感覚遮断TS落とし穴と股間の剣   作:なほやん

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『溜まっているのに、出ない』

 

 玄関の戸を、そっと開ける。

 

「遅い! 何時だと思ってるの!」

 

 リビングから母の声が飛んできて、私は「ただいま」と「ごめん」を半分ずつ混ぜたような音を出す。

 電気のついた食卓には、夕飯と、学校の提出書類と、角の擦り切れた赤い冊子が置いてあった。

 

「風香、その腰の……何それ?」

「え? あ、演劇部の小道具」

「……凝ってるのね」

 

 通った。

 

「先に風呂入る?」

「う、うん。いや、やっぱ後で。先にトイレ」

 

 自室に駆け込むより先に、私はトイレに駆け込んだ。

 昨日まで存在しなかった剣が、静かに主張している。

 

 便座に座る。

 落ち着け、私。

 呼吸を整えろ、私。

 現実を見ろ、私。

 

 指先でその剣に恐る恐る触れた瞬間、びくっと反応した。

 

ひゃっ!?

 

 トイレの個室で一人、変な声を上げた女子高生。終わってる。

 私は両手で顔を覆い、三十秒ほど人間をやめた。

 

 夕飯中、テレビではローカルニュースが流れていた。

 

『本日夕方、幕別町(まくべつちょう)山間部でクマの目撃情報があり——』

『目撃者によると、クマは人家を避けるように移動していたということです。』

『次のニュースです。同じく幕別町山間部で、大岩が何者かに両断された状態で発見されました。警察は器物損壊の可能性も含めて——』

 

 味噌汁を吹きそうになって、私はむせる。慌てて牛乳を掴んで流し込む。十勝の牛乳は、こういう時だけ無駄にうまい。

 

「大丈夫?」

「だ、だいじょぶ」

 

 ニュース画面のテロップには、でかでかと「注意」「凶暴化」の文字。

 私の脳内には、大岩を割った白い光と、逃げていくクマの背中。

 

 あれ、夢じゃない。

 あれ、現実。

 あれ、やばい。

 

 食後、母が洗い物をしている隙に、私は日記を机に開いた。

 一ページ目はまだ淡く光っている。

 

『汝がこれを読む時、我はすでに冥府の客であろう。』

 

 そこから先は、全く読めない。

 

 あの時、私は剣を振った。

 その直後に、一ページ目が光った。

 

 つまり。

 

「もう一回ヌいて、アレを出せば……わかるかもしれない」

 

 私はパーカーを羽織って、家を抜け出した。十月の夜気が頬を刺す。

 行き先は途別丘の手前、使われなくなった資材置き場。

 

 剣を抜く。

 

 一度目は、空を切った。

 何も起きない。

 

 二度目。三度目。四度目。

 出ない。溜まっているのに、出ない。

 

 五度目——切っ先が、じわりと光った。

 白い雫みたいに、どろりと滲む。

 一度滲み出したら、止まらなかった。振るたびに光が腕を伝って、ぽたぽたと落ちる。

 

 樺の木が白樺になった。

 

「なに……これ」

 

 太腿の裏が痙攣して、立っていられない。息が荒い。

 でも、違う。

 あの瞬間みたいな、腰の芯をひっくり返されるような熱には、届かない。

 

 がっかりした自分に気づいて、顔から火が出る。

 なに期待してるんだ、私は。ばかか。

 

 帰宅して部屋に飛び込み、日記を開く。

 

 二ページ目が、光っていた。

 

 震える指で、最初の行を追う。

 

  ───────

 

 魔王が禍刃によりて、我が半身は地に落ちぬ。

 膝より下は石のごとく、命じても応えず。

 血潮は尽き、命火は風前の灯。されど我、なお地に伏さず。

 盾は砕け、槍は折れ、友の名は戦塵に埋もれたり。

 風のみが、亡き友の代わりに我が名を呼べり。

 

 我は剣を杖とし、腕のみで土を掻き、泥を食みてなお進めり。

 この刃、奇怪なり。災厄の気配近づくほど、烈しく冴え渡る。

 ゆえに我は知る。魔王は未だ、我らの喉元に在り。

 

 されど剣を捨つるは、我が誓いに背くこと。

 ゆえに我は、夜の涯に棲む三人の魔女へ救いを求めんと決した。

 今宵、黒き森を這い越え、魔女の(いおり)へ向かう。

 もし我が半身戻らずば、明日の日輪は我に昇ることなし。

 

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