目が覚めた瞬間から、鳩尾の奥が重かった。
飢えている。
スマホが07:21を表示している。アラームを止める手が、勝手にシーツの下へ伸びかけて、慌てて引き戻す。
朝から何してるんだ、私は。
渇いている。昨日の感覚が、まだ体の芯に残っている。
あの、下腹の奥で何かが溶けていくような熱を、もう一度。
だめだ。
朝。自室。窓の外で猿別川の霧が光っている。日常。学校。
私は布団を蹴って、無理やり立ち上がった。
立ち上がったのに、体が学校の方を向いていなかった。
気がついたら制服のまま裏口を抜けて、朝靄の中を走っていた。
いつもの斜面で剣を抜く。
振る。
朝の空気は夜より冷たくて、吐く息が白い。
三回で、鳩尾の奥に重い水が溜まる。体が道を覚えてきている。
四回。
白い線が木の幹を裂いた。朝日の中で、断面がきらりと光った。
気持ちいい。もう怖くない。
怖がる自分は、もうどこかに行ってしまっていた。
時計を見て、血の気が引いた。一時間目に間に合わない。
一時間目は美術だった。遅刻して飛び込むと、教室の空気がむわっと肌に張りついた。
女子校の匂い。制汗剤と柔軟剤とシャンプーが混ざった、甘ったるいやつ。
今までなんとも思わなかったのに、剣がぴくりと反応した。
やめろ。朝からもう二回目だぞ。
「万子のパパ、今朝も駅前で朝立ちしてたよー」
「パパじゃなくて父……選挙近いから。クマ対策が争点なんだって」
アサダチ。
「はーい、みんな静かに。じゃあ画板持って。今日は気持ちいい写生日和だから」
シャセイ。
万子が横から覗き込んできた。
「ねえ幕田。ほんとに、なんかあったら言ってね」
「うん。ありがと」
声が嘘くさかったのは自分でもわかった。
万子の口が、何か言いたげにパクパクと開いて、閉じた。
放課後。
今日は部室のドアを開けた。
「幕田! 来たじゃん!」
「ごめん、ちょっと体調崩してて」
嘘が、前より滑らかに出た。
読み合わせが始まる。万子が将軍の台詞を読み、私が暴君の台詞を返す。
——三行で、限界だった。
腰の奥が疼いている。台本の文字が滲む。万子の声が遠い。
体の半分が、もうあの斜面に立っている。
「……ごめん、やっぱ気持ち悪い」
「え、大丈夫? 保健室——」
「平気。外の空気吸ってくる」
万子の目を見られなかった。
部室を出た足が、校舎裏の坂を登っていた。
外の空気なんか、吸いに行くんじゃない。わかっていた。
言い訳がひとつも要らなくなった。ただ、振りたい。それだけだ。
斜面へ向かう獣道の脇に、鹿が倒れていた。
目を逸らして、通り過ぎた。この山でエゾシカが死ぬのは珍しくない。
周りに、クマの足跡があった。でも、今の私にはこの剣がある。
二度目の斜面。朝とは影の角度が違う。同じ場所なのに別の顔をしている。
回数は、もう数えていなかった。
気がつくと日が傾いていて、手のひらに赤い筋が走っていた。
柄で皮が擦り切れている。
座り込んで、両手を見る。
——これ、やばいやつだ。
なんとなく、知っている。
やめたくてもやめられない。回数が増える。日常に支障が出る。
依存症のチェックリストに全部当てはまる。
ただし項目は「剣の素振り」。どの外来を受ければいいのか、まったくわからない。
わかっていて、明日もここに来る。
それも、わかっていた。
鞄から日記を引っ張り出す。革表紙が汗で湿っていた。
開く前から、光が漏れていた。
───────
三人の魔女、黒き塩を円に撒き、月蝕の時を待ちて儀を開けり。
炉には鉄と乳香、杯には我が血と灰。
魔女らは天を仰がず、地に口づけし、
「来たれ。魔王を倒す者よ」
「来たれ。此岸ならぬ彼方より」
「来たれ。欠けし勇士の肉を継ぐ半身として」
門は開き、異界より半身が現れたり。
魔女は呪火をもて異界の肉を我が体に灼き継ぎたり。
悲鳴は祈りとなり、我は再び立ち上がれり。
されど魔女は続けたり。
我が命尽きる時、この借りし半身は元の主へ還るべし、と。
されど——告白すべし。
異界の肉を継ぎし日より、失いし半身の
在らぬはずの脚が疼き、在らぬはずの熱が腰を灼く。
この渇きは剣を振るほどに深まり、満たすほどに飢える。
我もまた、
願わくば、我が命尽きるまでに魔王を討ち、この借りし肉を、元の主に災いなく還さんことを。