翌朝、教室の空気はクマに支配されていた。
「昨日、うちのじいちゃんが山でクマ見たって」
「なまらやばくない?」
「じいちゃん、クマに話しかけられたとか言ってたべさ」
「てか、岩割れてたんでしょ。炭◯郎?」
周りの声は私の耳には入っていなかった。
あの日記、誰のものなんだ。
「我」って誰だ。勇者? 王様? 中二病の詩人?
魔王だの魔女だの書いてあったけど、あれ全部ほんとなのか。
そんなことを考えていたら、先生の声が頭上に落ちてきた。
「幕田さん、授業に集中して」
「すみません……」
教室のあちこちから、くすくす笑い。
私はノートに意味のない円を描きながら、顔を伏せた。
放課後の部室に、声が響いた。
「これは我が前に見える短剣か」
女子校ゆえに男役も女がやる。私が暴君役で、
万場花子。略して万子。読み方は「ばんこ」。間違えてはいけない。
普段の万子は眼鏡に三つ編み、教室の隅が定位置の女だ。それが将軍の軍装を着て眼鏡を外した途端、部室が静まった。
「万場さん、目つき怖っ」
「
万子は眼鏡をかけ直して「うるさい」とだけ言った。
衣装合わせで黒いロングコートを羽織り、髪を後ろで束ねただけなのに、今度は私の方で部室がざわついた。
「幕田、やば、王子じゃん」
「待って無理、顔がいい」
「踏んでください」
最後のやつ誰だ。
手の中で、あの剣が、ぴくりと反応した。
控えめに言って短剣ではない。
やめろ。
やめてくれ。
人前で、それは、やばい。
「顔赤いけど大丈夫?」
「だ、だいじょぶ! 役づくり! 王の苦悩!」
苦悩は本物である。
「幕田、ちょっと休みなさい」
「はい、壇先生」
「壇監督とお呼び!」
うちの演劇部は変人しかいないのか。
私は台本を抱えたまま、倉庫に逃げ込んだ。
掃除用具と古い大道具の匂いがする薄暗い空間で、壁にもたれて荒い息を整える。
だめだ、収まらない。
剣がまだ脈を打っている。
私は目を閉じて額を壁に押しつけた。収まれ。今は。頼むから。
剣を振る。
一回。尾骶骨の底で、ぱちん、と何かが弾けた。
二回。電流だ。脊椎の節をひとつずつ叩き上げるように、鮮烈な痺れが駆け上がる。腕の産毛が、一斉に逆立った。
三回。稲妻が肩甲骨の間で裂けて、指先まで灼いて、切っ先に吸い込まれた。
四回。
白い線が走り、積んであった発泡スチロール製の背景板を、音もなく真っ二つに裂いた。
「うわ」
私は自分で裂いておいて、自分で引いた。
断面が焦げてもいない。刃が通った跡だけが、嘘みたいに綺麗だった。
気持ちよかった。
それが、一番まずい。
恐怖じゃない。罪悪感でもない。
背骨の芯にまだ痺れが残っていて、もう一回やれば、もっと深いところまで行ける——体がそう叫んでいる。
ちがう。
これは、日記を読むためなんだから。
帰り道、私は寄り道をした。
クマが怖い。怖いけど、確かめたかった。
途別丘の手前、ナナカマドの赤い実が夕日に光る道を登る。
昨日、白い光で両断した大岩。ニュースにもなった場所だ。
岩は、あった。割れた断面が斜光に晒されている。
でも、穴がない。
私が落ちた穴。すべての始まりの穴。
草を掻き分け、膝をついて土を触った。まるで最初から何もなかったみたいに、地面は固く閉じていた。
私はその場で鞄から日記帳を取り出す。
手汗で革表紙が滑る。
三ページ目が、光っていた。
喉がひくつく。
呼吸を止めて、頁を開く。
───────
黒き森は口を開け、我が歩みを呑まんと牙を鳴らせり。
されど我は退かず、血泥にまみれたる足にて魔女の庵へ至れり。
枝は腕のごとく肩を掴み、根は足首に絡みて引き戻さんとせり。
第一の魔女は灰を舐め、焔なき炉を撫でつつ言えり。
「肉は失せど、意志は失せず。意志こそ刃の鞘なり」と。
第二の魔女は錆びし針にて星図を裂き、言えり。
「汝の欠けし半身、汝が世にはあらず。されど
第三の魔女は血濡れの予言書を胸に抱き、屍に半ば足を入れつつ言えり。
「魔王には生まれの護りあり。定めに適わぬ刃にては滅せず」と。
「滅びきらざれば、魂は器を遷りて世を巡る」と。
ならば、その定めに適う者を喚べばよい。
我は魔女へ命じたり。
我は進む。進むほかなし。