妹が宇宙ステーションを発ってから3日が経った。
正確には、3日と7時間42分。
別に数えていた訳ではない。ただ2システム時間に1度、律儀に届く通信へ返事をしていると、嫌でも時間の経過が正確に分かるだけだ。
『体調に変化はありませんか?』
『ないよ』
『胸部の違和感は?』
『ない』
『食欲は?』
『それはちょっとだけ』
『睡眠時間が昨日より23分短くなっています』
『誤差でしょ』
『姉さま』
『はいはい。今日は早く寝るよ』
ここまでが、朝のやり取り。
昼になると定刻通り薬を飲んだか聞かれ、夕方には体温を尋ねられ、夜には今日1日の体調を事細かに報告するよう要求される。
おかげで最近の私は、自分の身体について人生で最も詳しいと言って差し支えない。
「過保護だね」
隣から呆れた声が飛んできた。
「まぁ、妹なので」
「はぁ……それ言うの、何回目?」
「何がです?」
「その言葉」
ミス・ヘルタは机の上に腰掛けたまま、こちらへ顔を向けることすらせずに答えた。
「私が数え始めてからでも17回。『妹だから』『妹なので』『妹ですから』。何を言われてもそれで済ませるよね」
「まぁ、事実ですし」
呆れたような溜息。私はそれに苦笑しながら端末を伏せた。
今居るのは医療区画ではない。そこから数区画ほど離れた、ミス・ヘルタの研究室だった。どうして療養中の人間が彼女の研究室で茶を飲んでいるのかと問われれば、私にもよく分からない。
今朝、いつもの検査を終えたところで、彼女は何の前触れもなく現れた。
そこにいたのは、幼い頃の彼女を模して造られた精巧な機械などではない。紛れもなく、本物のミス・ヘルタだった。
人形越しなら何度も顔を合わせているとはいえ、生身の彼女とはこれが初会合である。もう少し何か、然るべき挨拶なり前置きなりがあるものだと思っていた。
けれど彼女は、そんな私の勝手な想像など知ったことではないとばかりにこちらを一瞥し「暇?」と、開口一番、そう問いかけてきたのだった。
暇といえば暇だった。安静にしていろと言われている以上、出来ることなど限られているから。
そう答えると「じゃあ来て」と、それだけ言って歩き出した。
行き先すら聞かされない。途中で2度ほど「どこへ行くんですか」と尋ねたが、「すぐそこ」と「いいから来て」で済まされ、辿り着いたのがここだったという訳である。
そして現在に至る。
「……しかし、意外ですね」
「何が?」
「ミス・ヘルタの研究室です」
改めて室内を見渡す。
広い。
まず、その感想が出てくる。
だが広さに反して、決して整然とはしていなかった。
壁一面を覆う投影画面には、私には到底理解出来ない数式と図表が幾重にも展開されている。その下には用途不明の機械部品が積み上げられ、机の片隅には途中まで組み上げられた何かが無造作に放置されていた。
床や椅子にも資料が積まれており、何なら資料の上にも資料がある。天才というものは、もっとこう、全てが完璧に整理された空間で研究をしているものだと思っていた。妹がそうだったから。
「汚いって言いたいの?」
「そこまでは言ってません」
「顔にそう書いてあるけど」
「……少しだけ」
「必要なものがどこにあるか私が分かってれば問題ないでしょ」
そう言って彼女は指を動かした。すると床に積まれていた資料の中から1枚がふわりと浮き上がり、彼女の手元まで飛んで来る。
「ほら」
「それを整理整頓と呼ぶのは少し違う気がします」
「同じだよ。必要な時に必要なものを取り出せるんだから」
「結果だけ見ればそうかもしれませんけど」
「でしょ?」
得意げに言われてしまった。
この反応を見るに、恐らく何を言っても無駄なのだろう。私は諦めて、出された茶へ口をつける。
それから、ふと気付いた。
「ミス・ヘルタもこのお茶が好きなんですね」
以前、医療区画で何度か飲んだ事のある茶だった。
香りが強すぎず僅かに甘い。薬を飲んだ後でも口にしやすくて、最近よく頼んでいたものだ。
「そうだけど……それだけ?」
「それだけ、とは?」
「はぁ……分からないならいい」
まるで意味が分からないという顔をされた。紫色の瞳が細くなる。
「何です?」
「別に」
理由は分からないが、少し不機嫌そうだった。
「それより、せっかく連れてきたんだから、ぼーっとしてないで見て回れば?」
「見て回っても良いんですか?」
「駄目なら連れてこないよ」
「機密とかは」
「あなたが見て理解出来ると思う?」
「……まぁ、そうですね」
そう言われてしまえば何も言い返せない。先程から視界に入っている数式だけでも、既に3回ほど理解を諦めている。専門分野が違う、という次元ですらない気がする。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
席を立つ。
とはいえ、許可を貰ったからといって研究資料を片っ端から覗き込むほど無遠慮でもない。何より下手に触れて取り返しのつかないものを壊してしまうのは御免だった。
だから私は手を後ろで組み、棚や机に並んだものを遠巻きに眺めながら研究室の中をゆっくりと歩いていく。
目に留まるものだけでも十分だった。
用途の分からない奇妙な機械に、半ばまで分解された精密機器。透明な容器の中で淡い光を明滅させる何かの標本。その傍らには、途中まで書かれて飽きたのか、無造作に放り出された論文らしきものまである。
どれも私には縁遠い。それなのに不思議と退屈はしなかった。
博物館を歩いている時とは違う。
展示物というものは、どれほど持ち主の趣味や思想を映していても、結局は人に見られることを前提に選ばれ整えられたものだ。けれどこの場所はいっとう生々しい。
途中で放り出された計算。机の端には読みかけの本が伏せられたままになっていて、その隣には何に使ったのかも分からない工具が転がっている。椅子の背には皺のついた上着が引っ掛けられ、もう二度と袖を通すこともないだろうに、片付けられることもなくそこに残されていた。
どれも誰かに見せる為のものではない。必要だったからかつては使い、興味を失ったから今は放り出され、それでも捨てるほどの理由もなく残されたものたち。
その雑然とした一つ一つに、ここで彼女が考え、手を動かし、飽きてはまた別の何かへ目を移してきた時間が染み付いているようだった。
天才クラブ#83。知識の星神ヌースに一瞥された天才。宇宙ステーション「ヘルタ」の主。あるいは銀河にその名を知られた大科学者。
そんな大仰な肩書きをいくつ重ねるより、この雑然とした部屋を一度見た方がよほど彼女という人間を知れたような気がする。
少なくとも今の私には、遠いところにいる「天才ヘルタ」より、読みかけの本を机に伏せたまま忘れてしまう彼女の方がずっと近くに感じられた。
「ねえ」
不意に、背後から声が飛んできた。
「どうかしましたか」
振り返る。ミス・ヘルタは机へ腰を預けたまま、こちらを見ていた。先程まで弄っていた端末は既に脇へ置かれている。
「前から気になってたんだけど、あなた、どうしてそこまでルアン・メェイの姉でいたがるの?」
あまりにも唐突な問いに、思わず目を瞬かせる。
「……また随分と急ですね」
「別に。前にも聞いた気がするけど、その時は適当にはぐらかしたでしょ。それをたまたま今、思い出しただけ」
相変わらず自由な人だ。
ただの気紛れから投げられた問いなら、こちらも冗談の一つで流してしまえただろう。けれどどうやらそういう訳でもないらしい。紫色の瞳はまっすぐ私へ向けられ、答えを待つというより、私がどんな答えを返すのか観察しているようだった。
「別に、姉で『いたがっている』つもりはありませんよ。実際に姉ですから」
「そういう話じゃないよ」
即座に切り返された。
「血縁の話なんてしてない。あなたが姉なのは知ってる。でも、あなたが拘ってるのはそこじゃないでしょ」
「……と、言いますと?」
「だって変だから」
ミス・ヘルタは頬杖をつき、さも簡単な計算式の答えでも述べるように続けた。
「ルアン・メェイはもう、あなたが知ってた頃の小さな妹じゃない。あなたが思うよりきちんと人生を生きてるし、あなたが知らないものも山ほど知ってる。1人で生きていける所か、今じゃあなたの方が世話を焼かれてるくらいだし」
「耳が痛いですね」
「事実だからね」
容赦がない。
「それでもあなたは、彼女のことになると決まって『妹だから』って言う。心配されても妹だから。世話を焼かれても妹だから。何をされても最後にはそれで納得する。まるで――」
そこで一度、言葉が途切れた。
ミス・ヘルタは僅かに目を伏せる。
「そう言い続けてないと、自分が彼女の姉だってことまでなくなっちゃうと思ってるみたい」
その言葉には、流石に息が詰まった。それはほんの一瞬だったと思う。けれどたぶん、彼女は見逃さなかった。
「……随分と意地悪なことを仰いますね」
「そう?」
「そうですよ」
笑って返したつもりだった。けれど自分でも分かるくらい、その声は上手く笑えていなかった。
ミス・ヘルタは何も言わない。
否定もしなければ追及もしない。ただ、こちらを静かに見ている。それが私を追い詰めると知った上で。
「まぁ……そうですね」
私は逃げるように視線を逸らした。
否定は出来なかった。あの子はもう、私が知っていた幼い少女ではないと知っているから。
背丈だって追い越されたし、私が知らないものをたくさん知っている。私が守らなければならなかった幼い妹など、とうの昔に居なくなった。
「どうしてなんでしょうね」
「分からないの?」
「分かっているような、分かっていないような」
姉だから、妹だからと。
昔からずっと馬鹿の一つ覚えの様にそれだけだったから。一貫性があると言えば聞こえは良く、言葉にしてしまえば、どれもひどく単純だった。
それだけでは足りないことくらい自分でも分かっている。
姉という立場が役目であるのなら、私の役目など疾うに終わっている事くらい、とっくの昔に。
「昔のままでいてほしいわけ?」
「……それだけは違うと、言いたいですね」
そこだけは、なんとか迷わず答えられた。
「今のあの子を否定したいわけではありません。私が知らなかった時間も、そこで出会ったものも、得たものも、全てあの子のもので然るべきだ。私の知らない彼女になったからといって、それを昔の姿へ戻したいとは思いません」
それは紛れもない本心だった。
私の知らない場所で、私の知らないものを見て、私の知らない誰かと言葉を交わして。その積み重ねの果てに今のあの子がいるのなら、姉というだけの理由で否定していいものではない。
それでも、ふとした拍子に。あの頃と変わらない仕草を見つけると安堵してしまう。
菓子を口にした時にほんの少しだけ目元を和らげるところ。考え事をしている時、無意識に顎へ指先を重ねる癖。私を呼ぶ声に、遠い昔と同じ響きを見つけた時。
ああ、まだここにいる。
そう思ってしまう。
変わっていくあの子に一抹の寂しさを覚え、変わらず残っているものを見つけては胸を撫で下ろす。
きっと私は、あの子が変わってしまうことを恐れているのではない。変わり続けるあの子の中から、いつしか私の知る妹を一つも見つけられなくなることが怖いのだ。
そして、たったそんなことを恐れてしまうのは。きっと私が、弱いからなのだろう。
「じゃあ何?」
「だから、それが分からないんですよ」
我ながら情けない答えだった。これだけ長々と話しておいて、結局行き着く先が「分からない」では、じゃあ何のために口を開いたのか自分でも分からなくなる。
ミス・ヘルタなら呆れるだろうと思った。そんなことも分からないの、と笑うか。あるいは興味を失って、さっさと研究へ戻るか。
けれど意外にも、彼女は何も言わなかった。
ただ、私を眺めている。
いつものように何かを見透かそうとする目ではなく、答えの出ないものを答えの出ないまま観察しているような、妙に静かな眼差しだった。
少し居心地が悪くなって、私は逃げるように視線を逸らす。
何故そこまで姉であることに拘るのかと問われれば、上手く言葉には出来ない。必要とされたいだけなら、それこそ随分と身勝手な話だ。
それでも捨てられない何かが、確かに胸の奥に沈澱している。名前も付けられないまま、随分と長いこと。
「……難しいですね、人の気持ちというものは」
誤魔化すようにそう零して、再び研究室の中へ目を向けた。
役目を終えたもの。使われなくなったもの。今ならもっと優れたものに置き換えられるもの。それでも捨てられずに残っているもの。そういったものたちがこの部屋には多く残されている。
そこでふと視界の端に絡まるものがあって、棚の隅で足が止まった。
「これは?」
指差した先にあったのは、小さな機械だった。
手のひらに収まりそうな大きさのそれは、随分と古いものらしい。表面には細かな傷があり、一部は錆びた様に変色している。周囲にある精密機器と比較すると、場違いなほど粗末に見えた。
ミス・ヘルタがこちらを見てから、やがて意外そうに口を開いた。
「ああ、それ。昔作ったやつだね」
近付いてきた彼女が、何でもないように手に取る。
「昔?」
「子供の頃ってこと」
思わず彼女を見る。
「ミス・ヘルタにも子供の頃ってあったんですね」
「喧嘩売ってる?」
「違います違います」
思わず両手を振った。ミス・ヘルタは半眼になったまま、古びた機械を弄っている。
「当然あるよ。私を何だと思ってるの?」
「なんというか……最初からミス・ヘルタだったような気がして」
「意味が分からない」
呆れたような目を向けられる。しかし怒ってはいないらしかった。
「……私も言ってからよく分からなくなりました。それで、これは何なんです?」
「自律演算機……の初期型。今見ると酷い出来だけどね。処理速度は遅いし、演算精度にも無駄があるし、設計思想そのものが稚拙。30秒もあれば、今の私ならこれより遥かに高性能なものを作れる」
散々な評価だった。
「じゃあ、どうして取ってあるんです?」
「……」
そこで初めて、彼女は答えに詰まった。
本当に僅かな沈黙だった。それでも彼女が何かを聞かれて即座に答えられないという光景そのものが珍しくて、彼女の言う、単なる演算装置を手に取って私は続けた。
「一緒なんです。私も、とうに錆び付いて、今更どこへ持っていっても役に立たないような古臭い感情を未だに捨てられずにいる。だからきっと、あの子がどれだけ変わっても、私はあの子の姉でいたいと、そんな身勝手なことを、つい願ってしまうんでしょうね」
「ふーん……って、何で笑ってるの?」
「すみません、なんというか……」
言葉を探して、少し迷う。
たぶん、失礼だ。
けれど今更取り繕ったところで、目の前の天才には簡単に見抜かれてしまう気がした。
「ミス・ヘルタも、普通の女の子だったんだなって」
沈黙。
今度のそれは、明らかに長かった。
「…………」
「あれ……、あの」
「…………」
「ミス・ヘルタ?」
まずかった。やはり失礼だっただろうか。
考えてみれば、銀河に名を轟かせる天才に向かって「普通」など、褒め言葉になる筈もない。彼女が自分を凡庸だと思っているとは到底考えられないし、事実として凡庸からは銀河の端と端ほど遠い人物だ。
「……すみません。変な意味ではなくて」
「もう1回」
「はい?」
「今の。もう1回言って」
何故。
まるで意図が分からない。分からないが、催促するような視線を向けられては、従う他なかった。
「えっと……普通の女の子だったんですね?」
「…………」
ミス・ヘルタは私をじっと見つめた。
何かを観測するように。あるいは何かを測るように。
けれど不思議と、普段の彼女が見せる研究者特有の鋭さはなかった。未知の現象を前にした時の目とも、つまらないものを値踏みする時の目とも違う。
もっと単純で、だからこそ私には読み取れない顔だった。
やがて彼女は、ふっと小さく息を吐いた。
「ふうん」
それだけ言って、私の手から機械を取り上げる。先ほどまで弄んでいたそれを元の場所へ戻すと、何事もなかったように踵を返した。
ただ、ほんの僅かに足取りが軽いのは見間違いだろうか。
「変な人」
「……え、私ですか?」
「他に誰がいるの?」
理不尽だ。呼び止めてまで同じ言葉を2度言わせておいて、その評価はあまりにも一方的ではないだろうか。
けれど反論する気にはならなかった。
背を向けた彼女の声が、どうしてか弾んでいたからだ。
本人がそれに気付いているのかは分からない。たぶん指摘すれば、今度こそ本気で機嫌を損ねる気がした。
だから私は、口元に浮かびかけた笑みだけをこっそり飲み込んだ。
その後も私は研究室を見て回った。
ミス・ヘルタは聞けば何でも教えてくれた。
いや、何でも、というのは少し違う。
研究について尋ねると、途中から私が理解出来ないことに気が付いて「まぁ、あなたには分からないだろうからいいや」と説明を打ち切る癖に、昔のものについて尋ねると意外なほどよく喋った。
これは最初に作った観測装置。これは昔使っていた工具。
これは失敗作、駄作、ゴミ。あるいは完成したけれど気に入らなくて没にしたもの。そうして彼女の指先が示す先を追いかけていると、ここにある全てが途方もなく長い彼女の人生から零れ落ちた欠片のように思えてくる。素敵だなと、つい口から溢れそうになった。
これは――。
「これは駄目」
伸ばしかけた手を、ぺし、と叩かれた。
「勝手に触らないで」
「すみません……」
反射的に手を引っ込める。ミス・ヘルタは私の指先と棚に置かれた奇妙な装置を見比べてから、さも当然のことのように付け加えた。
「それ、爆発するから」
いやいやいや。
「だったら棚に普通に置かないでくださいよ!」
「刺激を与えなきゃ平気だよ」
「今まさに私が刺激を与えようとしてたでしょう!」
「あはは」
心底楽しそうに笑われてしまった。いや、あははではないけども。
しかし腹が立つより先に少し驚いてしまう。彼女はよく笑う。皮肉を言う時も、誰かを揶揄う時も、自分の研究について話す時も、彼女は存外よく口元を緩めるのだ。
けれど今の笑い方は、そのどれとも少し違う様にも見える。
何というか、年相応だった。
誰かが間抜けなことをして、それが可笑しくて堪えきれずに声を上げる。ただそれだけの、何の裏も含みもない笑い方。天才クラブの会員でも、この宇宙ステーションの主でもない、ただの女の子みたいに肩を揺らして笑っている。
……いや。
この人の年相応とは、一体何歳なのだろう。
「今、失礼なこと考えたでしょ?」
ぎくりとした。
「まさか」
「嘘。顔に出てる」
「……気の所為では?」
「へえ」
疑わしそうに見つめられる。紫色の瞳が私の顔をじっと覗き込み、まるで表情から思考を逆算しようとでもするように細められた。
私は努めて何食わぬ顔を作る。ここで年齢を尋ねるほど、命知らずではない。
「まあいいけど」
興味を失ったらしいミス・ヘルタはあっさり視線を外し、また棚の奥へと指を向けた。
「それで、あれが昔作った重力制御装置の試作機。性能自体は悪くなかったんだけど、無駄が多すぎるからそろそろ捨てようかなって」
「それでもまだ、大事そうに保管しているんですね」
「……何?」
「いえ、何でも」
今度こそ余計なことを言った気がして、私は口を噤んだ。
けれど少しだけ分かってきた気がする。失敗作も、駄作も、ゴミも、気に入らなくて没にしたものも。
そう言いながら、結局この人はひとつも捨てようとしないのだろう。そういう所が人として生々しく、一層素敵に思えた。
私は改めて棚を見渡した。
小さな工具。用途の分からない部品。傷だらけの観測装置。天才である彼女からすれば、とうに価値を失ったものばかりなのだろう。
「素敵だと思いますよ、私は」
「何が?」
「貴女のそういう所がです」
「…………」
心底分からないといった彼女へそう返すと、遂に黙ってしまった。
私は構わず棚の端に置かれた工具へ目を移す。
「何でも合理性だけで切り捨てられる人より、ずっと素敵です。要らなくなったからって簡単に捨てられなくて、もっともらしい理由を付けて傍に置いておく。天才なのに、そういうところだけ妙に不器用というか」
「ちょっと待って」
「はい?」
「……あなた、自分が今何言ってるか分かってる?」
何を、と聞き返しかけて、やめた。さすがに少し言い過ぎてしまっただろうか?
「……すみません。不器用は失礼でしたね」
「そこじゃなくて」
「では、情が深いという所ですか? 別に恥じる様な事ではないと思いますが……」
「そこでもない」
難しいな、と思っていたら、ミス・ヘルタは何故か眉間を押さえていた。
「じゃあ、どこです?」
「……自分で考えて」
「考えても分からないから聞いているんですが」
「でしょうね」
呆れたような声だった。
私は首を傾げる。何か決定的にまずいことを口走った覚えはない。少なくとも悪口を言ったつもりはなかったし、むしろ褒めたつもりだった。
「でも、本当に素敵だと思ったんですよ」
「……まだ言う?」
「駄目でしたか?」
「そうは言ってない」
少しだけ早口だった。
そこでようやく、私は彼女の様子がおかしいことに気付いた。こちらを見ない。先ほどまであれほど楽しそうに昔の品を紹介していた筈なのに、今は棚の奥にある何かを確認する振りをして、罰が悪そうに顔を背けている。
「ミス・ヘルタ?」
「何」
「いえ、私の勘違いなら良いんですが、視線が合わない気がして……私、何か失礼な事でも言いました?」
「……べつに」
「ならこっち向いてくださいよ。話している時に表情が見えないのは何だか落ち着きません」
「嫌」
「え……何故です?」
「あなたが鬱陶しいから」
余りにも酷いのではないか。
「……そんなに怒らせましたか?」
「だから、怒ってないってば」
「本当ですか? なら、良かったですけど」
ほっとして笑うと、ミス・ヘルタがちらりとこちらを見た。
目が合う。私は何となく、そのまま笑った。
「私、ミス・ヘルタのこと、前より好きになりました」
今度こそ、完全に動きが止まった。
「…………」
あ、あれ……?
「ミス・ヘルタ?」
返事がない。
「あの……どうしました?」
「あなたさあ」
ようやく口を開いた彼女は、ひどく疲れたように額へ手を当てた。
「…………それさ、他の人にもやってるの?」
「何をです?」
「もういい」
「え、何ですか。気になるじゃないですか」
「いいから黙って」
理不尽だ。
心なしか耳まで赤い。さすがに体調を疑って顔を覗き込もうとすると、額を手のひらで押され、そのままぐいと遠ざけられた。
「近い」
「顔色を見ようとしただけです」
「必要ない」
「でも、赤いですよ」
「誰の所為だと思ってるの?」
「え……爆発物の傍に長くいたからですかね?」
「唯では済まないから実行には移さないけど、何だか無性に巨大なダイアモンドをあなたにプレゼントしてやりたくなって来たよ」
「え……どうして?」
笑顔のまま、随分と物騒なことを言われた。
ダイアモンド。炭素。炭素といえば人体にも含まれている。巨大なダイアモンドを私にプレゼントするという言葉と、先ほどから妙に楽しそうな彼女の顔を組み合わせて考えると、どうにも穏当ではない結論へ辿り着いてしまう。
まさか、私を押し潰して作るつもりではあるまいか。
怖い。
笑いながら押し潰してやりたいと申告されるとは思っておらず、段々と怖くなって来た。私は何かそこまで彼女の気に障ることをしただろうか。少なくとも数分前までは、昔の品を見せてもらいながら随分と和やかに話していた筈なのに。
「安心しなよ。言ったでしょ、実行には移さないって」
「その言い方、実行したい気持ちは否定してませんよね?」
「そうだね」
うーん。
私には未だに何ひとつ分からない。
ただ、押し退けるために額へ置かれていた手は、いつまで経っても離れなかったし、当初僅かに感じていた壁の様なものは一切感じなくなった。
本当に腹を立てているのなら、とっくに突き放せばいいのに。掌は私の額へ触れたまま、時折思い出したように前髪を弄っている。
「……ミス・ヘルタ」
「今度は何?」
「手、離していただけると……」
そう言った途端、前髪を弄っていた指がぴたりと止まった。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙。
「うるさい」
今度は額を小突かれた。
理不尽では?
意味深なアンケートにご協力ください
-
ヘルタ
-
アスター
-
花火
-
銀狼
-
符玄
-
黄泉
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ブラックスワン
-
ロビン
-
ジェイド
-
トパーズ
-
霊砂
-
停雲
-
ダリア
-
爻光