1989年9月 ロベルト
まだ夏の名残を残す朝のキングズ・クロス駅には、大きなトランクを引いた家族連れや旅行客が絶え間なく行き交い、頭上では列車の発着を知らせる放送が響いていた。
その雑踏から少し離れた場所で、ペンはいつもの黒い執事服をきっちりと着込み、余に向かって深々と頭を下げた。
「それではご主人様、いってらっしゃいませ」
「うむ。屋敷のことは頼む。それと、向こうから手紙で色々と頼むこともあると思うから、そのつもりでいてくれ」
「畏まりました。ご主人様からのお手紙でございましたら、ペンは何時いかなる時でもお待ちしております!」
「そこまで気負わなくてよい。それと余がいないからといって、ずっと玄関で待っているような真似はするなよ」
そう念を押すと、ペンの耳がぴくりと動いた。
「……」
「するつもりだったな?」
「ご主人様がお戻りになった際、すぐにお出迎えできるようにと……」
「一学期ずっと玄関に立っているつもりだったのか?」
「ペンは平気でございます!」
「余が平気ではない。普通に生活したまえ」
「か、畏まりました!」
どうにもこの妖精は放っておくと極端な方向へ走る。
もっとも、一か月も一緒に暮らしていれば、それもだいぶ分かってきた。命令には極めて忠実で、魔法使いとは異なる魔法を自在に操り、家事については屋敷中の使用人を合わせても敵わないほど優秀なのだが、自分の主人に関することとなると途端に判断基準がおかしくなる。
それもまた、屋敷しもべ妖精という種族に共通する性質なのかもしれない。
いずれ調べる必要がある。
「では行ってくる」
「はい! お気をつけて!」
最後にもう一度頭を下げたペンと別れ、余は九と四分の三番線に停車している深紅の蒸気機関車へと向かった。
一か月前まで、ホグワーツは余にとって「前世で読んだ物語の舞台」でしかなかった。それが今では、制服を着て、杖を持ち、自分の名前が記された乗車券を手に、その学校へ向かおうとしている。
現実感がない、と言うのは少し違う。むしろ、あまりにも現実的だった。
石炭の匂いがする。
蒸気は熱い。
ホームは騒がしく、窓から身を乗り出して親と話している生徒もいれば、重たいトランクを持ち上げようとして悪戦苦闘している者もいる。籠の中では梟が鳴き、どこかから猫まで走ってきた。
物語の世界というものは、もっと幻想的で整然としているものだと思っていた。
現実になってみれば、魔法使いの学校へ向かう朝も案外慌ただしい。
それが妙に面白かった。
出発まではまだ三十分ほどある。
余は自分のトランクを片手で持ち上げ、そのまま列車へ乗り込んだ。
見た目こそ黒い旅行用トランクだが、この一か月の間に内部を随分と弄ってある。ダイアゴン横丁で購入した時点ですでに容量拡張と重量軽減が施されていたものの、それだけでは物足りなくなり、自分でも拡張を重ねた結果、現在では外見から想像できないほど広い収納空間を持つようになっていた。
もちろん最初から成功したわけではない。
一度など内部空間を広げすぎて側面が妙な方向へ膨らみ、ペンから「トランクが苦しそうでございます!」と泣きつかれたこともあった。それでも何度か術式を修正しているうちに安定し、今では書籍、衣類、実験器具、魔法薬の材料、その他細々とした物を入れても相当な余裕がある。
実に便利だ。問題があるとすれば、便利すぎるせいで荷物を減らそうという意識が完全に失われたことくらいだろう。
列車内を少し歩き、誰もいないコンパートメントを見つける。
窓際へ腰を下ろしてトランクを開き、内部へ手を入れながら軽く念じると、目的のものが手元まで上がってきた。
小さなテーブル。
ティーポット。
カップ。
スコーン。
クロテッドクリーム。
小さなジャム瓶。
これだけあれば十分だ。
列車が動き始めるまで本でも読もうと考え、紅茶を淹れてから『中世呪文学理論』を開く。
まだ数ページしか進まないうちに、コンパートメントの扉が開いた。
「ここ、いいかな?」
顔を上げる。
そこに立っていたのは、余と同じくらいの年頃の少年だった。
整った顔立ちに茶色の髪。大きなトランクを引きずっており、こちらを見る表情には初対面の人間に対する警戒よりも、空席を見つけた安堵の方が強く表れている。
「もちろん。どうぞ」
「ありがとう」
少年は嬉しそうに笑い、苦労しながらトランクを中へ運び込むと、それを座席の脇へ押し込んで余の向かい側へ腰を下ろした。
そこで初めてテーブルの上のティーセットに気づいたらしい。
少し驚いた顔をする。
「すごいね。列車でお茶を飲んでる人、初めて見た」
「列車だからこそ紅茶くらいあった方がよいだろう。まだ出発まで時間もある」
「確かに」
少年は素直に頷くと、こちらへ手を差し出した。
「君も一年生?」
「そうとも」
「僕はセドリック・ディゴリー。よろしく」
その名前を聞いて、余は一瞬だけ動きを止めた。
セドリック・ディゴリー。
知っている。
前世の記憶にある人物だ。
ハッフルパフの生徒で、後には監督生となり、三大魔法学校対抗試合ではホグワーツの代表に選ばれるほど優秀な魔法使い。
そして――。
そこまで思い出しかけて、意識的に記憶へ蓋をした。
今、目の前にいるのは十一歳の少年だ。
まだ何も起きていない。
未来の出来事を知っているからといって、初対面から妙な目で見るべきではないだろう。
「余はロベルト・フィッツロイ。こちらこそよろしく」
差し出された手を握る。
「紅茶はいかがかな?」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ、もらおうかな。ありがとう」
空いているカップへ紅茶を注いで渡す。
セドリックは一口飲むと、ほっとしたように表情を緩めた。
「美味しい」
「それは何より」
「家を出る前は緊張して、あんまり朝ご飯を食べられなかったんだ」
「ホグワーツへ行くのが不安なのか?」
「少しね。楽しみでもあるんだけど」
なるほど。
十一歳の子供が親元を離れて寄宿学校へ向かうのだから、それが普通の反応なのだろう。
余の場合は前世の記憶があるうえ、そもそも両親と一緒に暮らしていなかったため、その種の不安がほとんどない。むしろ一刻も早く学校へ着いて図書館を確認したいくらいだ。
セドリックはスコーンを一つもらいながら、座席脇に置かれた余のトランクへ目を向けた。
「それ、結構小さいね」
「外から見るとそうだな」
「荷物、全部入った?」
「余裕で」
「いいなあ。僕のなんて教科書と鍋と制服を入れたら、もうパンパンだよ。母さんが最後に靴下を押し込むのに上から乗ってたくらいだ」
想像すると少し面白い。
「なら、君のも拡張すればよかったのでは?」
「拡張?」
「内部拡張呪文だ」
「え?」
セドリックがスコーンを持ったまま固まった。
「君のトランク、拡張してあるの?」
「うむ」
「どのくらい?」
少し考える。
正確な容積は測っていない。
「このコンパートメント百個分くらいかな」
「百個!?」
予想以上に大きな声が出た。
廊下を通りかかった上級生がこちらを見る。
セドリックは慌てて声を落とした。
「そんなに入るの?」
「今のところは」
「すごい……高かったんじゃない?」
「元から多少は拡張されていたが、その後は自分で広げた」
今度こそ、セドリックは完全に固まった。
「自分で?」
「そうだが」
「僕たち、まだ一年生だよね?」
「そのはずだ」
「学校、今日からだよね?」
「そうだな」
「……何でそんな魔法使えるの?」
当然の疑問らしい。
余としては、この一か月ずっと魔法を試していたので感覚が少し麻痺しているのかもしれない。
「本に載っていたから試した」
「それだけ?」
「最初は失敗したぞ」
「そういう問題なのかな……」
セドリックは呆れたような、それでいて興味を抑えきれないような顔をしている。
「僕なんて、一年生用の教科書を読んで、載ってる呪文を少し試したくらいだよ」
「十分ではないか」
「でも君は拡張呪文まで使えるんでしょう?」
「高度な魔法に分類されてはいるが、やっていること自体はそれほど理解しにくいものではない。少なくとも小さな箱程度なら、アクシオで物を引き寄せる感覚が分かっていれば、そこから掴みやすいと思う」
「アクシオなら少しできる」
「ほう」
興味が湧いた。
「なら試してみよう」
「今?」
「今」
ちょうどスコーンを入れていた小箱が空になったので、それをテーブル中央へ置く。
「これなら失敗しても被害は少ない」
「本当に僕でもできるかな」
「やってみなければ分からん。まずは内部を外側とは別の空間として意識する。外を変えるのではなく、中だけを押し広げる感じだ」
「中だけ……」
「そう。それから最後に手首を少し捻る。余が試した限りでは、その方が成功率が高かった」
これは教科書に書かれていた内容ではなく、自分で何度か失敗しているうちに見つけたコツだった。
セドリックは杖を取り出し、箱へ向ける。
最初は緊張していたが、一度深呼吸すると表情が変わった。
思った以上に集中力がある。
呪文を唱え、最後に手首を捻る。
箱が一瞬だけ震えた。
外見には何の変化もない。
「失敗?」
「いや。見てみよう」
箱を手に取る。
蓋を開く。
先ほどまで底がすぐそこに見えていたはずなのに、明らかに深くなっている。
「成功だ」
「本当!?」
「ほら」
渡してやると、セドリックは手を突っ込んだ。
元々は指の関節二個分の深さしかなかったものが、今では手首までの深さになっている。
「すごい!」
顔を輝かせる。
「僕がやったんだよね?」
「余がやったように見えたか?」
「いや、でも……本当にできた」
その喜び方を見ていると、こちらまで少し嬉しくなる。
「よかったではないか」
「ありがとう、フィッツロイ!」
「余はやり方を教えただけだ。成功させたのは君だよ」
そう言うと、セドリックは照れくさそうに笑った。
素直な少年だ。後にハッフルパフを代表するような人物になるだけのことはある――と考え、また未来の知識で評価していることに気づいてやめた。
今の彼は、ただのセドリックだ。
「せっかくだ」
余は彼のローブを見る。
「ポケットも拡張してやろうか?」
「できるの?」
「小規模ならすぐ終わる。羽根ペンや羊皮紙を持ち歩くには便利だぞ。ただし大量に重いものを入れるとローブ自体が引っ張られるから、重量軽減も一緒にかけた方がいい」
「本当に? お願いしていい?」
「もちろん」
セドリックが嬉しそうにローブの裾をこちらへ向ける。
余は杖を取り出し、ポケットへ拡張を施した。トランクほど広くする必要はないので、せいぜい普通の鞄程度に留めておく。
「これでよい」
「もう?」
「試してみたまえ」
セドリックが羽根ペンを一本入れる。
次に羊皮紙。
さらに小さな本まで入れる。
外からはほとんど膨らまない。
「便利だ……」
「だろう?」
「これ、みんなやればいいのに」
「余もそう思う」
その点については完全に同意だった。
魔法使いは、これほど便利な魔法を使えるのに、妙なところで不便を甘受しているように見える。もっとも、魔法を使えるからといって誰もが利便性を追求するわけではないのだろう。マグルでも世の中に存在する技術をすべて活用している人間などいない。
やがて汽笛が鳴り、列車がゆっくりと動き始めた。
窓の外で家族に手を振る生徒たち。
セドリックもホームへ顔を向ける。
余も何となく外を眺めた。
ペンはすでに帰したので、そこに余を見送る者はいない。
だが寂しさは感じなかった。むしろ、列車が加速するにつれて胸の奥に期待が膨らんでいく。
「そういえば」
しばらく窓の外を眺めていたセドリックが、こちらへ向き直った。
「ロベルトは、どの寮になると思う?」
「寮?」
「うん。僕は多分ハッフルパフかな。父さんも母さんもハッフルパフだったから」
「組み分けは遺伝なのか?」
「そういうわけじゃないと思うけど、家族で同じ寮になる人は多いらしいよ」
なるほど。家庭環境によって価値観が似るのなら、同じ寮へ組み分けられやすいというのは理解できる。
「君は?」
「余の両親はマグルだから参考にはならないな」
「マグル生まれなんだ」
「そうだ」
セドリックは特に気にした様子もなく頷いた。
「じゃあ、本当に分からないね」
「気質だけで考えるならレイブンクローではないかと思っている」
「僕もそう思う!」
即答された。
「随分と早いな」
「だって、入学前にそんな魔法を覚えて、魔法の本を読みながら紅茶飲んでるんだよ?」
言われてみると否定しづらい。
「君の知識には感服するよ。きっとレイブンクローだよ」
「まだ分からんさ。帽子が決めるのだろう?」
「うん。でもどうやって決めるんだろうね」
「……知らないのか?」
「知らないよ。父さんたち、教えてくれなかった」
余は黙った。帽子を被るだけだ。しかし、ここでまた余計な原作知識を披露する必要もない。
「まあ、着いてからのお楽しみだな」
「ロベルトでも知らないことあるんだね」
「余を何だと思っている」
二人で笑った。
それからの時間は思った以上に早く過ぎた。
セドリックから魔法使いの家庭について話を聞くのは非常に興味深かった。暖炉を利用した移動、家で使われている魔法道具、魔法使いの子供がどのように育つのか。こちらからはマグルの世界の話をし、電気や電話について説明すると、今度はセドリックが目を丸くする。
互いにとって、相手の常識が未知だった。
それが面白かった。
授業についても話した。
セドリックは飛行術を楽しみにしているらしい。
余は魔法薬、呪文学、変身術。
「三つも?」
「魔法史も興味深い。天文学はすでに多少知っているが、魔法界独自の天文学があるなら比較したい。薬草学も魔法植物の生理機構を――」
「全部じゃない?」
「……そうとも言う」
そんな話をしているうちに、窓の外はいつしか暗くなっていた。
列車が速度を落とし始める。
やがてホグズミード駅へ到着した。
ホームへ降りると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。
そこへ、周囲の誰よりも頭一つ――どころではなく、二つも三つも大きな男がランタンを掲げた。
「イッチ年生! イッチ年生はこっちだ!」
ルビウス・ハグリッド。
知っている姿より少し若いが、その巨体は遠くからでも見間違えようがない。
「大きい……」
隣でセドリックが呟く。
「半巨人だからな」
「え?」
「……大きい人だな」
「今、半巨人って言わなかった?」
「気のせいだ」
「ロベルト、時々変なこと知ってるよね」
いかん。気が緩んでいる。今後はもう少し注意しよう。
ハグリッドの後について暗い道を進む。
足元は悪く、何人かの生徒が転びそうになるたびに悲鳴を上げた。森の匂いは屋敷の周囲にあるものと似ていたが、こちらの方がどこか濃い。単なる気分か、それとも本当に魔法的な何かが存在するのか。
やがて水辺へ出た。
小さなボートが並んでいる。
「四人ずつ乗るんだ!」
ハグリッドの指示に従い、セドリックと同じボートへ乗り込む。
櫂はない。
誰も漕いでいない。
それでもボートは滑るように進み始めた。
余は思わず船縁から水面を見る。
「どうやって動いているんだ……」
「また始まった」
隣でセドリックが笑った。
「何が?」
「ロベルトの『どうやって』」
「気にならないのか?」
「今は景色を見ようよ」
そう言われて顔を上げる。
ちょうどそのとき、ボートが岩壁の下をくぐり抜けた。
そして。
その向こうに、城が現れた。
「……ほう」
思わず声が漏れる。
黒々とした山を背に、巨大な城が夜空へそびえている。
窓から漏れる暖かな光が湖面に揺らめき、まるで城そのものが闇の中に浮かび上がっているようだった。
本で知っていた。映画でも見た。それでも実物はまるで違う。巨大さが、空気が、存在感が違う。千年以上もの間、魔法使いたちが学び続けてきたという事実を思うと、胸が高鳴る。
「すごいね……」
セドリックの声。
「ああ」
今だけは、仕組みを考えるのをやめた。
ただ眺めた。
ホグワーツ魔法魔術学校。これから七年間余が学ぶ場所だ。
城へ入った一年生たちを待っていたのは、背筋を真っ直ぐ伸ばした魔女だった。
エメラルド色のローブに四角い眼鏡。厳格そうな表情。
ミネルバ・マクゴナガル。
手紙にあった名前と一致する。
「ホグワーツへようこそ」
静かな声だったが、騒いでいた生徒たちは一斉に口を閉じた。
大声を出す必要すらないらしい。
余は少し感心した。これが教師としての威圧感というものか。
一年生は大広間へ入る前に小部屋へ案内され、組み分けについて簡単な説明を受けた。
その間にも、周囲では緊張した声が交わされている。
「試験かな?」
「呪文を使うって兄さんが言ってた」
「僕、何もできないよ」
「ドラゴンと戦うんじゃない?」
余は黙って聞いていた。
やがてマクゴナガルが一度部屋を離れる。
その直後だった。
壁から何かが出てきた。
白く半透明な男。
その後ろからもう一人。さらに数人。
一年生たちから悲鳴が上がる。
ゴースト。
余は目を見開いた。
人間の形をしているが半透明。壁をすり抜け、服まで一緒に幽霊化している。
物理的実体はあるのか。
質量は?
温度は?
記憶は生前から連続しているのか?
本人は死んだ瞬間を覚えているのか?
魔法を使えるのか?
そもそも――魂とは何だ?
「……触れるかな」
小声で呟く。
手を伸ばしかける。
「ロベルト?」
セドリックが怪訝そうにこちらを見る。
「いや、少し」
ゴーストの一人がこちらへ近づいてくる。
ちょうどいい。
まず指一本だけ。
そう考えた瞬間。
「フィッツロイ君」
背後から声。
身体が止まる。
振り返る。
いつ戻ってきたのか、マクゴナガルがこちらを見ていた。
その視線は明らかに、
――何もするな。
と言っている。
「……何でしょう、先生」
「列を乱さないように」
「もちろんです」
手を引っ込める。
ゴーストが通り過ぎる。
残念だ。
非常に残念だ。
しかし、まだ入学式すら終わっていない。
初日に教師から危険人物扱いされるのは避けたい。
一人になったときに調べよう。
温度計。
秤は無理か。
光を当てた場合の散乱。
物理物体との相互作用。
質問による記憶確認。
可能なら毛髪や――いや、ゴーストに毛髪を採取できるのか?
やがて大広間の扉が開いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、今度は一年生たちから一斉に感嘆の声が上がった。
四つの長大なテーブル。そこに座る何百人もの生徒。宙に浮かぶ無数の蝋燭。そして天井。
夜空。雲の隙間から星が見えている。
余は歩きながら上を見る。
これは本物の空ではない。魔法で外の空を再現している。ならば映像か、空間そのものを接続しているのか。
雨の日にはどうなる。雪は降ってくるのか。
また疑問が増えた。
前方には教師たち。
スネイプもいる。
ほんの一瞬目が合った。
スネイプの視線が余の顔から手元へ移動する。何も壊していないか確認されたような気がした。
失礼な。まだ何もしていない。
マクゴナガルが三本脚の椅子を置き、その上に古びた帽子を載せる。
組み分け帽子。
帽子は裂け目のような口を開き、歌い始めた。
グリフィンドール。
ハッフルパフ。
レイブンクロー。
スリザリン。
それぞれの寮が重んじる資質を歌い上げる。
勇気。
勤勉と誠実。
知性と探究心。
野心と狡猾さ。
余は聞きながら考える。
人間を四分類するのは相当に乱暴ではないか?そもそも勇敢で知的な人間もいる。勤勉で野心的な人間もいる。四つの特性は互いに排他的ではない。では、複数に該当した場合は何を基準にする?
本人の価値観か。潜在能力か。帽子自身の判断か。あるいは――。
「ディゴリー、セドリック!」
思考を遮るように名前が呼ばれた。
「じゃあ、行ってくる」
セドリックが小声で言う。
「健闘を祈る」
「帽子被るだけだよ」
確かに。
セドリックが椅子へ座り、帽子を被る。
数秒。
帽子は少し考えるように黙っていたが、やがて大きく口を開いた。
「ハッフルパフ!」
右側のテーブルから大きな拍手が起こる。
セドリックはほっとしたように笑い、帽子を返してハッフルパフの席へ向かった。
なるほど確かに似合っている。短い時間しか話していないが、素直で、他人を不必要に疑わず、こちらの話にもきちんと耳を傾ける少年だった。本人も希望していたようだし、良かった。他人の組み分けなのに、少し嬉しい。セドリックが席へ着く前にこちらを振り返り、小さく手を振った。
余も手を上げて返す。
組み分けは続いた。
一人ずつ帽子を被る。
数秒で決まる者。一分近く悩まれる者。
余はその差も気になった。判定が早い者は特性が明確なのか。長い者は複数寮の適性が近い記録を取れば面白そうだ。
名前と判定時間を――。
「フィッツロイ、ロベルト!」
呼ばれた。
余は前へ出る。
何百人もの視線が集まる。
緊張はない。それより、帽子がどのように人間の内面を判定しているのかという興味の方が大きかった。
椅子へ座る。
マクゴナガルが帽子を持ち上げる。
帽子を被った瞬間、何か声が聞こえるはずだ。
原作知識では、頭の中を読まれる。
ならば、前世の記憶まで見えるのだろうか。もし見えるなら――。
帽子が頭に触れた瞬間。
「レイブンクロー!」
「……」
早い。
あまりにも早い。
大広間に声が響き、レイブンクローのテーブルから歓声と拍手が起こる。
余は数秒そのまま座っていた。
「フィッツロイ君?」
マクゴナガルに促される。
「……もう終わりですか?」
「終わりです」
「帽子と少しくらい話せるものかと」
「レイブンクローへ行きなさい」
仕方なく立ち上がる。
帽子を見る。
「余の頭の中は見たのか?」
帽子は答えない。
「フィッツロイ君」
マクゴナガルの声が少し低くなった。
「はい」
帽子に軽く一礼する。
「また機会があれば話そう」
「フィッツロイ君」
「今行きます」
レイブンクローのテーブルへ向かう。
途中、ハッフルパフの席を見ると、セドリックが笑っていた。
口の動きで分かる。
「やっぱり」
と言っている。
余も肩をすくめた。
しかしレイブンクロー。予想通りではあるがそれにしても即決だった。せめて少し迷ってほしかった。余には勇気も野心も勤勉さもあるつもりなのだが。どうやら帽子から見ると、それらを比較する必要すらないほど知識欲が突出しているらしい。少し複雑だ。
最後の一年生がスリザリンへ組み分けられると、大広間が静かになった。
中央に座っていた老人が立ち上がる。
長い銀髪と髭。
半月型の眼鏡。
アルバス・ダンブルドア。
この時代において最も偉大な魔法使いの一人。
余は自然と姿勢を正した。
どんな話をするのだろう。
魔法界を代表する知識人でもある。
入学する生徒へ向け、何か含蓄のある言葉を――。
「おめでとう諸君。歓迎会を始める前に、二言、三言、言わせていただきたい」
大広間が静まり返る。
余も耳を傾ける。
「では、いきますぞ」
ダンブルドアが両腕を広げる。
「そーれ! わーいい夜だ! 明日もいい朝が来るぞ! わーい! 以上!」
座った。
「……」
余はしばらく動けなかった。何だったのだ今のは。周囲を見ると一年生だけではなく上級生の中にも微妙な表情をしている者がいる。
つまり。
「……ただの奇人か?」
「聞こえるぞ、新入生」
隣に座っていた上級生から小声で注意された。
「失礼」
しかし、その上級生も笑っている。
どうやら魔法界においても、ダンブルドアが少々変わった人物であるという認識は共有されているらしい。偉大な魔法使いと奇人は両立する。一つ勉強になった。
その直後、目の前の金色の皿に、突然料理が現れた。
ローストビーフ。
ソーセージ。
ローストチキン。
ジャガイモ。
野菜。
グレイビーソース。
パイ。
一瞬で空だったテーブルが埋め尽くされる。
「……」
余は今度こそ身を乗り出した。
「転送か?」
「食べないのか?」
隣の先輩が尋ねる。
「食べます。ただ、今の料理はどこから?」
「厨房だろ」
「どうやって?」
「魔法で」
答えになっていない。
しかし周囲はすでに食事を始めている。
仕方なく、余もローストビーフを皿へ取った。
一口。
美味い。
「……研究は後だな」
腹が減っているときに料理を分析するのは無粋だ。
今は食べよう。
歓迎会が終わる頃には、さすがに一日の疲れを感じ始めていた。
監督生の指示に従い、レイブンクローの新入生たちとともに城内を歩く。
階段。
廊下。
また階段。
さらに廊下。
「この城、構造がおかしくないか?」
余が呟く。
「階段が動くからな」
監督生が答える。
見ると、本当に階段が移動している。
「何故?」
「ホグワーツだから」
まただ。魔法界の人間は、説明できないものを「魔法だから」「ホグワーツだから」で済ませる傾向がある。非常によろしくない。
最終的に辿り着いたのは、西側の塔だった。螺旋階段を上りきった先に、一枚の扉があるが取っ手がない。代わりに青銅製の鷲のノッカーが取り付けられていた。
監督生が近づくと鷲が口を開いた。
『答えが存在しない問いに、正しい答えはあるか?』
一年生たちがざわつく。
余は少し考える。
面白い。
単なる合言葉ではない。
答えを考えさせるのか。
監督生が答えを述べると、鷲は満足したように扉を開いた。
「毎回これか?」
余は尋ねた。
「毎回だ」
「……面倒だな」
監督生が振り返る。
「レイブンクロー生がそれを言うのか?」
「知的であることと、寝る前に毎回謎解きをしたいことは別問題だろう」
何人かの新入生が笑った。
中へ入る。
そして余は、少しだけ考えを改めた。
談話室は非常に良い。
円形の広い部屋。
高いアーチ窓。
青とブロンズを基調とした装飾。
天井には星が描かれ、壁際には本棚が並んでいる。
窓からはホグワーツの敷地を遠くまで見渡すことができ、夜の山々と湖が月明かりに照らされていた。
静かだ。
本を読むには申し分ない。
「悪くない」
「だろ?」
先ほどの監督生が誇らしげに言った。
余も素直に頷いた。
「非常に気に入った」
問題は寝室だった。
案内されて中を見る。
ベッド。
ベッド。
ベッド。
ベッド。
複数人で使う部屋。
「……相部屋?」
「当然だろ」
「個室ではないのか?」
「一年生に個室なんてないぞ」
想定外だった。
余は入口に立ったまま、部屋を眺める。
寝るだけなら構わない。
問題は実験だ。
魔法薬の鍋。
秤。
薬瓶。
試薬。
魔法生物用の観察器具。
マグル式の実験器具もいくつか持ってきた。
さらに本。
大量の本。
これらを相部屋へ広げるわけにはいかない。
何より、同室者が寝ている横で深夜に魔法薬を煮るのは危険だ。
事故が起きた場合、巻き込む。
「困ったな」
初日最大の問題であるが部屋がないなら作ればいい。幸い、空間拡張についてはこの一か月かなり練習した。
余は談話室へ戻った。
皆が寝室へ荷物を運んでいるので、人は少なくなっている。
壁を見る。
家具。本棚。絵画。そして鷲を描いた大きな絵。
その下に、何も置かれていない壁面がある。
「……ここでよいか」
杖を取り出す。
まず空間を確認する。
壁の向こうは外壁に近い。
普通なら部屋を作る余地などない。
普通なら。
「何してるんだ?」
後ろから声がした。
振り返ると、上級生が一人、こちらを見ていた。
「部屋を作ろうと思って」
「……部屋?」
「うむ」
「どこに?」
壁を指す。
「ここ」
上級生が壁を見て、次に余を見る。また壁を見る。
「壁だぞ?」
「だから作る」
説明になっていないらしい。まあよい。
まずトランクで何度も試した術式を応用して小規模な空間拡張を行う。ただし、今回は規模が違う。外側の構造を変えず、内側だけを広げる。
杖を振る。
壁面が揺らいだ。
「おい」
上級生の声が少し慌てる。
「大丈夫か、それ?」
「多分」
「多分!?」
「静かに。集中が乱れる」
「新入生に言われたくない!」
術式を固定する。次に壁の一部を扉として定義して入口を作る。
変形術を組み合わせ、周囲の意匠に合わせた木製扉へ。
ゆっくりと輪郭が現れる。
取っ手。蝶番。枠。
数分後、そこには最初から存在していたかのように、一枚の扉ができていた。
「……」
上級生が黙る。
余は扉を開ける。中は暗い。
「ルーモス」
杖先の光で照らす。広さは――。
「まだ狭いな」
「狭い?」
後ろから上級生が覗き込む。
「教室くらいあるぞ!?」
「実験台を置く。薬品棚も必要だ。本棚も。魔法薬用と呪文学用の区画は分けたい。危険な実験をするなら隔離区画も――」
「待て待て待て」
「何だ」
「君、一年生だよな?」
「今日から」
「何を作ってるんだ?」
「ラボ」
「ラボ?」
「研究室だ」
上級生はしばらく黙った。
「……何で?」
「必要だから」
「何に?」
「研究に」
「何の?」
「魔法の」
そこまで答えると、上級生は天井を仰いだ。
何故だ。極めて合理的な話をしているつもりなのだが。
余は作業へ戻る。
さらに空間を拡張。
今度は高さ。
換気も必要だ。
魔法薬を扱うなら排気設備は必須。
排水。
水道。
火を使う区画には耐火処理。
爆発対策も欲しい。
スネイプの忠告を思い出す。
《理解していないものを、理解したつもりで扱う者は愚か者だ》
その通りだ。安全設備には妥協しない。
トランクから実験台を出す。
薬品棚。鍋。秤。フラスコ。ビーカー。温度計。顕微鏡。
魔法界で購入した器具と、マグル界から持ち込んだ器具が同じ机に並ぶ。
上級生がそれを見て、さらに困惑した。
「そのガラスの器具は何だ?」
「マグルの実験器具」
「何に使う?」
「色々だ」
「色々って……」
「今後決める」
とりあえず、基本的な設備はできた。
余は中央に立ち、周囲を見回す。
悪くない。
むしろ初日としては上出来だ。
「そうだ」
一つ思いつく。
このラボへ毎回レイブンクロー塔から入る必要はない。
どこからでも直接移動できれば便利だ。
姿現し。
この一か月、ペンの転移を観察しながら何度か理論書を読んだ。
まだ完全には成功していないが、目的地を明確に固定できる場所なら――。
「……」
集中。
移動先は、この部屋の反対側。
ほんの数メートル。
何も起きない。
「……おかしい」
もう一度。
失敗。
「何してるんだ?」
上級生がまだいた。
「姿現し」
「は?」
「この部屋へ直接移動できるようにしようと思って」
「できるわけないだろ」
「何故?」
「ホグワーツでは姿現しできないからだよ!」
「……」
杖が止まった。
そうだった。
「……忘れていた」
「忘れるなよ!」
完全に失念していた。ホグワーツでは、一部の例外を除いて姿現しが禁止されている。
つまり、いくら術式を調整しても普通の姿現しでは突破できない。
「なるほど」
これは課題だ。
「何がなるほどなんだ?」
「姿現し防止魔法が、具体的にどの段階へ干渉しているのか気になってきた」
「やめろ」
「まだ何もしていない」
「今からしそうだから言ってるんだ!」
「解除するつもりはない」
「本当か?」
「防御そのものを破る必要はない。仕組みを理解したいだけだ」
「それを普通は危ないって言うんだよ!」
失礼な。しかし、確かに入学初日にホグワーツの防御魔法を弄ってマクゴナガルに呼び出されるのは避けたい。少なくとも今夜はやめておこう。
姿現しについては今後の研究課題だ。
代替手段も考えられる。
屋敷しもべ妖精の転移ならホグワーツの制限を一部無視できる。
ならば両者の差を調べれば――。
「……君、また何か考えてるだろ」
「少し」
「絶対ろくなことじゃない」
「何故会って十分ほどの人間からそこまで信用されていないのだ」
「この十分で壁に部屋作った奴が言うな」
一理ある。
時計を見る。思っていた以上に時間が経っていた。
今日は長い一日だった。
ホグワーツ特急。セドリック。湖から見た城。ゴースト。組み分け帽子。ダンブルドア。そしてレイブンクロー。
わずか一日で、研究したいものが一気に増えた。
ゴーストの性質。大広間の天井。料理の転送。動く階段。組み分け帽子の精神読取。ホグワーツの姿現し防止結界。
さらに、明日からは授業まで始まる。
余は実験台の前に立ち、満足しながら自分のラボを眺めた。
「よし」
「何がよしなんだ……」
まだいた上級生が疲れ切った声を出す。
「最低限の設備は整った」
「これで最低限?」
「本棚が足りない」
「もう寝ろ」
「確かに今日はここまでにしよう」
明日から本格的に始めればいい。
実験台の上を片づけ、危険な薬品が外へ出ていないことを確認する。最後に扉へ簡単な施錠魔法をかけたところで、ふと思い出した。
「先輩」
「何だよ」
「名前を聞いていなかった」
「……今?」
「うむ」
先輩は何とも言えない顔でこちらを見た。
「ロバート・ヒリアード。五年生だ」
「そうか。ロバート先輩、今日はありがとう」
「俺、何かしたか?」
「見守ってくれた」
「止めようとしてたんだよ!」
「結果的には見守っていた」
「お前、本当にレイブンクローか?」
「帽子は一秒も迷わなかったぞ」
「それが一番怖いよ」
ロバート先輩は頭を抱えながら寝室へ戻っていった。
変な人だ。
余もラボの扉を閉じる。
振り返ると、談話室の窓から月明かりが差し込み、青とブロンズの室内を淡く照らしていた。
静かだった。
遠くには湖が見える。
その向こうには禁じられた森。
城のどこかには巨大な図書館があり、地下には魔法薬の教室があり、廊下にはゴーストが歩き、壁の肖像画は喋る。
十一年間、余の世界は森の中の屋敷と、本の中にしかなかった。
今日からは違う。
本で読むだけではない。
触れられる。
試せる。
観察できる。
失敗できる。
そして、考えることができる。
魔法という、前世の科学では説明できなかった現象を、この手で一つずつ確かめていける。
七年間。
時間は十分にある。
いやおそらく七年でも足りない。
それでも構わない。
余は談話室の一角に新しくできた扉へ目を向け、自然と笑みを浮かべた。
まずは明日だ。
授業が始まる。
ホグワーツの教師たちは、魔法をどのように教えるのだろう。
教科書に書かれた手順を覚えさせるだけなのか。それとも、その背後にある原理まで教えてくれるのか。
もし教えてくれるなら、大いに学ぼう。もし教えてくれないのなら自分で調べればいい。そう考えながら寝室へ向かおうとして、ふと足を止めた。
「……ゴースト」
まだ温度を測っていない。今ならマクゴナガルもいないし廊下へ出れば一体くらい――。
いや今日はやめておこう。入学初日に夜間徘徊で減点されるのは、さすがに馬鹿らしい。明日にする。
余は後ろ髪を引かれながら寝室へ向かった。
こうして、余のホグワーツでの最初の一日は終わった。
まだ授業すら始まっていないというのに、研究課題だけはすでに山ほどできていた。