復讐の後は超強くてニューゲーム 作:実験者
雨が降り続いていた。灰色の空が低く垂れ込め、世界全体が静かに泣いているようだった。街路樹の葉が重く濡れ、アスファルトに落ちる雨粒が細かな水しぶきを上げ、俺の傘を叩く音が耳に響く。靴の先がすでに冷たく湿り、歩くたびに水溜まりがぴちゃぴちゃと小さな音を立てた。
街灯の橙色の光が雨に滲み、ぼんやりとした光の輪を作っている。俺は傘を少し傾け、黒川あかねの家の門までたどり着いた。
門灯が淡く灯り、雨に濡れたコンクリートの階段が黒く光っている。インターホンを押すと、少し間があってドアが開いた。
あかねだった。
薄手のグレーのセーターにジーンズ、髪は少し乱れていて、肩に落ちる蒼いストレートボブが湿気で重そうに揺れている。彼女は俺を見た瞬間、瞳をわずかに見開き、すぐに小さく微笑んだ。
「アクアくん……本当に来てくれたんだ」
「ああ。入っていいか」
彼女は頷き、俺を中へ招き入れた。玄関で靴を脱ぎ、冷たい床の感触が足の裏に染みる。リビングへ進むと、暖房の温もりが体を包み、雨の冷たさを少しずつ溶かしていく。
ソファに並んで座ると、あかねは膝を抱えて小さくなった。
俺は彼女の横顔をじっと見て、ぽつりと口を開いた。
「少し痩せたな」
「あ……うん、流石に」
彼女は苦笑して、指でセーターの裾を弄んだ。頰が少しこけ、いつもより目が大きく見える。鎖骨のラインがセーターの襟元からわずかに覗いている。
「そう、だろうな。あの炎上か。事故みたいなものだが」
「うん。私はあんまり関係ないんだけど……ファンと否定する人が無限にバトルしてて。拡散されるたびに、悪評だけがどんどん広がって……」
彼女の声は小さく、途中で途切れた。俺は静かに頷いた。
「それはつらいな。広がるのは悪評か」
「うん。毎日、通知を見るのが怖くて……スマホの電源切っちゃう日もあった。でも、アクアくんの熱血メッセージ、嬉しかった。本当に……ありがとう」
あかねは顔を上げ、俺を見た。頰がうっすらと染まり、瞳に熱が宿っている。涙がにじみそうになるのを、彼女は必死に堪えているのがわかった。
俺はその視線を受け止め、ゆっくりとバックから紙の束を取り出した。
ホッチキスで留められた、数十枚の台本。表紙に手書きで『逆襲劇』と書かれている。
「これは、なに?」
「逆襲劇の台本だ。あかねの」
「私の……逆襲劇? 見ても良い?」
「ああ」
俺は彼女に台本を手渡した。あかねは両手で受け取り、最初のページをゆっくり開く。
俺が何日もかけて書いたものだ。炎上の理不尽を逆手に取り、彼女の真価を世に知らしめるための物語。
黒川あかねが主人公で、俺が共演者として並び立つ。ドラマチックな展開、逆転の台詞、彼女の尊厳を回復し、視聴者に訴えかけるための脚本。
あかねは黙って読み始めた。
最初は死んだような目だった。ページをめくる指が震え、呼吸が浅い。でも、読み進めるうちに、その瞳が少しずつ輝きを取り戻していく。
唇がわずかに開き、息を飲む音が聞こえる。最後の一枚を読み終えたとき、彼女はゆっくりと顔を上げた。瞳が潤んでいる。
「優しいね、アクアくん」
俺は小さく息を吐いた。胸の奥が少し疼く。
「そう言ってもらえると何より。キャラやストーリーは面白いか?」
「うん。とても良いと思う。逆襲劇の黒川あかねとアクア君と二人の行動もドラマチックで、とても素敵な話。……本当に、私のために書いてくれたの?」
「その素敵な話の主人公で、ヒロインはお前だ。黒川あかね」
彼女は俺を見つめた。瞳が揺れる。頰の赤みが濃くなる。
「君は、王子様?」
「いいや、俺は……なんだろうな? 自分自身でもわからないな。あかねからは、なにに見える?」
あかねは、うっとりと、まるで心酔するように俺を見つめて、こう言った。
「オルフェウス」
「確かにハマり役だな。冥府にいるあかねを連れ戻そうとしているあたりとか」
「でしょ?」
「だが悲劇だぞ。オルフェウスは冥府から連れ戻すのを失敗し、最後はバラバラに引き裂かれて死亡する」
「そうだね。そうかもね。だからこそ、神話を越えよう」
その言葉が、部屋の空気に静かに溶け込んだ。雨の音が、窓を叩く。
遠くで雷が低く唸る。
苦しかった。辛かった。もっと違う未来が欲しかった。その過去は、消えることはない。けれど、受け入れることは出来る。
俺はそう思っていた。あかねも、同じように思っているはずだ。
あの過去を「こういうことがあったなぁ」と何気なく言えて笑えるようになったら、もう苦しくも辛くもない。お互いがいて、妹がいて、好意を寄せられている人と、見守ってくれる親代わりがいて、そんな大事な人達と繋がっている今がある。
それらは全て、罪だった思い出が、消えずに過去として寄り添ってくれたからだ。
故に。「正しき総意」が愛しい過去すべてを滅ぼすというのならば、積り積もった敗者の嘆きと慟哭を今こそ与えよう。
俺はあかねの目を見て、静かに言った。
「共に逆襲劇を始めよう」
あかねはゆっくりと頷いた。頰に涙が一筋、伝う。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
彼女の唇が、わずかに笑みの形になる。瞳が輝き、声が少し震えながらも力強く響いた。
「うん……始めよう。アクアくんと一緒に」
雨はまだ降り続いていた。窓の外で、世界が静かに泣いている。でも、この部屋の中では、別の何かが生まれ始めていた。
逆襲劇の第一幕が、今、開かれる。
俺たちは、ただそこに座ったまま、互いの瞳を見つめ合っていた。
雨音が、BGMのように優しく響く。暖房の温もりが、俺たちの間に静かに広がっていく。
あかねは台本を胸に抱きしめ、俺の肩にそっと頭を預けた。彼女の髪から、かすかなシャンプーの香りが漂う。俺は動かず、ただ彼女の重みを、確かに受け止めていた。
この逆襲劇は、俺たちの物語になる。
炎上の傷を、笑顔に変えるための物語。たとえ雨がどれだけ降り続けても、俺たちはここから始める。