、理論と感情が衝突する。

 

助けなければならない。

救える可能性がある。

手段は幾重にも存在する。

自分なら辿り着ける、救える。

 

その確信は揺るがないのに。

 

「どうして……」

 

声が震えた。

 

自身の声帯が正常に制御できない事実に、ルアン・メェイは一瞬だけ強い戸惑いを覚える。

 

冷静になるべきだ。最適な選択を提示し、辛抱強く言葉を尽くせば理解を示してくれるのではないか。故に取り乱すことは非合理で、得策ではない。そう分かってはいても、視界の中心で弱々しく呼吸する姉の姿がルアン・メェイの計算を妨げる。

 

「……私は」

 

初めて味わう、制御不能の逡巡。

指先が、無意識にシーツを強く握りしめる。

 

「どうして……」

 

ルアン・メェイ自身すら知らない感情が胸の内側を満たしていく。

 

守りたい。

だが、傷つけたくない。

 

生かしたい。

望まれない生存に意味はあるのか。

 

最適化できない。

合理化できない。

正解が存在しない。

 

ルアン・メェイは初めて天才である自分が無力である可能性に直面していた。

 

「私は、姉さまを失いたくないです……」

 

ルアン・メェイの唇から零れ落ちた言葉は、これまでのどんな論理よりも脆かった。

 

シャオイェンは一瞬きょとんと目を瞬かせる。

 

——ああ。

喉の奥で、何かがほどけた。張り詰めていた糸が静かに緩んでいく。

 

怖れていたのは、怪物のように変貌した天才だった筈なのに。目の前にいるのは途方に暮れた一人の少女だった。感情を抱えきれず、答えを見つけられず、それでも必死に縋ろうとしている。

 

いつの間にか身長を追い越され、声も落ち着き、表情の揺れさえ表に出さなくなって。どちらが姉なのか分からないほど遠くへ行ってしまったと思っていたのに。中身はあの頃のまま、何も変わらない。

 

母の死を受け止めきれず、強がりながらも夜更けに震えていたあの小さな背中。

シャオイェンの唇が、ふっと綻ぶ。涙とは違う、温かい緩み。

 

呆れと、愛しさと、どうしようもない安堵が混ざった微笑み。

 

「……ほんとに」

 

掠れた声が静かな室内に溶ける。

 

「私はあんたの物じゃない……って言ったって、分かんないよね」

 

諭すような、困ったような声色。2人の間に流れる緊迫した雰囲気はもはや何処にもなかった。

 

シャオイェンはゆっくりと腕を伸ばし、ルアン・メェイを引き寄せるようにそっと抱き締める。思っていたより細い肩。強張っていた身体が、触れた瞬間に僅かに震えた。ルアン・メェイの体温が、布越しに伝わってくる。確かな、ひとの温度。

 

シャオイェンは片手でその後頭部を包み込み、もう片方の手で髪を撫でた。優しく、何度も。幼い頃にそうしていたように。

 

「……よしよし」

 

無意識に零れた声は、ひどく優しい。

胸に顔を埋める妹の気配が、僅かに近付く。

 

昔よりは大きく育ち、とっくに手の中に収まりきらなくなった筈なのに。どうしてか今だけはあの頃と同じ重みのように感じた。

 

守らなければならない存在。

愛してしまった存在。

 

「……大丈夫」

 

自分に言い聞かせるように囁く。

この子は怪物などではない。ただ少し不器用で、愛し方を間違えて、失うのが怖いだけの掛け替えのない妹だと。

 

シャオイェンは静かに目を閉じた。

腕の中の温もりを確かめるように抱きしめていると、その体が逆に強く縋りついてくる。ルアン・メェイの腕がまるで失われるものを繋ぎ止めるかのように、シャオイェンの背へ回されていた。布越しに伝わる体温が、思ったよりも熱を持っていた。胸元に額を押しつけ、擦り寄るように抱き締め返すその仕草は、理論も理性も脱ぎ捨てた、ただの少女のものだった。

 

その重みが、シャオイェンの決意を鈍らせる。

 

このまま何も言わず、ただ抱き締め返して「分かった」と頷いてしまえたならどれほど楽だろう。

 

たったそれだけで救われるのだろう。この子も、自分も。

 

胸の奥で、弱虫の声が耳元で囁く。

——それでいいじゃないか、と。

 

指先に力が入り、0と刻んだ距離が布地と僅かに皺を寄せる。

腕の中の温もりを感じながら、それでも言葉を選ぶ。

 

「……あのさ」

 

声音は優しいまま、どこか遠い。

 

「そんなに長くは生きたくない」

 

抱き締める腕が、ぴくりと強張るのが分かった。それでも続ける。

 

「あんたと同じくらいでいいの。不老不死みたいに何時までも生きなくていい」

 

喉が掠れる。

 

「特別な存在にもなりたくない。ただの人間でいい」

 

それは願いだった。

懇願ではなく、祈りに近い。

 

「朝起きて、ご飯食べて、笑って、少しずつ老いて……そうやって終わりたいの」

 

腕の中の身体が僅かに震える。

シャオイェンはそっとルアン・メェイの髪を撫でた。

 

「それが、私の望み」

 

そして、最後に。

最も重い言葉を落とす。

 

「……だから」

 

一度だけ躊躇い、唇を噛む。

それでも、譲れない想いがあった。

 

「あんたの本当の名前を返して」

 

その瞬間にさっと空気が凍りついた。抱き締める力が目に見えて強まり、胸元に押し付けられた額から、息の震えが伝わってくる。

 

「あんたにとってどうかは分からないし、どんな想いで捨てたのかは分からないけどね。私にとっては父さんと母さんから貰った、大事な名前なの」

 

腕の中の天才は何も言わない。ただ、縋るように抱き締める力だけが強くなっていく。まるでその名を取り戻した瞬間、自分という存在の輪郭が崩れてしまうことを恐れているかのように、腕の中でルアン・メェイの身体が僅かに強張った。

 

沈黙。

思考を巡らせている時の癖だった。

 

彼女の指先が布越しにシャオイェンを確かめるように動いた。暫くそうしている内に抱き締める力が一瞬だけ緩んでいき、やがて胸元に押し当てられていた額がゆっくりと離れていった。

 

澄んだ瞳が、真っ直ぐにシャオイェンを捉えた。そこに宿る光は先程までの動揺を引き摺りながらも、確かに理性を取り戻している。

 

 

「私が姉さまを治療することを許容する判断と、私の名前を旧来のものへ回帰させる行為は、因果的にも機能的にもまったく別の問題です。前者は姉さまの生存確率と身体機能の維持に関わる医学的処置の選択であり、後者は私個人の存在定義とアイデンティティに関わる問題です」

 

その奥底には、整理しきれない感情の余熱が残っていた。

 

「よって、両者は交換条件として並列に扱うには不適切です。……私は姉さまを救いたい。それは私の意志であって、取引の材料ではありません。……しかし、私の旧名を返すことが姉さまの望みであるなら、私はそれを、尊重します」

 

その言葉は、彼女の存在の定義と、妹としての感情がせめぎ合った末に辿り着いた、ギリギリの線だったのだろう。今まさに戸惑うような色を隠そうともせず、その澄んだ緑の瞳が揺れ動いている。

 

苦し気に結論を下した妹の言葉を、シャオイェンは静かに受け止めていた。反論しようとするでもなく、遮るでもなく、ただ穏やかに妹を見つめる。

 

やがて、そっと指を伸ばした。絡まりかけた髪を櫛代わりに指先で優しく梳いてやる。絹糸のように滑らかな感触が指の間をすり抜けていく。幼い頃、泣き疲れて眠ってしまった妹の髪を、こうして整えてやった夜を思い出した。

 

あの頃と何も変わらない筈なのに、今では互いの背丈も立場も、あまりにも遠くまで来てしまった。触れているのに時間だけが二人の間に横たわっているような、不思議な隔たりがある。

 

「……あんたって、相変わらず生意気」

 

苦笑混じりの声は、どこか柔らかく掠れていた。少しだけ寂しくて、少しだけ誇らしい。手のかかる妹でいてほしいと思う気持ちと、立派に育ったことへの安堵が綯い交ぜになっている。

 

「理屈は分かるよ。あんたがそうやって考えるのも」

 

指先は止まらない。ゆっくりと確かめるように、繰り返し髪を梳いていく。絹糸のような感触が掌を滑り、触れるたびに遠い日の記憶が蘇る。泣き疲れて眠った夜も、熱にうなされた朝も、こうして撫でれば安心した顔をしていた。

 

「でもね。私にとっては同じなの。名前も、私の限りある命も。あんた自身も、どれか一つを切り分けて考えるなんて、できない」

 

言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。胸の奥に溜まり続けてきた想いが、静かに形を成していく。これは理論の話ではない。正誤でも、効率でもない。

 

人が人として歩む上で決して欠かす事のできない、感情の話だ。

 

「その1。救われる代わりに何かを失うなら、それは私にとって救いじゃない」

 

声は穏やかだが奥底に確かな決意が宿っている。

 

「その2。その過程であんたの姉じゃなくなるなら、それはもう私じゃない」

 

それは理屈をいくら積み重ねても辿り着けない場所にある答えだった。

正しさでも、効率でも、誰かに示せる合理性でもない。長い時間を経て、迷い、傷つき、何度も立ち止まり、それでも手放せなかった想いの末にようやく掴んだ結論。

 

シャオイェンは小さく息を吐く。

胸の奥に溜まっていた重みが、すっと軽くなる。

 

それでも分かっている。これは最適解ではない。感情を削ぎ落とした末に残る整然とした答えではなく、不完全なまま抱え続けてきた、どうしようもなく人間的な想いの形だ。捨てることも、割り切ることもできなかった。だから必死にここまで抱えてきたのだから。

 

「分かりやすい理屈じゃなくてごめん。結局何を伝えたかったのか途中でわかんなくなった」

 

ルアンの指先がほんの僅かに震えた。布地を掴む力が揺らぎ、視線が地面へと落ちる。

 

論理的な反論も、優位性を示す証明も、彼女の頭脳なら瞬時に構築できる。

それなのに、一切の言葉が出てこない。

 

やがて。

 

抱き締めていた腕から、ゆっくりと力が抜けていった。

抗うのを諦めたように、静かな吐息が零れる。

 

「……ずるいです」

 

小さな呟き。降参するように預けられた頭を優しく撫でる。視線は逸らされたまま。けれど横顔には隠しきれない動揺が滲んでいた。理論で武装してきた心の均衡が音もなく崩れていく気配。

 

「そのような事を言われてしまえば、否定することが……出来なくなります」

 

言葉の端が、静かに揺れている。完璧に整えられていた筈の思考の輪郭が、感情という曖昧な熱に溶かされていくようにルアン・メェイの頬をほんのりと赤く染めていた。

 

理論の積層で組み上げられた精神構造が、たった一つの真っ直ぐな言葉によって均衡を崩していく。合理性という装飾を纏い、常に最適解を選び続けてきた存在にとって論理で覆せない想いは未知の領域に等しい。それはまさに、天才としての敗北だったのかもしれない。

 

だが同時に妹としての本心が、初めて理屈よりも前に明確な形を持って表へ現れた瞬間でもあった。感情を後回しにし、理解できる形に分解し、整理し、名付けてから受け入れてきた彼女が、今回は行動する前に戸惑いが露見してしまった。

 

つまり、照れてしまったのだ。

 

“貴女の姉でなくなったなら私ではない”という、あまりにも真っ直ぐで、不器用で、逃げ道のない告白に。理屈では処理できない種類の愛情を真正面から向けられたことに。理解よりも先に熱が胸の奥で膨らみ、行き場を失った感情が頬へ滲み出てしまった。

 

シャオイェンはそんな妹の微笑ましい姿を静かに見つめる。かつて自分の背中を追いかけていた幼い少女の面影と遥か先を歩き続けてきた天才の姿が完全に重なり、微笑みが自然と零れる。指先を伸ばし、もう一度だけ柔らかな髪を撫でた。梳くたびに絡まっていた時間がほどけていくようだった。

 

「ありがと」

 

その短い言葉には長い歳月分の想いが静かに込められている。長く続いたすれ違いがようやくほどけたことを確かめる、小さな合図だった。

 

 

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