誰か妹から逃げる方法を教えてくれ   作:ヘルタ様万歳

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3月8日

 

そこでふと、シャオイェンは不意に何かを思い出したように首を傾げた。和らいでいた表情の奥に、まだ解けずに残っていた疑問が静かに浮かび上がった。

 

「それはそうと、どうして私の居場所がわかったの」

 

それはずっと胸の奥に引っかかっていた疑問だった。あれほど慎重に航路を分散させ、攪乱し、通信も可能な限り遮断していた。見つからないように細心の注意も払った筈なのに、それらを嘲笑うかのようにルアン・メェイはあっさりと辿り着いてみせた。

 

「それは……」

 

ルアン・メェイは僅かに言い淀む。一瞬だけ瞬きをし、それから視線を静かに逸らした。

 

「んん?」

 

あまりにも珍しい反応だった。

 

彼女は視線を落としたまま押し黙る。普段ならば即座に最適解を提示するはずの天才がどうしてか言葉を選びあぐねている。絡まる指先が衣服の袖をそっと摘み、その仕草だけが内心の揺らぎを雄弁に物語っていた。

 

「……姉さまが怒る可能性が高いと判断し、報告を保留していました」

 

まるで呟きのような抑揚の乏しい声色。だが、その奥に微かな躊躇いが滲んでいるのをシャオイェンは見逃さなかった。

 

思わず眉を寄せる。

 

「なに」

 

短く問う声に、ルアンは一度だけ目を閉じる。やがて観念したように静かな吐息を零した。

 

「以前、口腔接触を伴う接近行為があったことを、覚えていますか」

 

「……は?」

 

理解が一拍遅れる。

しかし次の瞬間、断片化していた記憶が繋がる。

 

夜の研究室。言い争い、乱れた呼吸。

視界が反転し、机に押し倒された衝撃——

 

「ちょっと待って」

 

背筋を冷たいものが這い上がった。

どうにも嫌な予感がする。

 

静止の声を他所にルアン・メェイは構わず視線を合わせないまま、淡々と言葉を継いだ。

 

「その際に、微粒子レベルの生体追跡チップを姉さまの体内へ挿入しました」

 

その瞬間、比喩なしに空気が止まった。医療機器の電子音だけがやけに大きく響き、時間の流れが不自然に引き延ばされた気がした。やがて拒んでいた情報の濁流が脳へ傾れ込んでくる。

 

「……は?」

 

口から零れた声が驚くほど間の抜けた響きを帯びていた。理解が現実を拒絶している。

 

しかしルアン・メェイは抑揚の薄い声のまま説明を続けた。

 

「もちろん取り込んだからといって体に悪影響は出ません。体内で分解されず、長期的な生体信号の観測が可能です」

 

まるで研究報告の一節のような口調だった。

 

「ちょ、……ちょっと待ちなさい」

 

思わず喉が引き攣る。思考が追いつかない。

 

「結果として成功と言っていいでしょう。位置情報、心拍、血中酸素濃度、神経伝達の揺らぎに至るまで観測可能です」

 

「……そう」

 

思わず顔が引き攣ってしまいそうになるのを必死でこらえる。淡々とした説明を終え、そこでようやくルアン・メェイは視線を上げた。

 

静かな瞳の奥で僅かに光が揺れていた。

 

「これらは姉さまの安全確保のための、必要な措置でした」

 

「安全確保って……」

 

子供じゃないんだからと思ってしまうものの、相談なく家を飛び出して心配させたこちらの責任もあるだろうが、それにしたってやり過ぎだ。怒るべきだと頭では分かっているのに感情の置き場が見つからない。常識や倫理さえも飛び越えた、ともすれば犯罪行為にすら片足を突っ込んだ行為な筈なのに何故かそれを責めきれずにいた。

 

「……あんたね。そういうのって普通に犯罪だからね?」

 

ついにこめかみを押さえながらぼやく。

 

「……倫理的に問題がある事は認識しています」

 

シャオイェンはまた深く、長いため息を吐いた。肺の奥に溜まっていた熱がゆっくりと抜けていく感覚と怒りまで消えていく様だった。

 

「もう……気まずそうにしてるから何を言い出すのかと思えば……」

 

呆れ半分、疲労半分。責めるための言葉を発した筈に、いまいち声音には力が乗り切らない。

 

「申し訳ありません」

 

素直な謝罪だった。しかしその瞳の奥には決して揺るがない確信がある気がした。

 

「けれど、後悔はしていません」

 

「でしょうね」

 

思わずツッコミを入れてしまう。感情が追いつかず、怒りと呆れが同時に込み上げてくるのは初めての経験だった。静まり返る室内。医療機器の電子音だけが一定の間隔で現実を刻んでいた。無機質なその律動が2人の間に流れる沈黙をより際立たせる。

 

数秒の空白の後、シャオイェンは力なく額に手を当てた。指先に触れる皮膚がじんわりと熱を帯びている。深く息を吐くと肺の奥に溜まっていた感情がゆっくりと抜けていくようだった。

 

 

「……だから全部、筒抜けだったわけだ」

 

逃走経路や滞在先、体調の異変、意識が途切れた瞬間までも。隠したつもりの足跡は、最初から一つ残らず辿られていたのだ。

 

ルアン・メェイは静かに頷く。

 

「はい。ここ7年は特に異常はなく安定していたのにも関わらず、段階的にバイタルへ変調が現れました。神経伝達の不規則な揺らぎ、心拍の乱れと血中酸素濃度の低下が併発している危機的状況で、即時対応が必要だと判断しました」

 

淡々と積み上げられる報告はまるで観測記録の読み上げのようだった。しかし僅かに震える語尾や、言葉と言葉の間に生まれる微細な空白が隠しきれない緊張を滲ませていた。

 

「姉さまは干渉されることを嫌っている節があったので、直接的な接触は極力避けていました」

 

そこで一度、言葉が途切れる。視線が僅かに揺れ、整えられた呼吸が僅かに乱れた。

 

「……ですが、姉さまを失う気がして」

 

その一言だけが、あまりにも不格好に落ちた。

 

「……」

 

怒りたい。

説教もしたい。

 

倫理を盾に叱責することも、常識を振りかざして責め立てることもできた。許可なく体内へ異物を埋め込まれたのだ。怒鳴りつけ、感情のままに責任を追及したとしても誰に咎められる事もないだろう。

 

それでも、ベッドに横たわるシャオイェンを心配そうに見下ろしている彼女の姿を見ると、喉元まで込み上げた言葉は行き場を失った。胸の奥に残ったのは、憤りではなく、どうしようもない脱力感だった。

 

「……はぁ。ほんと、アンタって子は」

 

結局、深いため息だけが零れ落ち、シャオイェンはやがて諦めたように苦笑した。

 

「今後、許可なく人の体に何かを埋め込むのは禁止だから」

 

努めて平静を装いながら言い渡す。声を荒げれば簡単だったが、それでは彼女には届かない気がした。

 

「善処します」

 

間髪入れずに返ってくる、いかにも彼女らしい曖昧な返答。その場限りの嘘を言わない所は素直に評価しているが、それでもこれはいただけない。

 

「しませんって言いなさい」

 

「……しません」

 

ほんの僅かな沈黙の後、小さく修正された言葉はどこか不本意そうだった。約束を違えるような人間ではないと知っているため今後このような事はないだろう。

 

「まったく……」

 

呆れ半分のため息が零れる。

 

視線を戻した瞬間、ルアン・メェイの瞳が拒絶を恐れて様子を窺う子供のように小さくなるのを捉えた。現在の彼女と叱られた後の言葉を待つ幼い少女の面影がほんの一瞬だけ重なり、その途端胸に残っていた怒気は音もなくほどけてしまった。

 

「……もう怒ってないから。でも、次からはちゃんと相談すること。約束できる?」

 

「はい」

 

シャオイェンの声は自然と柔らいでいた。彼女もそれに気付いたのか、撫で付ける手のひらに擦り寄ってくる。シャオイェンの指先がルアン・メェイの黒い髪に触れ、ゆっくりと梳いていく。滑らかな感触が掌をすり抜け、記憶の奥にある幼い頃の温度を呼び覚ました。

 

「ほんと、手のかかる子」

 

その声音に棘はない。長い時間を経ても消えなかった、普遍的な愛が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

中枢区画、ヘルタのオフィスにて。

 

壁面いっぱいに展開された立体スクリーンが淡い光を放ち無数の数式と星図が静かに流転している。外部の宇宙を映す観測窓からはゆっくりと回転するステーションの影と、遠くの恒星の瞬きが見えた。その中央に置かれた執務机を挟み、3人の人物が向かい合っている。

 

向かい側で足を組み頬杖を付いているミス・ヘルタ。椅子に腰掛けたままのシャオイェン。その背後から覆うように寄り添うルアン・メェイ。シャオイェンはルアンの膝の上に座らされ、肩越しに回された腕に半ば固定されていた。背中には体温が密着し呼吸の微かな上下まで伝わってくる。

 

当人は諦めきった顔で溜息を吐いているのに対し、ルアン・メェイは極めて自然体だった。顎をそっとシャオイェンの肩に乗せ、指先を絡め、外界よりも腕の中の温度を優先する姿勢を隠そうともしない。

 

「ルアン・メェイも研究参加者として正式に加わる事になったけれど、治療プロトコルは変わらず私が主導する。異論は?」

 

ヘルタは指先で空中のデータを弾きながら淡々と整理する。

 

「ありません」

 

ルアン・メェイが即答する。

 

「私も同意しています」

 

シャオイェンも短く頷いた。何処か興味深そうにシャオイェンを見つめるヘルタに何かしら感じ取ったのか、背後から回された腕の力が僅かに強まったのを感じた。

 

「もっとも、個人的な感情が影響しない保証はないけど。プロジェクトを降りるなら今の内だよ」

 

ヘルタのその言葉にルアン・メェイの瞳が僅かに揺れる。

 

「問題ありません。プロジェクトに私情を持ち込むつもりはありませんから」

 

「今の状態で言われても説得力ゼロなんだけど」

 

沈黙。

シャオイェンは遠い目をした。

 

「はぁ……ミス・ヘルタの言う通りだよ。一応話し合いの場なんだから、一先ず隣に座ったら?」

 

「姉さまは口を挟まないでください」

 

「なんでよ」

 

小声の応酬。

ヘルタはその様子を眺めながら軽く肩を竦める。

 

「まぁいいや。彼女の治療に影響がないなら不問にしてあげる」

 

幾つも浮かんでいたホログラムのデータを閉じ、椅子に深くもたれかかる。

 

「それはそうと、いつまでそうしてるつもり?」

 

「? どういう意味でしょうか」

 

ヘルタの指摘に当のルアン・メェイはきょとんとしており、紫の瞳がじとりと細められた。

 

「どういう意味も何も、会議開始から終了までずっと彼女を膝に乗せたまま動いてないよね? 普通に考えて異様だよ」

 

ヘルタは顎で示す。

静寂。

 

シャオイェンが何度目かも分からない溜息を吐く。

 

「ほらね、やっぱり指摘された。……あんたもいい大人なんだから分別は付けた方が良い。だいたい、相手に失礼でしょう」

 

ルアン・メェイは僅かに考え込む素振りを見せ、それから淡々と答えた。

 

「……7年分の不足を補っているだけです」

 

「は?」

 

「姉さまが不在だった期間、物理的接触量が著しく不足している状態であり、精神安定および思考効率の回復には一定時間の密着が必要と判断しました」

 

ヘルタは深々と溜息を吐いた。

 

「重症だね」

 

「否定しません」

 

ついに耐えきれなくなったシャオイェンがルアン・メェイへ振り返り反論する。

 

「いや人をモバイル端末みたいに言わないで」

 

「姉さまはエネルギー源です」

 

「私は食べ物じゃない」

 

「比喩表現です」

 

「じゃあより人道的かつ常識的な表現に変更して」

 

ヘルタはその様子を眺め、ふっと小さく笑った。

 

「まあいいや。本人たちが了承しているなら私もそれで構わないし」

 

ヘルタは端末を操作しながら呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

医療区画の奥。半透明の隔壁に囲まれた検査室は静かな光に満ちていた。天井に埋め込まれた照明は影をほとんど作らず、床面に刻まれた光学ラインが生体スキャン装置へと緩やかに誘導している。空気は清浄で、かすかに冷たい。機器の待機音が一定の間隔で低く響いていた。

 

「まずは現状の把握からだね」

 

先導するヘルタは振り返りもせずに言う。

 

「あなたの病状は一日やそこらで解決できる問題じゃない。昨日の状態を確認する限り期限も殆ど残されていないだろうから、ちゃっちゃと終わらせちゃおう」

 

軽い口調だが、その目は真剣そのものだ。

 

ガラス越しに見える別室では複数のモニターが立ち上がり、既にルアン・メェイが配置についていた。視線は画面に固定されているがその集中の密度はここまで伝わってくる。

 

「ルアン・メェイには向こうでバイタルを担当してもらう。直接介入させると過保護が過剰反応を起こしそうだからね」

 

『聞こえていますよ、ヘルタ』

 

即座にマイク越しの声が返ってくる。平静な響きの奥に微かな不満が混じっていた。ヘルタは気にした様子もなく続ける。

 

「マイクも良好みたい。それじゃ、さっそく検査着に着替えて。生体スキャンは金属繊維もノイズになるから下着も全部そっちの籠に入れといてね。終わる頃には洗濯も終わってるだろうから」

 

壁際のブースを示す。シャオイェンは小さく頷き、特に抵抗もなく指定された検査着へと袖を通した。布地は薄く軽量で、体温に合わせて自動調整される機能素材。動きやすいが、布面積も少なくどこか頼りない。過去これほどまでに薄く、足を露出した事はあっただろうか。カーテンを開けて戻ると、ヘルタがじっとこちらを観察していた。

 

紫の瞳が上から下までをなぞる。

研究対象を見る視線でありながら、どこか意外そうでもある。

 

「……ふうん」

 

小さな感嘆。

 

「服の上から見た時はもっと華奢だと思ってた」

 

一歩近付き、腕を組む。視線が肩から背へ、腰のラインへと移る。

 

「案外そうでもないね。無駄な脂肪が少ないのに、全体のシルエットがとても綺麗」

 

シャオイェンは一瞬きょとんとした。褒められた実感が薄い。淡々と分析するような口調だからか褒め言葉なのか、それともただのお世辞なのか判断に困った。

 

「え……あ、どうも?」

 

その瞬間、検査室の天井スピーカーから僅かに低く抑えられた声が落ちた。

 

『……ヘルタ、必要以上に彼女へ視線を送る理由をお聞かせ願えますか』

 

静かな呼びかけがマイク越しに聞こえてきた。声は穏やかだが何処か圧を感じさせる硬い声。それに対しヘルタが目を細める。

 

「別に変な意味はないよ、事実を述べただけ」

 

『それだけが理由だとは思えませんが』

 

「細かいなあ」

 

呆れ半分、からかい半分の声音。

思わずシャオイェンは苦笑する。

 

「気にしなくていいですよ、ミス・ヘルタ。あの子もああ見えて少し緊張しているだけだと思うので」

 

「……本当にそうかな? 例えば私がこうして貴女に触れて、指を絡ませたらもっと面白い反応が返ってきそうだけど?」

 

『ヘルタ』

 

「じょーだん。ここからは真面目にやるからいちいち反応しないで」

 

ヘルタは何処か楽しそうにやれやれと笑った。

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