1989年12月 ロベルト
余は、ホグワーツの図書館にある本を、ひとまずすべて読み終えた。
正確に言えば、「読んだ」という言葉には多少語弊がある。知識圧縮術式を使って内容を取り込み、その後に重要そうなものや、既存知識と矛盾するもの、理解に時間を要するものを選び出して考察し直したという方が正しい。それでも、題名を見て中身が分からない本はほとんどなくなった。
最初にホグワーツの図書館を見たとき、余はその蔵書量を前にして、一生かけても読み切れないのではないかと思った。
それが数か月で終わった。
もちろん、理解し尽くしたわけではない。
むしろ逆だった。
読めば読むほど、分からないことは増えた。
同じ現象について異なる説明をしている本がある。古い理論では説明できるのに、現代の教科書では触れられていない現象もある。複数の分野を跨いで読むことで初めて見えてきた共通点もあれば、同じ「魔力」という言葉を使いながら、著者によってまるで別のものを指しているように思える箇所もある。
したがって、「図書館を読み終えた」というのは、研究が終わったという意味ではない。
むしろ、ようやく入口へ立ったという感覚に近かった。
問題は、次に何をするかである。
教授たちへの質問も続けている。
城内の魔法構造の観測も、鉄バケツのおかげで順調だった。
未解決の研究課題を書き出した羊皮紙は、すでに机の端から端まで埋まっている。
それでも、一つの大きな節目に到達したという感覚はあった。
そんなことを考えているうちに、ホグワーツはクリスマス休暇へ入った。
そこで、別の疑問が生じた。
魔法使いのクリスマスとは、これ如何に。
前世で知っていたクリスマスは、少なくとも日本では宗教行事としての意味よりも、商業的なイベントとしての側面がかなり強かった。英国へ転生してからは、もう少し宗教的な文化が生活へ入り込んでいることも知った。
では魔法界はどうなのか。
キリスト教文化をどの程度受け入れているのか。
魔法使いは聖書の奇跡をどう解釈するのか。
そもそも、魔法が実在する世界で「奇跡」という概念はどこまで成立するのか。
イエス・キリストが水を葡萄酒へ変えたという話を、変身術や物質変換を学んだ魔法使いはどう読むのだろう。
復活については。
魂の存在がある程度確認されている魔法界では、死後の世界をどう考えている。
ゴーストが普通に廊下を飛び回っている学校で、宗教的死生観はどのように整理されているのか。
疑問は尽きない。
しかし、これを今から調べ始めれば、年末年始がその研究だけで終わりかねない。
ひとまず屋敷へ帰ることにした。
帰宅方法そのものについては、悩むほどではなかった。
ペンを呼べばいい。
ホグワーツ内部から直接屋敷へ転移できることは、すでに何度も確認している。荷物についてもペンへ任せればよく、所要時間にして数秒である。
実用性だけを考えれば、これ以上の方法はない。
しかしホグワーツ急行に乗って帰るというのも悪くない。
入学時には、これから始まる魔法学校生活への興奮で車窓をじっくり眺める余裕がなかった。今度は逆に、数か月を過ごした城を離れ、スコットランドからロンドンへ戻っていく景色を見ながら、この数か月を整理するのもよいだろう。
効率だけを追求すると、こういうものを全部捨てることになる。
それは少しもったいない。
そう結論づけ、余は他の生徒たちと一緒にホグワーツ急行へ乗り込んだ。
荷物のほとんどは事前にペンへ屋敷まで運ばせてあるので、手元にあるのは小さな鞄と数冊の本だけだった。
列車が走り出す。
窓の向こうには、冬のスコットランドが広がっていた。
空は重い鉛色で、遠くの山々には白い雪が薄く積もっている。夏の終わりに見た緑豊かな景色とはまるで違い、枯れた草原と黒い岩肌が延々と続いていた。
荒涼としているが、嫌いではない。
人の手があまり入っていない風景というものは、見ているだけで地質や気候について考えたくなる。
窓へ頬杖をつきながら外を眺めていると、コンパートメントの扉が開いた。
「探したよ、ロベルト」
聞き覚えのある声だった。
「ああ、セドリックか」
セドリック・ディゴリーが、少し息を切らしながら立っていた。
「三両くらい見て回ったよ」
「それはすまなかった」
「本当に思ってる?」
「多少は」
「多少なんだ」
笑いながら、セドリックが向かい側へ腰を下ろした。
入学式の日、同じコンパートメントで初めて話して以来、我々は寮こそ違ったものの、ときどき顔を合わせれば話をする間柄になっていた。
ただし、思っていた以上にその機会は少なかった。
レイブンクローとハッフルパフでは談話室も寮も離れている。
授業で一緒になることはあるが、授業中に雑談するわけにもいかない。
食事の時間なら会えるはずなのだが、最近の余はラボで食事を済ませることが多かった。
したがって、こうして一対一でゆっくり話すのは久しぶりだった。
「どうだった? 最初の学期」
セドリックに聞かれた。
「非常に満足している」
「即答だね」
「授業は面白いし、教授たちは優秀だ。図書館もある。城そのものも研究対象になる。今のところ不満は少ない」
「普通は友達とか、寮とか、そういう話から入ると思うんだけど」
「それも問題ない」
「本当に?」
「なぜ疑う」
セドリックが少し笑った。
そこから、入学してからの出来事を互いに話した。
セドリックはハッフルパフの談話室のことを教えてくれた。
丸い扉や暖かな内装が多く、他の寮よりも家のような雰囲気があるらしい。
「厨房にも近いんだ」
「それは利点だな」
「そこ?」
「食料供給路が短いことは重要だろう」
「ロベルトらしいよ」
逆に余は、自分の研究について話した。
知識圧縮術式。
並列思考。
魔法構造観測。
鉄バケツ。
禁書区域については、さすがに詳細を伏せた。
黄金虫を使って教師に無断で禁書を読んでいると説明すれば、セドリックが困る可能性がある。
知らなければ黙っていることもできる。
知れば、彼自身が規則違反を見逃している立場になってしまう。
その程度の配慮はする。
「それで、そのバケツを被ると本当に壁の向こうが見えるの?」
「壁そのものが見えるわけではない。可視光を遮断した状態でも、魔法構造だけが眼鏡を通して認識できる。正確な原理はまだ分からない」
「穴もないんだよね?」
「ない」
「怖くない?」
「何が?」
「前が見えないまま歩いてるようにしか見えないから」
「余には見えている」
「周りからは見えないようにしか見えないんだよ」
なるほど。
観測者側と被観測者側の認識差という意味では、確かにそうなる。
そのうち外部からの行動評価も記録してみる価値があるかもしれない。
そんな余の研究話を、セドリックは嫌そうな顔ひとつせず聞いていた。
むしろ途中から身を乗り出し、
「それで?」
「その後どうなったの?」
と続きを促してくる。
これは少し意外だった。
レイブンクローの同級生に研究内容を話すと、最初は興味を持っていても、途中から「それは授業でやる内容なのか」とか「どうしてそこまで調べる必要があるのか」といった顔をされることが多い。
セドリックは違った。
細かい理論まで理解できているかどうかは別として、余が何を面白いと思っているのかを楽しそうに聞いてくれる。
それが心地よかった。
二人は違う寮へ組み分けられた。
考え方もかなり違う。
セドリックは人との関係を大切にする。
余は研究を優先する。
それでも、こうして話している時間はとても楽しかった。
気づけば、列車はロンドンへ近づいていた。
キングズ・クロス駅へ到着すると、ホームには家族を迎えに来た魔法使いたちが大勢集まっていた。
セドリックの両親も来ているらしい。
「じゃあ、また新学期」
「ああ」
「ちゃんと休みなよ」
「善処する」
「その言い方、絶対休まないよね」
セドリックは笑って手を振り、家族のいる方向へ歩いていった。
余も人混みから少し離れたところでペンを呼んだ。
「ペン」
パチン。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
「帰る」
「畏まりました!」
次の瞬間には、数時間かけてロンドンまで戻ってきた意味がほとんどなくなるほどあっさりと、余はウッドウォルトンの屋敷へ戻っていた。
屋敷へ帰って最初に行ったのは、休息ではなかった。
図書館を作ることだった。
正確には、ホグワーツの図書館から複写してきた本を保管するための施設である。
余のラボにはすでに大量の複製本が置かれているが、あの調子で増え続ければ、いずれ研究場所よりも本棚の方が多くなる。
そもそも、本の長期保存を考えるなら、実験室と同じ空間へ置くべきではない。
火を使う。
魔法薬を作る。
薬品を扱う。
ときどき爆発する。
その隣へ希少な本を置いておくのは、保存環境として適切とは言い難い。
そこで屋敷の隣へ、新しい建物を一棟建てることにした。
外見は周囲の景観を壊さないよう、屋敷と同じ石造りにした。
中へ入ると、壁一面に本棚が並んでいる。
普通の図書室と違うのは、内部環境を魔法で一定に保っている点だった。
紙や羊皮紙は湿気に弱い。
乾燥しすぎても傷む。
温度変化も好ましくない。
そこで、室内の温度と湿度を一定範囲へ保つ術式を組み込んだ。
さらに、防虫。
魔法界にも本を食う虫が存在する。
普通の紙魚ならまだ可愛い方で、中には文字そのものを食べて消してしまう魔法生物までいるらしい。
そんなものに数百冊、数千冊と複製した資料を食われてはたまらない。
したがって、本棚と建物全体へ防虫、防黴、防火の術式を重ねた。
「ペン」
「はい、ご主人様!」
「この建物も管理を頼む」
「畏まりました! 毎日お掃除いたします!」
「掃除の際、本の順番を変えるな」
「もちろんでございます!」
「棚番号、分野、著者名、年代順の分類は維持してくれ」
「はい!」
「それから、勝手に整理し直さないこと」
「ペンはそこまでしないのでございます!」
以前、ペンが「使いやすいように」と実験器具を大きさ順へ並べ替えた結果、余が一日中探し物をする羽目になったことがある。
念押しは必要だ。
図書館が完成すると、その隣には実験専用棟を作った。
こちらは図書館とは正反対の思想で設計した。
保存ではない。
壊れることを前提にする。
魔法薬を扱う以上、事故は起こる。
どれほど慎重に条件を設定しても、未知の反応を扱う実験である以上、失敗を完全に排除することはできない。
ならば、失敗しても被害が外へ出なければいい。
壁には防爆術式を重ねた。
床と排水系には、腐食性の薬液や毒性のある物質が流れても外へ漏れないよう隔離処理を施す。
火災対策。
有毒蒸気対策。
換気。
緊急遮断。
内部の一部で爆発が起きた場合、その区画だけを封鎖できるようにする。
「やりすぎではございませんか?」
ペンに聞かれた。
「安全対策にやりすぎというものはない」
「ご主人様がそうおっしゃると、ペンは何故か不安になるのでございます」
「何故だ」
「安全対策を増やすほど、危険な実験をなさるからでございます」
否定しづらい。
実験室の中には、前世で馴染みのあった器具も可能な限り揃えた。
安全ベンチ。
ガラス製のビーカー。
フラスコ。
ピペット。
温度計。
天秤。
魔法界の道具だけでは測定しづらいものについてはマグル製の計測機器も使う。
もちろん、魔法界の標準的な大釜や攪拌棒、魔力反応を測るための水晶器具も並べた。
前世の研究室と魔法薬学の教室を無理やり一つにしたような場所になった。
余は非常に満足した。
そんなある日。
机へ向かって実験記録を整理していると、ペンが小さな包みを持ってやってきた。
「ご主人様、お届け物でございます!」
「誰からだ」
「セドリック・ディゴリー様と書いてございます」
「セドリック?」
受け取って開ける。
中にはクリスマスカードと菓子が入っていた。
カードには、冬休みを楽しんでいるかということと、また新学期に会おうという短い文章が書かれていた。
余はしばらくそれを眺めた。
「……なるほど」
そういえば。
クリスマスには、こういうことをするものなのか。
前世の記憶にはもちろんある。
だが、今生では屋敷の中でほとんど一人で暮らしてきた。
両親と盛大にクリスマスを祝った記憶もないし、同年代の友人とカードを送り合った経験もない。
魔法界へ来て初めてできた友人から、こうして何かを贈られるという状況そのものが新鮮だった。
少し考えた。
「返礼が必要だな」
カードだけでは面白くない。
何か実用的な物をつけよう。
机の上を見回す。
そして、自分が普段使っている羽根ペンが目に入った。
これは少し改造してある。
書き間違えたとき、羽根ペンの軸を二度軽く叩くと、直前に書いた単語だけを認識して、その部分のインクを羊皮紙から吸収する。
消しゴムに近い。
ただし、周囲の文字を傷めない。
前世で論文を書いていた頃、修正機能というもののありがたさは身に染みている。
羊皮紙へ羽根ペンで書く文化に戻ってから、誤字をいちいち線で消すのが耐えられず、自分で作ったものだった。
余は同じものを一本作り、カードと一緒に包んだ。
《メリークリスマス。菓子をありがとう。羽根ペンは余が普段使っているものと同じだ。軸を二回叩くと直前の単語を消せる。インクの種類によって多少効きが違うので注意するように。――ロベルト》
ペンへ渡す。
「これをセドリックへ」
「畏まりました!」
送り終えたところで、余は再び実験へ戻った。
クリスマス休暇は、恐ろしい速度で過ぎた。
休暇という言葉から連想されるほど休んだ記憶はない。
朝起きる。
実験する。
昼食を取る。
実験する。
本を読む。
記録を整理する。
また実験する。
気づけば夜である。
そして、気づけばホグワーツへ戻る日になっていた。
帰りもペンで直接戻ることはできる。
だが、今度は迷わずホグワーツ急行を選んだ。
理由は単純だった。
セドリックに会えるかもしれない。
キングズ・クロスで列車へ乗り込むと、予想通りしばらくして彼がやってきた。
「ロベルト!」
「やあ」
席へ座るなり、セドリックが鞄から一本の羽根ペンを取り出した。
余が送ったものだ。
「これ、すごいよ」
「そうか」
「どこで売ってるの?」
「売っていない」
「え?」
「余が作った」
セドリックが羽根ペンと余の顔を交互に見る。
「これも?」
「うむ。原理はそれほど複雑ではない。まず羽根ペン側で書いた単語の範囲を認識する必要がある。そのうえで羊皮紙へ染み込んだインクだけを選択的に吸収し、紙そのものには作用させないよう制御する。問題は単語境界の認識で、最初の型では句読点まで一緒に消した。次の型では逆に最後の文字だけ残ることがあって――」
説明していると、セドリックが笑い始めた。
「何だ」
「いや。やっぱりロベルトだなって思って」
「どういう意味だ」
「普通なら『自分で作ったよ』で終わるところを、どうやって作ったかまで全部話し始めるから」
「そこが重要だろう」
「うん。だから面白いんだけど」
そう言われて、少し黙った。
嫌味には聞こえなかった。
むしろ、本当に楽しそうだった。
しばらく雑談を続けたあと、セドリックが窓の外へ目を向けながら言った。
「君との会話は楽しいけど、ホグワーツだとなかなか会えないよね」
「確かにな」
同じ学校にいるというのに、話す機会は列車の方が多い。
少し考える。
そこで、一つ思い出した。
「面白い部屋を見つけた」
「また?」
「また、とは何だ」
「いや、ロベルトって普通の人が見つけない場所ばっかり見つけるから」
否定はしない。
「そこで会うのはどうだ」
「どんな部屋?」
「来れば分かる」
「怪しくない?」
「安全だ」
「その言葉、ちょっと信用できないんだけど」
「失礼な」
最終的には、次の土曜日の午前中に会うことになった。
約束の日。
余は城の中でもほとんど人が通らない廊下で、セドリックを待っていた。
時間を数分過ぎたころ。
廊下の向こうから、少し慌てた様子のセドリックが走ってきた。
「お待たせ。ごめん」
「構わない」
「なかなかたどり着けなくて焦ったよ。同じところ二回通った気がする」
「そうだろう」
「そうだろうって?」
「ここは、意識して探さないと入りにくい廊下なんだ」
観測眼鏡で見つけた場所だった。
廊下の入口周辺には、ごく弱い認識阻害の魔法がかかっている。
通れないわけではない。
見えないわけでもない。
ただ、特に目的を持たず歩いていると、何となく別の道を選びたくなる。
結果として、ほとんど誰も来ない。
「その先が目的地だ」
廊下の奥には、一枚の古い扉があった。
特別豪華な装飾があるわけではない。
むしろ、ホグワーツの中では地味な方だ。
セドリックが少し緊張した顔で取っ手へ手を掛ける。
「開けていい?」
「そのために来た」
扉が開く。
その瞬間。
暖かな空気が廊下へ流れ出した。
セドリックが立ち止まる。
扉の向こうにあったのは、石造りの部屋ではなかった。
青い空。
柔らかな陽光。
見渡す限りの草原。
緩やかな風に草が揺れ、少し離れたところには小さな丘が見える。
冬のホグワーツとは思えないほど暖かい。
セドリックがゆっくり一歩踏み込んだ。
「……すごい」
さらに進む。
空を見上げる。
「本物の外みたいだ」
「内部空間だ」
「これもホグワーツ?」
「おそらく」
「おそらく?」
「誰が作ったのかはまだ分からない」
セドリックは両手を広げ、陽射しを浴びた。
「ホグワーツって、ずっと曇ってるか寒いかだから、ここいいね」
「余もそう思う」
初めてこの場所を発見したとき、鉄バケツを被ったまま数時間かけて調べた。
内部の温度。
湿度。
光量。
空間の大きさ。
境界。
「以前来たときに測ったが、だいたい百エーカー程度ある」
「百エーカー?」
セドリックが草原を見渡した。
「そんなに?」
「見かけよりは狭い」
「端はどうなってるの?」
「レンガの壁だ」
「え?」
「行ってみれば分かるが、端まで行くと普通のレンガ壁がある。ただし遠くから見ると、その向こうにも草原が続いているように見える」
「どういう仕組み?」
「分からない」
余が即答すると、セドリックが振り返った。
「ロベルトが分からないって言うの、珍しいね」
「だから面白い」
そう答えると、セドリックはまた笑った。
その日は、そこでピクニックをした。
ペンへ用意させたサンドイッチと焼き菓子、紅茶を草の上へ並べる。
その後は箒を持ち出して飛んだ。
余は箒そのものの飛行原理が気になって仕方なかったが、セドリックから、
「今日は研究なし」
と言われたので、途中から速度測定をするのはやめた。
遊ぶために箒へ乗るというのは、意外と悪くなかった。
それから、毎週土曜日の午前中はそこで会うことになった。
最初はただ遊んでいた。
しかし、何度か会ううちに、セドリックもいろいろ話すようになった。
ハッフルパフは仲の良い寮だと言われている。
実際、その傾向はあるらしい。
だが、人が集まれば当然人間関係も生まれる。
誰と誰が仲がいい。
誰が誰に怒っている。
誰かが自分だけ誘われなかった。
授業で点を取ったことで妙に競争心を向けられた。
そういう話だった。
余にはかなり縁遠い。
「それで、どうすればいいと思う?」
と聞かれても、最適解が分からないことが多い。
「本人へ直接理由を聞けばいいのではないか」
「それができれば苦労しないんだよ」
「何故だ」
「人間ってそういうものだから」
「難しいな」
「ロベルトが言うと本当に研究対象にしそう」
実際、少し興味はある。
一方で余は、自分が今取り組んでいる魔法薬学の研究について話した。
セドリックは全部理解しているわけではない。
それでも、
「それって何が分かるの?」
「成功したらどうなるの?」
と聞いてくれる。
その質問へ答えているうちに、自分でも研究目的を整理できることがあった。
人へ説明するというのは、思った以上に役に立つ。
そうして土曜日の午前中は、次第に余にとって楽しみな時間になった。
そんな日々を過ごしていたある日。
魔法薬の研究を進めている途中で、一つの材料が必要になった。
アクロマンチェラの毒である。
強力な毒性を持つ巨大蜘蛛の毒液。
禁書区域から得た古い薬理書の中に、その毒を利用した特殊な魔法薬についての記述があった。
もっとも、目的は誰かを毒殺することではない。
余が興味を持ったのは、その反対だった。
これほど強力な毒に対して、魔法薬学はどこまで防御できるのか。
作用を無効化することはできるのか。
症状が始まったあとでも回復可能なのか。
複数の異なる毒へ共通して作用する解毒法を作れるのか。
毒性の一部だけを弱めたものを使い、身体側へ耐性を作らせることは可能なのか。
前世の免疫学や薬理学の考え方を、そのまま魔法界へ持ち込めるとは思っていない。
だが、比較する価値はある。
そこでペンへ材料の調達を頼んだ。
二日後。
「ございませんでした」
「ない?」
「ダイアゴン横丁にも、ホグズミードにも、扱っているお店がないのでございます」
「注文は?」
「危険物でございますので、一般には流通していないそうでございます」
なるほど。
売っていないなら仕方がない。
別の材料で代用するか。
そう考えたところで、前世の記憶が一つ浮かんだ。
アクロマンチェラ。
禁じられた森。
いる。
「……そういえば」
ペンが嫌な予感を覚えたような顔をした。
「ご主人様?」
「いや。手に入る場所を思い出した」
「どちらでございますか?」
「近所だ」
嘘ではない。
ホグワーツから見れば非常に近い。
数日後。
夕食後の時間を選び、余は城を出た。
当然、教師へ申請などしていない。
禁じられた森という名前の時点で、許可が下りないことくらいは分かる。
ならば、見つからない方が早い。
自分へ不可視の呪文をかける。
完全に存在を消すわけではない。
物音はする。
足跡も残る。
匂いも消えない。
だから慎重に歩く必要がある。
城から離れ、禁じられた森へ入った。
昼間に遠くから見る森と、内部から見る森では印象がまるで違った。
木々は異様に高く、太い枝が頭上で絡み合っているため、月明かりはほとんど地面まで届かない。
湿った土。
腐葉土。
苔。
何かの獣の匂い。
時折、かなり遠くから何かが動く音がする。
余は杖を握りながら、粛々と進んだ。
目的はアクロマンチェラだけだ。
他の生物へ手を出す必要はない。
しばらく歩いたころ。
木々の間に、妙に白いものが増え始めた。
糸。
太い。
普通の蜘蛛の巣とは明らかに違う。
さらに進むと、木から木へ何本もの糸が張られ、地面にまで白い網が広がっている。
「ここか」
間違いない。
そして。
音がした。
カサカサという、小さな蜘蛛とは比べものにならない足音。
一つではない。
複数。
前。
左右。
後ろ。
木の上。
気配が増えていく。
暗闇の中に、いくつもの目が光った。
最初に姿を現した一匹だけでも、大型犬より遥かに大きい。
さらにその後ろから、同じものが何匹も出てくる。
「人間だ」
どこからか声がした。
「久しぶりだ」
「肉だ」
なるほど。
会話できるのか。
知性がある。
それは研究対象として興味深い。
ただし。
今こちらを食料として認識している。
会話による交渉が成立する可能性は、あまり高くなさそうだ。
「余は毒が欲しいだけなのだが」
返事の代わりに、一匹が飛びかかってきた。
仕方がない。
杖を向ける。
「アラーニア・エグズメイ!」
光が走る。
先頭の一匹が吹き飛び、そのまま動かなくなった。
だが、周囲の蜘蛛たちは止まらなかった。
仲間が一匹倒れた程度では、獲物を諦める理由にならないらしい。
二匹。
三匹。
さらに奥から増えてくる。
「面倒だな」
一匹ずつ処理していては効率が悪い。
余は後退しながら考えた。
《アラーニア・エグズメイ》は、対象を一つ指定することを前提に組まれている。
ならば、対象指定部分を変える。
一個体ではなく。
一定範囲。
ただし、単純に魔力を広げるだけでは威力が落ちる。
ならば発動時に中心から複数の術式へ分岐させる。
問題は、標的判定。
周囲のすべてへ無差別に作用させると木や他の生物まで巻き込む。
今必要なのは、アクロマンチェラに対してのみ作用する範囲指定。
一度目。
杖を振る。
失敗。
光が途中で拡散し、二匹を吹き飛ばしたところで消えた。
「分岐が早すぎるか」
二度目。
今度は出力を維持したまま、発動直前に分割する。
三匹。
まだ足りない。
蜘蛛たちはどんどん近づいてくる。
牙が見える。
毒が滴っている。
「もう少し」
三度目。
対象判定を簡略化する。
周囲にあるアクロマンチェラ特有の反応だけを拾う。
杖を振った。
光が扇状に広がった。
前方にいた蜘蛛たちが、ほぼ同時に吹き飛んだ。
「おお」
成功。
もう一度。
今度は範囲を広げる。
さらに十数匹。
木の幹や地面にはほとんど影響がない。
十分使える。
そこからは早かった。
森の一角が騒然となった。
次々に現れる巨大蜘蛛へ範囲化した呪文を放つ。
こちらへ向かってくる個体だけを狙う。
最初は数に任せて突進してきたアクロマンチェラたちも、次第に様子が変わった。
あちこちに仲間が倒れている。
コロニー全体から見れば、まだ数は多い。
しかし、少なくともこの周辺に集まっていた個体のかなりの割合が動かなくなった。
そこでようやく。
蜘蛛たちが後退し始めた。
一匹が逃げる。
それにつられて数匹。
そして、残りも森の奥へ散っていった。
余は杖を下ろした。
「危機管理能力はあるらしいな」
少し遅い気はする。
周囲を見る。
目的の材料は十分すぎるほどある。
「ペン」
パチン。
「お呼びでしょうか、ご主人様!」
ペンが現れた。
そして。
周囲を見た。
巨大な蜘蛛。
巨大な蜘蛛。
巨大な蜘蛛。
大量に転がっている。
ペンの顔が固まった。
「……ご主人様」
「何だ」
「ここはどこでございますか?」
「禁じられた森だ」
「禁じられております!」
「名前の通りだな」
「そういう意味ではございません!」
騒ぎ始めそうだったので、先に用件を伝える。
「そこに転がっている個体から毒を採取しておいてくれ」
「毒でございますか?」
「ああ。非常に強い。直接触れない方がいい」
「どの程度でございますか?」
「まともに受ければ、組織損傷が急速に進むらしい。正確な速度は資料によって違うから、素手では触るな」
ペンがさらに嫌そうな顔をした。
「採取しましたら、塔の研究室へ運べばよろしいでしょうか?」
「そうしてくれ。容器は二重にして、外側にも識別札をつけておいてくれ」
「畏まりました」
「あと死体の一部も標本として保存しておこう」
「かしこまりました」
アクロマンチェラの毒を手に入れてから、研究は一気に進んだ。
まず、禁書に載っていた毒性魔法薬を再現した。
もちろん、実際に誰かへ使用するためではない。
毒の作用機序を理解しなければ、解毒薬を作れないからだ。
最初に行ったのは、毒そのものをいくつかの状態へ分けることだった。
魔法的活性。
生物学的な毒性。
組織への腐食作用。
神経系へ及ぼす影響。
血液に混ざった際の反応。
一つの「毒」と呼ばれていても、実際には複数の作用が重なっている。
そこで、魔法的処理によって一部の作用だけを弱めた試料を作り、どの要素を消すとどの症状が消えるのかを比較した。
最初の仮説は外れた。
毒性の中心は魔法的活性にあると思っていたが、それを大幅に抑えても組織障害は残った。
逆に、特定の成分だけを不活化すると、腐食性はほとんど消えるのに神経症状に関わる反応は残った。
「単一作用ではないな」
記録へ書く。
さらに、既存の解毒薬をいくつか試した。
最初のものは、毒そのものへは反応した。
しかし反応が強すぎた。
毒と解毒薬が接触した瞬間に激しい発熱を起こし、これを人体内で起こせば毒より先に別の損傷が生じる。
失敗。
次の解毒薬は安全だった。
しかし遅い。
反応が完了するまでに時間がかかりすぎる。
アクロマンチェラの毒のように作用の速いものに対しては、間に合わない。
失敗。
三つ目はかなり良かった。
毒の主要な作用を短時間で弱める。
ただし、魔法薬そのものの副作用が強く、使用後にかなりの脱水が生じる可能性があった。
使えなくはない。
だが、もっと良くできる。
そこから組成を変えた。
一つの薬で全部を止めようとするのをやめる。
まず血中へ広がる速度を抑える。
次に主要な毒性成分を不活化する。
最後に、毒によって損傷した組織の回復を補助する。
目的を三つに分け、それぞれを別の作用へ担当させる。
そうすると安定した。
最初に作ったものより即効性はやや落ちたが、全体としての負担は遥かに少ない。
さらに順序を変える。
温度条件を変える。
材料同士の反応時間を調整する。
一つ変えるたびに記録する。
効いた。
効かなかった。
効いたが副作用が強い。
安定したが保存性が悪い。
保存性は上がったが、今度は効果が落ちる。
試行錯誤は何十回にもなった。
最終的には、毒へ直接作用する成分だけではなく、身体側の回復機能を一時的に補助する魔法まで組み込んだ。
完全ではない。
毒を受けてから時間が経ちすぎれば、当然効果は落ちる。
すでに失われた組織を元通りにする薬でもない。
それでも、初期段階ならばかなりの確率で毒性を抑え、その後の損傷を大幅に軽減できるところまで来た。
「できたな」
解毒薬第一号。
非常に満足した。
しかし。
ここで終わる理由もない。
次に考えたのは、耐性である。
解毒薬は、毒を受けたあとに使う。
ではそもそも毒そのものが効きにくい身体を作ることはできないか。
前世の知識をそのまま当てはめるつもりはない。
魔法毒の作用は、通常の毒物とは明らかに違う。
それでも、生体側が一度受けた刺激に対して適応する現象そのものは、魔法界にも存在する。
ならば。
毒性を完全に失わせるのではなく、危険な作用だけを十分弱めた状態にして身体へ経験させれば、何らかの適応が起こる可能性がある。
もちろん、いきなり自分で試すほど愚かではない。
まず、毒の一部を魔法的に不活化した。
次に、残っている作用を測定する。
さらに安全域を十分広く取り、ラットで反応を見る。
完全に無反応なら意味がない。
強すぎれば危険。
ごく弱い反応だけが残る条件を探す。
これにも時間がかかった。
弱めすぎると何も変化しない。
少し強くすると、今度は負担が大きい。
そこで一度の強い刺激ではなく、十分な間隔を開けながら段階的に条件を変える方法へ切り替えた。
すると変化が出た。
同じ毒へ再び曝露したとき、初回より反応が弱い。
さらに時間を置いて確認する。
やはり弱い。
「……付いたな」
耐性。
少なくとも、一部については成立している。
重要なのは、単純に身体が毒へ慣れたのか、それとも魔法的な防御反応が形成されたのかという点だった。
そこで今度は、似た作用を持つ別の毒を使って比較した。
完全には共通しない。
ある毒への耐性は、別の毒にはほとんど効かない。
しかし、作用機序が似ているもの同士では、僅かに反応が弱くなる。
これも面白い。
共通部分がある。
毒ごとに完全に独立した防御ではない。
身体側が「毒の名前」を覚えているわけではなく、何らかの作用の特徴に対して適応している可能性がある。
ならば複数の毒へ耐性をつけた場合。
共通する部分は加算されるのか。
干渉するのか。
一方への耐性が別の毒への感受性を上げることはないのか。
新しい疑問が一気に増えた。
余は研究対象を広げた。
植物由来。
動物由来。
魔法生物由来。
作用の違うものをいくつか選び、それぞれについて安全な範囲まで毒性を落としたうえで反応を比較した。
結果は一様ではなかった。
比較的きれいに耐性が形成されるものもある。
何度試してもほとんど変化しないものもある。
身体が適応する前に魔法的作用そのものが別経路へ入るものもあった。
つまり。
毒耐性というものを一つの能力として考えてはいけない。
毒の種類ごとに、少なくともいくつか異なる仕組みがある。
一部は生体側の適応。
一部は魔力による防御。
一部は血液や組織そのものの変化。
そしておそらく、まだ余が理解できていないものもある。
非常に面白い。
最初はただ、アクロマンチェラの毒を使った魔法薬を再現したかっただけだった。
それが解毒薬へ広がった。
解毒薬から耐性へ。
耐性から身体側の魔法的防御機構へ。
また一つ。
研究が別の研究へ繋がった。
余は実験記録を閉じた。
身体がどこまで毒へ適応できるのか。
複数の耐性を同時に維持できるのか。
それは永続するのか。
時間とともに消えるのか。
魔法で補強できるのか。
さらに、毒だけでなく病原体や呪いにも同じような考え方を応用できるのか。
まだ分からない。
だから調べる価値がある。
そうして余は、また新しい研究項目を羊皮紙へ書き加えた。